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星の消えた日

作者: az

 左手を動かそうとすると痺れが走る。指は緩慢に動くけど、震えて力も入らない。僕はマグカップを左手で取るのを諦め、右手に握り締めていたシャープペンシルを置いた。

「DD、休憩する?」

「少しだけ」

 僕はそれだけ言ってカフェオレを一口飲む。ほんのりとやさしい味がした。これは蜂蜜と生クリームが入った贅沢なもので、アキラが作ってくれた。アキラの母秘伝のレシピらしい。

 アキラはアメリカ生まれの日本人で、両親は大学の講師をしている。東洋人らしい黒目黒髪のくせに整った顔立ちで、背は僕より2インチも高い、今は。後三年したら僕のほうが3インチ高くなる予定だけどね。

 そして、こいつは天才だ。五歳頃までは僕が神童だなんて言われていたのに、気がついたらとっくに抜かれていた。今では若干15歳でMITのPD持ちという、すごい経歴の持ち主になってしまった。よくレプトンが、とか、クォークが、なんて研究内容を僕に教えてくれるけどさっぱり理解できない。この時だけは宇宙人と交信しているような神妙な気分になる。

 そして僕の手元にはチェックの入った数学の答案用紙が一枚。ペケとスラッシュの数がほぼ均衡しているという何とも残念な点だったりする。5歳の神童のこの落ちぶれっぷり。

 アキラからすると下らないものをやっているって自覚はあるが、こうして辛抱強く僕に勉強を教えてくれる。小さい頃はどんどん先を行ってしまうアキラを妬んでいたこともあったが、今となってはもう諦めの境地だ。アキラは優秀だし、礼儀もいいし、よく見るとかわいいし、くすんだブラウンにヘーゼル、ソバカスが浮いていてイケテナイ僕は完全に引き立て役だ。

 それでも僕はアキラが嫌いじゃなかった。



 今年に入ってからアキラは何かに焦っているようだった。研究バカだから色恋沙汰は想像できない。おそらく研究が上手くいっていないのだろうが、僕が訊いても力になるどころか、まず邪魔になる。できるのは勉強の合間に、眉間に皺を寄せたアキラを盗み見ることだけだ。こうやってね。

「DD、集中しろ。カフェオレおかわり入れてくるから」

「う、うん」

 別に催促していた訳じゃなかったんだけど。ああ、僕はもう勉強に没頭するしかない。

「そうだDD、ちょっとこれから勉強教える時間もなくなるかもしれない」


 日に日にアキラと会う時間も減っていった。アキラは研究室に篭もっているようで、たまに僕がサンドウィッチを持っていく。ドアからのぞくアキラの顔は憔悴していて、目に隈ができていた。年をとらないという日本人でも、すぐに老けてしまうのではないかと心配になるほどだったりする。結局、僕には何もできないんだけど。そしてカフェオレが恋しい。

 春が来て、夏が来てサマータイムを楽しんで、進級してテストを受けて泣きそうになって、ハローウィーンの準備に取りかかった頃だった。久々に窶れていないアキラがいた。

 ジュニア・ハイスクールから帰ってきた時、アキラは玄関の前で突っ立っていた。どうせ隣なんだから家でゆっくりしていればいいのにと思うけど、何もいえなかったのは黒曜石のような眼がまっすぐ僕を射抜いていたからだ。そういえば今日も来るって言ってたっけ。

「とりあえず入れよ」

 アキラは無言で僕の後についてきた。リビングのソファに座ると、アキラはキッチンでカフェオレを入れる。いつものことなのに妙に落ち着かないのはアキラがじっと僕を睨んでいるからだ。

「何? アキラの誕生日は12月だろ。もしかして僕の成績気にしてる? この前のレポートはいつものBマイナスだったよ」

「……ほら」

「うん」

 僕は右手でカフェオレを受け取る。左手をそっと添えて暖をとった。甘い香りを吸い込んで僕は笑みを浮かべる。久しぶりのアキラの味だな。

「なぁ、DD。君が小さい頃のこと、覚えてる?」

「うーん」

 みんなどれぐらい昔を覚えているもんなんだろう。

「そうだな。病院でアキラ、僕に縋って泣いてただろ。鼻水垂らしてさ。今のクールさからは全然想像できないけど、おっちょこちょいで玉子をレンジで爆発させたりとか。鶏肉でも爆発させた。あれには笑ったよ」

「あったな」

 アキラはため息をついた。

「それよりもっと前だよ。5歳の、2032年8月22日以前のこと」

 かなりのピンポイント。5歳以前は神童だったって話だけど、僕自身さっぱり自覚も記憶もない。ちやほやされていたんだろうなってのは今も残っている動画や写真からわかる。

「そんな、日付とか覚えている訳ないだろ。何歳かなんてすら怪しいし。アキラ、今日変なもん喰った?」

 アキラは難しそうな顔をして、マグカップをテーブルに置いた。

「ディビッド・ディア・ネイサン、私はその頃を覚えてる。DDはいつもレゴで遊びながら私には理解できない話をいっぱいしたんだよ。ニュートンの力学から、エウロパの海、無機物生物、サグラダファミリアの建築まで」

「へぇ」

「でも、急にDDは変わった。突然泣き叫んで、意味不明なことを呟いて」

「うん」

「その中で、唯一私にも理解できるものがあった。日付を言ったんだ」

 僕もカフェオレの入ったマグカップを置いた。

「DD、2042年11月2日だよ。今日だ」

 アキラはまっすぐに僕を見つめた。黒い輝きに吸い込まれそうになる。

「思い出せよ、ラプラスの悪魔」





 ラプラスの悪魔。



 18世紀の数学者、ピエール・シモン・ラプラスは運命論を語るときに仮説を用いた。

 ──もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。

 残念ながら、この世界はラプラスの信じるような決定論ではなかった。未来はいくらでも揺れ、定まらない。しかし、総てを識る存在、ラプラスの悪魔はいた。過去、現在のありとあらゆるものの知識を有する存在。

 僕だ。

 左手首を翳した。横にいくつかの古い傷跡が残っている。中心に一番太い線が一直線に引かれていた。頭に霞んでいた靄が一気にクリアになる。

「DD、君は幼い頃、言葉通りの神童だった。まだ知られていない理論も現象も、世界の果てまで数多あまねくもの総てを識っていた」

 頷く。そう、僕に勉強なんて必要なかった。最初から全部知識があったのだから。生まれたときから不思議と僕はそういうモノなのだと理解していた。

「アキラ、昔さ。宇宙の話をいっぱいしたね」

「ああ」

「宇宙が加速膨張しているとか、ブラックホールの存在とか」

「プロフェッサー・シュミットが言っていた、『今見えている銀河はすべて、われわれに光が届かないほど遠くへ離れてしまう。一方、わたしたちの銀河の星たちも徐々に衰えて死に、われわれは無数の星くずと暗黒宇宙の中に取り残される』この話に何度泣いたかな」

「うん」

 宇宙の消滅についても話したことがある。宇宙はどうやって死ぬのか、色々な議論があった。例えば、ブラックホールだらけになっていずれ蒸発してしまう、例えば、宇宙が収縮してしまう、例えば、宇宙は拡張し続け、死なない。

「アキラには、両親すら何も理解できなかったことを、五歳の僕はペラペラと喋っていた。今と真逆だ。でも、楽しかったんだ。色々な現象が絡み合って、未来を紡ぐのが、それを識るのが」

 でも、五歳のある日、突然僕は狂ってしまった。泣き叫び、抱きしめようとする両親も、アキラの手も振り払って、毛布に身体を埋め、怯えた。落ち着いて平気そうなふりをして3日後、両親を見送った僕は貯金箱から5ドルを抜き出し、お使いを装って剃刀を買った。母の睡眠薬と手首を切断するぐらいのリストカット、それで死ねると思ったんだ。5歳の子供なら。

「今でもぞっとするよ。DDが元気になったって聞いて、遊びに行ったら血まみれで倒れてたんだから」

「うん」

「ぐったりしてて、肩を揺すっても動かなくて、血を抑えても溢れてきて」

「うん」

 アキラの両手が僕の古傷に重なった。

「レスキューがやっと到着して、病院についても目を覚まさなくて」

 左手首の神経を傷つけて、死の淵を彷徨って、僕は自分がラプラスの悪魔であることを忘れた。



「星を見にいこうか」

 空はもう赤く染まっていた。公園には誰も居らず、僕とアキラはモニュメントに腰を下ろした。背中合わせに宇宙を見上げる。明星がもう煌めいていた。

「アキラはさ、そんなに勉強頑張ってたのって」

「そうだよ。DDが読み取ったことを知りたかった。絶望から救いたかった。結局、君を狂わせたものが何かわからなかったけれど」

「……ありがとう」

 背中越しに伝わる体温が温かい。宵から夜へ変わってゆく。空気が澄んでいるからか、5等星までよく見えた。

 どのくらいそうしていただろうか。

 オリオン座のアルニラムが消えた。しばらくしてミンタカも。ひとつ、ひとつ、闇に染まっていくようにだんだん星がなくなっていく。

「DD、星が!」

「うん。今から十年前の8月22日、宇宙が収縮を始めた。それは光子の何千倍何億倍もの速さで、急速に縮んでるんだ。光子をも飲み込み、星々を無にして、宇宙が終わろうとしている」

「それが、DDの……」

「計算は簡単だったよ。地球へ到達するはずの光子がいつ飲み込まれるだとか、宇宙の端がここにいつ来るだとか。それで昔、急に怖くなった。僕という存在が無かったことにされるのが。寂寞、虚無、様々な感情が僕を襲ってきて、この現実を十年耐えるより、死んだ方がマシじゃないかと思った。だから死のうとした。生きながらえた時は、もう何もかも忘れてしまいたくて、忘れた。でも、その後の10年はアキラがかけがいのないものに変えてくれたんだ」

 そんなに悪くなかった。甘いアキラのカフェオレも、勉強を教わるのも。かつて、あれほど恐怖した今日、こうして背中越しにお互いを感じながら過ごすのも。



「星が消えた。そして」

 明日が最後の──。



引用文献

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2832809/7874703

1812年 ピエール=シモン・ラプラス『確率の解析的理論』

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[良い点]  イーガンばりのSF的大風呂敷、センス・オブ・ワンダーに痺れました。  ふたりぼっちで世界の終焉を迎える情景が、絵画的で印象的です。 [気になる点] >掛け買いのない 「かけがえのない」の…
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