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王太子、決断する

 トリスタンは重厚な彫刻を施した扉の前で大きく深呼吸した。扉を開けたら最後、一世一代の戦いが彼を待ち受けているのだ。


 トリスタンはこのシュトラールラント王国の第一王子であり王太子だ。戦いにあっては父の代理として軍の先頭に立つことも期待されている。しかし幸いにも戦乱の世は既に遠く、曽祖父の代からこの国が争いに巻き込まれたことはない。

 だからこれは彼にとって最初で最後の戦いになるはずで、しかも絶対に負けられないものだった。扉を開ける前に、かつてない緊張と不安に駆られたとしても無理のないことだと言えるだろう。


「殿下……?」


 だが、そんな怖じ気も彼の袖をそっと引っ張る少女の優しい声に、愛らしい姿に霧散する。

 栗色の瞳を心配げに潤ませて彼を見上げる少女こそ、トリスタンが心から愛する人、生涯を共にしようと決意した人だった。


 アイヒェンオルト男爵令嬢ユリアーネ。


 瞳と同じ栗色の髪も、その巻き毛が揺れる細い肩も。兎を思わせるおっとりと優しげな顔立ちも。どこもかしこも口付けしたくてたまらない。しかも彼女が可愛らしいのは見た目だけのことではない。控えめで思いやりに溢れた人となりも、非常に得難く愛しいものだ。


 彼女のためにこそ、彼はこの――ある種の――戦いを挑むことにしたのだ。全ては、彼女と生きるために。


「大丈夫、何も心配はいらないよ。――君は何も言わなくて良い。全て私に任せてくれ」

「はい、でも……」

「大丈夫だから」


 ユリアーネを守らなければ、と思うと身体の芯から力が湧いてくるのが分かる。このか弱く優しい人には何も心配などさせてはならない。愛しい人を守れもしないで愛を語ることなどできるはずがない。


「私に任せて」


 もう一度言い聞かせると、ユリアーネの額に口付ける。一瞬だけ触れた温もりが、最後に踏み切る勇気をくれた。


 軽く咳払いをし、背筋を伸ばし。ユリアーネと寄り添って。トリスタンは扉を押し開けた。




 中に待ち受けていたのは、トリスタンの両親である国王夫妻。第二王子のジークフリート。そして国の中枢を担う高位の貴族たちだった。王太子の入室に、国王夫妻以外の全員が起立して礼をとる。それは次代の王となる者に対しての当然の礼儀だった。だが、いかめしい顔つきの重鎮たちが一斉に立ち上がる様は、ユリアーネには威圧的に思えたらしい。彼女はトリスタンの腕にぎゅっとしがみつき、彼の心臓の鼓動を早めさせた。


 とはいえ恋人の温もりを堪能ばかりしている訳にもいかない。トリスタンは青い瞳に力を篭めて、並み居る貴族たちを見渡した。この場にいる者で、話が通っていないのはただひとり。いや、ユリアーネも入れればふたりか。だが、とにかく大半のものは彼の意思を承知してくれている。最後のひとりを納得させさえすれば良いのだ。ひるむ必要などない。


「今日は私のために集まっていただいて感謝する――」


 だから威厳をもって告げようとしたのだが、トリスタンの言葉は言い切らないうちに遮られた。


「王太子殿下のお呼びに答えるのは臣下としては当然のこと。それも我が娘が嫁ぐお方となればなおさらでございます」


 王子を圧倒する堂々とした声を響かせたのは、レーヴェンブリュール公爵だった。彼こそ話が通っていない唯一の列席者で――そして、トリスタンの婚約者の父親だった。

 王家との繋がりも深い公爵の髪は、獅子(レーヴェ)を思わせる金。そして怒りをちらつかせて口元を歪め目を細めたその姿は、不機嫌に唸る猛獣そのものだった。


「もっとも最近は娘を伴うこともまれになったようですが。今日も娘を放って他の女性をお連れになるとは。どのようなお方か、もちろんご紹介いただけるのでしょうな?」

「もちろんだ、公爵」


 公爵の鋭い口調におびえるように、ユリアーネが一層強くトリスタンにしがみつく。そんな彼女を安心させようと、トリスタンは彼女の腰を抱き寄せた。さらに公爵の目を真っ直ぐに見返し、はっきりと宣言するように、言う。


「この方はアイヒェンオルト男爵令嬢ユリアーネ嬢。先日狩りで迷った際に世話になった」

「覚えております。その節は娘も大層心を痛めておりました」


 公爵は視線をちらりと横に向けた。そこに黙然と佇むのは、トリスタンの()()()婚約者――レーヴェンブリューレ公爵令嬢アーデルハイト。父親と同じ金色の髪に、宝石のような青い瞳。ただしその雰囲気は獅子というより気高い紅薔薇を思わせる。それも、刺を残して凛とたたずむ清らかな薔薇だ。

 彫刻のように整った顔に今は表情はなく、瞳も凍ったように静かにトリスタンとユリアーネを――婚約者が他の女と寄り添っているのを見つめている。


(大丈夫、彼女(アデル)にも話してある。分かってくれているはずだ……)


 トリスタンは自分に言い聞かせると、できるだけさらりと、全く悪いことだとは思っていないと聞こえるように公爵に笑いかけた。


「そう。それ以来ユリアーネ嬢とは親しく交際するようになった。単に友情という意味ではない。私は、今では彼女を心から愛している!」


 この宣言に、トリスタンの腕に抱かれたユリアーネは息を呑み、レーヴェンブリューレ公爵は剣呑に目を細めた。


「娘を迎える前から寵姫を選ぶおつもりですか。未来の夫として不実であるとはお考えにならないのか」

「愛する人を寵姫にとどめるつもりはない。私は彼女と結婚する!」


 公爵の唇が弧を描いて笑いのような表情を作った。しかしその目は決して笑っていない。あまりの迫力に、愛するユリアーネが近くにいてなお、トリスタンが余裕ぶった笑顔を保つのにかなりの努力と勇気が必要だった。


「どこか遠い国では王は複数の妻を娶るものだとか。まさかとは思いますが殿下、そのような悪習をこの輝かしいシュトラールラントに取り入れられるとでも? 神の教えにも背くことになりますが」

「信仰の守護者としての王家の役割はよく承知している。同時に二人の女性を妻にするなどおぞましい考えだ。そのようなことは考えていないから安心して欲しい」

「まことに不思議なことを仰いますな!」


 怒れる獅子(公爵)はわざとらしく目を剥いて驚いた振りをした。そして同意を求めるように周囲の重臣を見渡しながら、皮肉をまぶして声高に言った。


「殿下はその令嬢を愛している、結婚したいと仰る。しかし殿下には我が娘、アーデルハイトという婚約者がいるではありませんか! 娘がいながら一体どのようにしてお望みが遂げられるというのです!?」

「方法はある、公爵」


 ここが正念場だ、と自分に言い聞かせて、トリスタンは声を張り上げ公爵の厳しい視線を受け止めた。指は、ユリアーネのそれと絡めている。愛する人が自分を頼っている。そう思うと次の言葉、決定的な言葉を言うことも簡単に思えた。


「私はシュトラールラントの王太子、および王族、王位継承者としての一切の権利を放棄する! そしてただひとりの男としてユリアーネに求婚する!」

「なっ……!」

「殿下!?」


 顔を真っ赤にして絶句したのはレーヴェンブリュール公爵。そしてユリアーネもまた小さく悲鳴のような声を上げた。

 驚いた顔さえも可愛らしい恋人を見下ろして、トリスタンは精一杯微笑みかけた。大丈夫だから、黙って任せていて、と言い聞かせるように。入室する前に言い聞かせたことを思い出してくれたのか、ユリアーネは不安そうに唇を半ば開きながらもそれ以上何も言うことはなかった。


 公爵が言葉を失った隙にトリスタンは畳み掛ける。


「地位を放棄するからには公爵令嬢であるアーデルハイトとは釣り合わない。よって彼女との婚約は破棄することになる。……継承権のことも婚約破棄のことも、既に父を始めとする国の中枢の方々には承知していただいている。王位はジークフリートが継ぐから問題はない」


 その言葉に、ジークフリートがにこりと微笑んでしっかりと頷いた。弟もまた、彼の計画に賛同してくれている。


 一方、公爵は慌てたように周囲を見渡し――彼らの顔色にトリスタンが事実を述べていると悟ったのだろう、音高く舌打ちした。


「手回しは済んでいるという訳ですな。ですが、娘の気持ちはどうなります!? アデルは殿下に嫁ぎ王妃として国を支えるために研鑽してきたというのに! その努力と献身を踏みにじると仰るか!?」

「アデルにも説明してある。後は公爵、貴方に納得していただくだけだ」


 トリスタンは祈るような思いでアーデルハイトの人形のような無表情を見つめた。先だってユリアーネのことを相談した時は、彼女は頷いてくれたのだ。彼女が――現在の婚約者が最大の難関だと思っていたが、彼の心変わりを許してくれた。だが、この場で言葉を翻して計画をひっくり返すつもりでは、という恐れが拭えない。

 ユリアーネの手を握り締めながら、トリスタンは息を詰めてアーデルハイトの言葉を待った。


「殿下の仰る通りですわ、お父様。わたくしも承知していることでございます」


 トリスタンだけではない。公爵も、ユリアーネも。この場の全ての人間が見守る中、アーデルハイトの唇が優雅な微笑みを形作った。


「殿下が心から愛するという方が現れたというのに、見苦しく引き止めるようなことできませんわ。わたくしはお二人の幸せを心から祝福いたします」


 彼女の言葉はどこまでも優雅で落ち着いた、高貴な令嬢にふさわしいものだった。だが、それを聞いた側の反応はそれぞれに騒がしかった。


「アデル! 正気か!?」


 父親である公爵は赤くなっていた顔を今度は白くして娘の肩を揺さぶっている。


「そんな!」


 ユリアーネは先ほどよりも高く悲鳴を上げてその場に倒れそうになる。そして、そんな彼女を抱きとめながら、トリスタンは歓喜を爆発させた。


「ありがとう、アデル、分かってくれて! 聞いただろう、ユリア、これでずっと一緒だよ!」


 父親に詰め寄られてもなお、アーデルハイトはゆるく首を振るだけで、心は変わらないと示した。レーヴェンブユール公爵は絶望したようによろめき、上座にいる王に縋るようにがくりと膝をついた。


「陛下もご存知でいらっしゃったのですか!? このようなことをお許しになるというのですか!」

「愚息の選択は余としても遺憾に思っている」


 トリスタンの父である国王は、公爵父娘を気の毒そうな目で交互に見た。しかし、その口調は淡々としている。国王も息子の説得に言葉を尽くした上で、気が変わることはないと諦めたのだ。


「だが、国を治める気がない者を王位に就ける訳にはいかないと判断した。余や重臣たちに相談するだけの理性が残っていたのは僥倖だろうか。幸いに第二王子のジークフリートも、若輩ではあるが能力としては申し分ない。……アーデルハイト嬢には大変気の毒なことだが。

 とはいえ彼女も了承してくれた。公爵よ、貴殿に異はあるか?」

「ございます」


 公爵は吠えるように答えた。しかし先ほどに比べると勢いはだいぶ弱い。既に外堀を埋められていたこと、呼び出された時点で結論は決まっていたことに気付いたようだった。


「ございますが、どうしようもありますまい。ですがこれだけは申し上げましょう。娘は了承したのではない。まして捨てられた訳でもない。殿下に愛想を尽かしたのです!」


 憮然として黙り込んだ夫に代わって、王妃も口を開く。国母の慈愛に満ちた微笑みで、公爵も息子も令嬢たちも等しく包み込むように。


「醜聞は全て息子のものです。アデルには決して嫌な思いをさせないようにしましょう。縁談に影響することなどないように」

「当然でございますな」


 もっとも公爵にとっては大した慰めにならなかったようだが。吐き捨てるような物言いは主君に対しては無礼だっただろうが、さすがにこのような場合に咎める者はいなかった。


「アデル、何と哀れな娘だ。王子だからとあのような男と婚約させてしまった、父をなじってくれ」

「わたくしは気にしておりません。仕方のないことですから。――陛下、トリスタン様のご用は終わったのでございましょう? 退出のお許しをいただきたく存じます」


 アーデルハイトはあくまで優雅にドレスの裾をつまんで国王へ礼をした。婚約を一方的に破棄されたばかりの令嬢とは思えない、冷静な立ち居振る舞いだった。――異常なほどに。


 しかし彼女の落ち着きはその場の者にとっては幸いだった。王太子の婚約破棄に、継承権放棄。これから調整すべきことは山ほどある。その中でも一番厄介そうなこと、泣き叫び取り乱す()婚約者を宥めること。それがなくて済むというなら、それに越したことはない。


 国王も露骨に声を弾ませてアーデルハイトに優しく語りかける。息子の暴挙を止められなかったことに忸怩たる思いがない訳ではなかったのだろう。


「そう、そうだな。そなたは帰って休むと良い。他の者も。トリスタンとジークフリートだけ残れば良い。……ユリアーネ嬢も休まれよ。緊張のあまりに顔色が優れないようだ」

「はい、父上。ユリア、また後で会おう」

「……はい、殿下」


 集った者たちは安堵した表情で次々に退出していった。その中には怒りが収まらない様子で足音高く踏み鳴らす公爵も、背筋をぴんと伸ばしたアーデルハイトも、なぜか俯いて背を丸めたユリアーネもいる。




 思い通りの成果に浮かれるトリスタンは気付かなかった。婚約破棄を申し渡された割に、アーデルハイトがあまりに冷静()()()ことを。恋人と結ばれるはずのユリアーネが、喜ぶどころか憂いに満ちた表情をしていたことを。

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