表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

お互い、大切な人は別にいたようで

作者: 星河雷雨
掲載日:2026/05/29

 


 茶色の髪は、この国に一番多い色。


 その平凡な茶色の髪を大地の色だと、薄い色合いの瞳を透き通る硝子のようだと褒めてくれたのは、婚約者ではない。私の大切な、友人だった。


 美しく聡明で、気高いその人が友人であることは、私の誇りだった。

 その人のことを理解し、その人の助けとなり、その人の心に寄り添えるのは私だけだと、そう思っていた。


 なのに、学園を卒業したあとに突きつけられた現実は、私を打ちのめすには十分だった。


 だから、私は――。


 

 ***



「……――クレア。クレア! 聞いているのか?」


 僅かな怒気の感じられる、聞きなれた声。


 思い出にふけっていたせいで婚約者であるジュリアンの話を聞き逃してしまった私は、慌ててそのことを謝罪した。


「あ――ごめんなさい、ジュリアン様。ぼうっとしてしまったわ」


 だが、ちゃんと自らの非を認め謝ったというのに、それでもジュリアンの機嫌は治らなかった。私が彼の話を真剣に聞いていなかったことが、相当面白くなかったのだろう。


「まったく……しっかりしてくれ。ただでさえ、普段から反応が薄いというのに……寝ているのかと思ったぞ」


 普段彼との会話で私の反応が薄いのは、彼の話がつまらないからだ。だがそんなことを言ったが最後、彼はたちまち怒り出してしまう筈だ。だから私は何を言うでもなく、ただ微笑むだけにとどめた。それがまた気に入らなかったのだろう、その微笑みを見たジュリアンが途端に白けた表情を見せた。



 ジュリアン・ガーランドは、ガーランド伯爵家の嫡男だ。まだ伯爵は健在であり、爵位を継いではいない。銀色の髪、藍色の瞳をした美しいジュリアンは、社交界では人気がある。だが、少々気難しい性格をしていた。これは、私が彼の婚約者となったからこそ気付けたことだった。


 そのジュリアンと私の生家、ピアソン子爵家との間で縁談が纏まったのは、今から一年前のこと。私が学園を卒業してすぐのことだった。


 初顔合わせの時にジュリアンに言われた言葉は、今でもはっきりと覚えている。


『随分と、ぼんやりとした色だな』


 一瞬、何を言われているのかわからなかった。


 それが髪色と瞳の色を言っているのだと理解した時には、思わず羞恥に顔を赤らめ、俯いてしまっていた。


 今思えば、ちゃんと言い返してやるべきだった。気に入らないなら、この婚約は取り止めたら良いのだと。何よりも、人の容姿を貶すなど、品位に欠ける行為だと。

 

 そうやって、当時のことを思い出し悶々としていた私にジュリアンが告げた内容は、思いがけないものだった。


「そうだ。先日城に行った時に、隣国からお戻りになった王女殿下に偶然お目にかかる機会を得てね。君は確か……学園で王女殿下とご一緒したのではなかったかい?」


 ジュリアンの問い掛けに、私はすぐに応えることができなかった。城で王女殿下とお会いしたという言葉に、気を取られてしまったからだ。


 そんな私に、ジュリアンが訝し気に声をかけてきた。


「クレア? 聞いていたか? 今日の君はどうかしているぞ」

「……え、ええ。ちゃんと聞いていたわ。殿下とは、四年間ご一緒させていただいたの」

「そうか……。私は残念ながら、学年がかぶっていなくてね。……本当に残念だ」


 言葉通りずいぶんと気落ちした様子で、ジュリアンが溜息を零した。


「王女殿下にお会いした時に一緒にいたマクレーンは、一年だけ殿下と学園に通った時期がかぶっていたそうだ。二人して私の知らない話を、それは楽しそうに話していたよ」


 彼の言うマクレーンとは、同僚であるアーサー・マクレーン卿のことだろう。彼とはなかなかに気が合うらしく、ジュリアンはいつも、遊びに行くときは彼を伴っていると本人の口から聞いたことがある。

 

 どうやらジュリアンは、そんな同僚でもあり遊び仲間でもあるマクレーン卿が、自分より王女殿下と親し気にしていたことが面白くなかったようだ。彼が相当な負けず嫌いであることは承知していたため、その時の彼の気持ちが、私には手に取るように理解できた。


「王女殿下は、美しい薔薇のような髪色に、黄金の如き瞳をお持ちだったよ。あれで未亡人だというのだから、まったく神は残酷なことをなさる」


 その時の王女殿下のことでも思い出しているのか、うっとりとした表情でジュリアンが語った。


 王女殿下の夫君――隣国の王が身罷られたことは、聞き及んでいた。けれど、王女殿下はそのまま隣国で余生を過ごすと思っていただけに、ジュリアンの言葉は意外だった。


「何故……お戻りになられたのでしょう」

「ああ。もともと愛妾として隣国の王の元へ行かれたからな。正式な婚姻すら、結んではいなかったのではないか?」

「そんな……」


 そんなことがあるのだろうかと、私は続く言葉を失くした。一国の王女が、正式な妻とも認められずに、夫が死んだのちは国に返される。本人の意思など、まるで無視した行いだ。


 あるいは――王女殿下本人が国に帰ることを望まれたのだろうかと、ふいに、そんな考えが浮かんできた。もしかしたら、隣国でお辛い目にあったのだろうかと。


「ともかく、これからは城へ行く機会のある度に王女殿下にお会いできるかもしれないと思うと、仕事にも余計精がでる」


 婚約者の前で悪びれもせずにそのようなことを言うジュリアンに、私は呆れつつも一応の釘を刺しておいた。


「ジュリアン様。王女殿下は、夫君を失ったばかりだわ。王女殿下のためにも、人々の噂になるような行動は、どうか慎んでくださいませ」


 私がそう言うと、ジュリアンは途端に機嫌を悪くしてしまった。


「またお小言か。君は本当に……冗談も通じないのだな。こちらは、冴えない婚約者の顔ばかり見せられているんだ。美しいものを見て癒されたいと思う心の、何が悪い」

 

 そう言って席を立ったジュリアンの背中を、私は黙って見送った。今日の定例の茶会は、これでお開きということだろう。今日はこれから一月後に控えた式の打ち合わせをする予定だったというのに、雑談をしただけで終わってしまった。


 だが私はすぐに、それでも特に問題はないだろうと思い直した。一応はこうして二人で話す機会を設けてはいるが、結婚式自体は、慣例に倣って粛々とこなすだけだ。


 それに――きっと彼はこれまで通り、すべて君と母上たちに任せるとしか言わなかっただろうから。


 私はジュリアンを直接見送ることはせずに、使用人に代わりを頼んだ。今は私の顔など、きっと彼は見たくもないだろうと思ったからだ。


 私は冷めてしまったお茶を侍女に下げさせ、新しいお茶を所望した。ジュリアンに合わせた、渋味の強いお茶ではない。まろやかで、花の香りのする、私が一番好んでいるお茶だ。


 そのお茶が来るまでの間、私はジュリアンの言葉を反芻していた。



『隣国からお戻りになった王女殿下』



「王女殿下……お戻りになったのね」


 風に揺れる柔らかな薄紅色の髪と、美しい黄金色の瞳。その瞳が柔らかく細められる瞬間を思い出し、私は頬を緩めた。


 婚約者の前で他の女性を褒めることは感心できないが、殿下を褒めちぎっていたジュリアンの気持ちもわかる。


 王女殿下は、大層美しい赤毛をお持ちだ。はっきりと濃い赤ではなく、淡い、金と赤を絶妙な加減で混ぜ合わせたような、美しい色。朝露に濡れた薄紅色の薔薇のように、透き通った、魅惑的な色だ。


 髪と同色の睫毛の下には、黄金よりもなお輝く、尊い瞳があった。しかもそのお姿は、花が人の形を持って生まれたようだ、と吟遊詩人に例えられるほど。


 確かに殿下は、愛らしく美しい。けれど、それだけではない。殿下は幼子のように、清らかな心をお持ちの方だ。殿下のその麗しいお姿といささか純粋すぎる言動は、常に周囲の者の心を惑わせ、そして捉えてきた。


 誰も彼もが、殿下を慕い、彼女の美しい黄金の瞳に映ることを切望した。


 王女殿下のことを語る時のジュリアンが、うっとりと、まるで恋する男そのものの表情をしていたのは、まあそういうことなのだろう。



***


 

 王女殿下の帰還を祝した舞踏会が開かれたのは、私が殿下の帰還を知ってから、二週間ほど経った頃のことだった。


 舞踏会への招待客は、若い者たちが多かった。どうやら王女殿下と歳の近い者たちを中心として、招かれているらしい。そのため、ジュリアンと私もその舞踏会に招待されていた。


 最初は順調だった。けれど舞踏会場へと続く扉を潜った直後、ジュリアンは自分の腕に添えられていた私の手を振りほどいた。


「悪いが、友人に用がある。あとは好きに楽しんでくれ」


 あまりにも自分勝手なジュリアンに、私は言葉を失った。女性一人を残しあとは好きに楽しめなど、よくぞ言えたものだ。婚約者のいる身で本当にこの舞踏会を楽しんでしまったら、不仲を噂されるか、貞淑さを疑われることになってしまう。こうなったら、一人残された私は壁の花になるしかない。


 溜息すら出てこない中壁際へ設置された休憩所へと向かえば、そこには数名の令嬢が一定の間隔を空けて、ソファに腰を下ろしていた。いくら女性が余り気味の舞踏会とはいえ、若く美しい女性が誰と踊るでもなく所在なさげにしている光景は、いささか異様に見える。


 この方たちはもしや、私と同じくエスコートを放棄された令嬢たちなのでは?


 そう思い会場中を見渡せば、とある一点に視線が吸い寄せられた。


 男性たちが数人、集まっている箇所がある。そしてその中心に見え隠れしているのは、薄紅色の薔薇の如き髪。王女殿下だった。

 

 男性たちに囲まれている王女殿下は、花のような笑顔を浮かべていた。だがそれは、あの頃のような、咲き初めの花のような笑顔ではない。香り高く咲き誇る、満開の花のような笑顔。


 あのような笑顔、私は知らない。今の殿下は、私の知っている殿下ではない。


 それでも私は、殿下の笑顔に見惚れずにはいられなかった。


 けれど同時に、胸にもやもやとしたものも感じていた。


 男性に囲まれ笑顔を振りまいている殿下のことを、面白くないと感じていたのだ。


 競うように、殿下の気を引こうとする男性たち。そしてその男性たちに、惜しみない笑顔を振りまく王女殿下。

 

 いつまでもその光景を視界に入れていることに耐えられず、私は王女殿下から目を逸らした。目を逸らす直前、黄金の瞳がこちらを見たような気がしたのは、きっと私の気のせいだろう。



***


 

 城での舞踏会から一週間程過ぎた頃、私とジュリアンとの定例の茶会が開かれることになった。


 私とジュリアンはこれまで、何事もなければ週に一度、茶会という名目で互いの仲を深めあっていた。言い換えれば、その定例の茶会以外で私とジュリアンが二人で会うことは、皆無に等しかった。


 元々相性の良くない二人の仲が、週に一度の茶会だけで本当に深まっていたかは首を傾げるところだ。だが、それが二人の間で――正確に言えば両家の要望で――交わされた取り決めなのだから仕方ない。


 けれど今回の茶会は少々、普段のものとは様相が異なっていた。


 まず、これまでずっとピアソン邸で開かれていた茶会を、ガーランド邸で開きたいとジュリアンから申し出があった。


 次に、ジュリアンが私を迎えに来なかった。迎えに来たのは、彼の家の使用人だった。


 男性側の婚約者の家に出向く際、必ずしも男性側が女性側を迎えに来るというわけではない。けれど今回に限っては、ジュリアンが迎えに来るのが妥当だろう。

 予定を変更したのはジュリアンであり、男性が女性を迎えにくることには、女性側を危険に晒させるつもりはないという、男性側のその女性に対する献身という意味合いもあるからだ。


 もしやジュリアンは体調でも悪いのだろうかと心配したのは一瞬で、ジュリアン本人が迎えに来なかったことを謝る使用人の様子を見た瞬間、これはジュリアンの意志で行われたことなのだと直感した。


 彼の方から定例の茶会の会場を変えたいと言っておきながら、体調が悪いでもなく用事があるわけでもないのに、何の言い訳も用意せずに、自らがすべき婚約者の迎えを使用人に任せる。


 これらの行為は、もう私を大切にするつもりはない、気を配るつもりはないという、ジュリアンの固い意志の表れなのだ。そもそもが、一週間に一度は開かれるはずの茶会は、この二週間開かれてはいなかったのだ。


 この二週間、茶会を開く日が近づくと、仕事が忙しいため今回の茶会には出席できないとのジュリアンからの言付けが、彼の家の使用人によってもたらされていた。


 週に一度の茶会は両家での取決め事ではあったが、すでに来月には夫婦となっている二人だ。これまでずっと、ジュリアンが真面目に茶会に出席してきたことから、両親もジュリアンの欠席については、何も言ってはこなかった。


 ただ私としては、きっとジュリアンは少しでも王女殿下との時間を作りたいのだろうと、そう邪推してはいた。だからといって、彼に何を言うつもりもなかったのだが。


 とはいえ、二人の結婚まであと二週間もないというのに、久しぶりに開かれた茶会がこの有様では、腹を立てるなというのが無理というもの。


 馬鹿にするなと言って、その使用人を追い返すこともできた。父に詳細を告げ、ガーランドに対し苦言を呈してもらうこともできた。だが、私はそうしなかった。私に対し恐縮しきっている使用人にさっさと馬車を出すよう促し、彼の手を借りることなく、一人馬車へと乗り込んだ。


 可哀相だったのは、このような場面に居合わせることになった私の侍女だった。私のあとに馬車へと乗り込んできた時の侍女の顔色は、やはり今回の訪問はこのまま取りやめるべきではないかと、私に考えさせた程だった。


 実際私の取った行動は、賢い選択ではなかったのだろう。やはり、父に今回のことと前回の舞踏会でのことを伝え、然るべき対応を取ってもらうべきだったのかもしれない。


 自棄になっていた、といえば事実そうなのだろう。だがそれよりも、その時の私はジュリアンに対する闘志を燃やしていたのだ。それは私にしては、随分と珍しいことだった。


 私はかなり早い段階で、彼と相互理解を深めるということを放棄していた。ただ黙って彼に従っていれば、彼の機嫌は保たれたから。彼の前では常に感情を荒げず、言わねば彼の恥になると思った時以外には、余計なことは言わなかった。


 自分の話はせず、彼の話に耳を傾けた。


 彼との会話を、楽しいと思ったことはない。


 彼は、常に誰かの悪いところを見て、それを私に話して聞かせ、そして同意を求めた。

 何か失敗をすれば、それは自分の責任ではなく他人の責任であると嘯き、己の自尊心を守っていた。


 彼といると、私の世界はどんどんと暗く、狭く、つまらないものになっていった。


 彼と私が、これまで分かり合えたことはなかった。そして残念ながら、今後もきっと、私と彼が分かり合えることはないのだろう。


 馬車に揺られながら、私はまるで希望の持てない、ジュリアンとの未来を考えていた。


 

***


 

 邸で私を迎えたジュリアンは、迎えに行けなかったことを謝るでもなく、邸を訪問したことを歓迎するでもなく、ただ不快そうに眉を顰め「入ってくれ」と言っただけだった。


 横ではなく前を歩くジュリアンの後ろ姿に、私は声をかけた。


「ジュリアン様」


 返事がないため、もう一度名を呼んでみる。けれど、やはり彼からの返事はなかった。


 一言の会話もないまま、私はガーランド邸の応接室へと案内された。開かれた扉の向こう、部屋の中を確認しても、茶会の用意はされていない。


 茶すら出さない気なのか。一瞬だけそう思ったが、私とジュリアンが席に着いた途端、見慣れた使用人がティーセットを運んで来た。


 引き続き何の会話もないままに、運ばれてきたお茶に口をつける。本来ならば、茶を提供された身として、言うべき言葉はある。だが今日だけは、意地でもこちらからは声をかけないつもりでいた。


 そうやって、一口二口茶を飲み下した頃合いで、ジュリアンがようやく口を開いた。


「もう限界だ、クレア。君との婚約は、白紙としたい」

  

 言い放ったジュリアンの表情には、私への隠しきれない嫌悪が浮かんでいる。


 その彼の態度に、私は少々驚いていた。


 これまで散々不愛想だ陰気だなどと言われてきたが、まさかそこまで嫌われているとは思ってもいなかったのだ。家同士の契約として結ばれた婚約を、しかも間近に控えた式を、彼の独断で壊そうとするほどとは。


 やはり、私にはジュリアンのことを理解できそうもない。


 彼が使用人にエスコート役を任せたと知った時から、私は今後の展開をある程度予測していた。きっと彼は、式の延期を、と言い出すのではないだろうかと。そのため、万が一にも私が怒りのあまりこの茶会を欠席などしないよう、自分で迎えに来ることはしなくとも、わざわざ迎え自体は寄越したのではないかと。

 

 だが、いくらなんでもこの婚約そのものをなかったことにしようとするなど、正直私は思っていなかったのだ。私のことなど、両家のことなど、彼は全く考えていない。ある意味、私はジュリアンという男を侮っていたのだろう。


 彼の眉は顰められ、視線には私に対する嫌悪と侮蔑が籠っている。だがその表情は迷いなく、力強い。


 自分の言動をまったく疑っていないだろう彼を前にして、私は覚悟を決めた。今日ばかりは、彼の言うことにただ頷いているわけにはいかない。彼に逆らうことになっても、言うべきことは言わなければならないだろう。矛盾しているようだが、そのことで、結果この婚約を壊すことになったとしてもだ。


「……理由をお聞きしても?」

「限界だと言っただろう。このまま君と結婚したら、私は一生不愛想な君と顔を突き合わせなければらなくなる。鬱陶しい小言を、耳に入れなければならなくなる。そんなことは耐えられない!」


 苦悶の表情を浮かべたジュリアンが、まるで悲劇の主人公のように言い放った。


 人間には、好みというものがある。相性というものがある。それはどうしようもないことだと理解している。私にだって理想の婚約者像はあるし、現在交友を結んでいる者たちの中でも、相性の良し悪しはある。


 だが貴族として生まれたからには、そんなことを言ってはいられないのだ。否、たとえ貴族ではなかったとしても、周囲との調和を考えれば、自分の気持ちだけに従うことは難しい。


 なのに、彼はためらいなくその言葉を口にした。私は呆れる一方、いかにも彼らしいと感じていた。


「限界……ですか」


 確認をとるように、あるいは自分を納得させるように、私はその言葉を口にした。


 馬鹿なことを、と。そう一蹴するつもりでいた。

 そのような理由で、父たちが婚約の解消を許すはずがないと。


 だがどうやっても、その言葉たちは喉の奥に詰まったまま、表に出て来ることはなかった。


 唾を飲み込もうと、息を吐き出そうと。

 私はそれ以上、言葉を続けることが出来なかった。


 もう限界。


 その言葉は私に向けられた彼の拒絶の言葉であるはずなのに、何故がすんなりと私の心にしみ込んだ。


 そうだ。私の方こそ、もう限界だったのだ。


 だって、彼の前では、もう笑顔はでてこない。


 優しい言葉も、気遣う言葉も、何も浮かんでこない。


 話しかけられたから、返すだけ。


 婚約者だから、それが義務だから。


 ただそれだけが理由だった。


「……わかりましたわ」


 ようやく出て来た言葉は、当初予定していた言葉とは正反対の、彼の我儘を了承するものだった。

 

「……わかって、くれたのか?」


 嬉しそうに、だが一抹の疑心を浮かべた表情で、ジュリアンがこちらを見つめている。そんな彼に、私は心からの微笑みを返した。それは、随分と久しぶりのことだった。それこそ、彼との初顔合わせの時以来かもしれない。


「ええ。ですが、ジュリアン様。私との婚約を続けられない理由がそれでは、婚約は白紙ではなく、貴方による一方的な破棄になるのでは?」

「なんだと……」


 眉を吊り上げたジュリアンが、今まさに座っていた席から立ち上がろうとした瞬間――。


 可憐な声音が、横から割り入ってきた。


「破棄で良いじゃない、ジュリアン」

「殿下……!」


 強張った表情の使用人が開けた扉からは、王女殿下が入って来た。


 柔らかな色彩の、波打つ赤毛(ストロベリーブロンド)が、彼女の身体の動きに合わせてしなやかに揺れている。殿下が私たちの元へと到達するより前に、私とジュリアンが囲むテーブルには、使用人によって王女殿下のための椅子が一つ追加された。

 

 その椅子に、王女殿下がゆっくりと腰をおろす。ただそれだけの動作が、なんと優雅なことか。


 何故、貴女がここに。


 そう問いかけようとしたことも忘れ、私は王女殿下に見惚れていた。


「確かに、今貴方が言ったことは、世間的にはまったく納得されない理由だわ。心を許せない相手との結婚が、どれほど心を蝕むのか……皆、わかっていないのよ」

「ああ、殿下……なんとお優しい」


 感極まったとでもいうように、ジュリアンが殿下を見つめている。その崇敬に近い眼差しを向けられている王女殿下は、彼の眼差しは当然であるとばかりに微笑んでいた。


「ねえ。貴女もそう思わない?」


 殿下の黄金の瞳が、ひたと私を見据えた。


 こうなっては、何故ここに、などと言っている場合ではない。殿下から直接、答えを求められたのだ。返事をしないわけにはいかないだろう。


「……殿下。ですが、婚約の解消については、私だけの意向で承諾できるものではございません。父の、そして伯爵様の許可を取らなければ」


 ジュリアンと私との婚約は、ジュリアンの生家ガーランド伯爵家と、私の生家ピアソン子爵家の当主同士で決められたもの。何事においても、決定権を持つのは私達ではない。


「あら。そんなに婚約者を失いたくないのかしら? 相手が嫌がっているのに?」

「私が良くても、父と伯爵様が許さないでしょう。私の、いいえ。私達の意向など、考慮されません」


 いくらジュリアンが私のことを嫌だと言っても、その我儘を伯爵がそのまま受け入れるとは思えない。いくら私がそれを承諾したとしても、父には一蹴されて終わりだろう。


 もっと何か、強力な理由が必要なのだ。たとえば……そう。相手側の不貞が露見するなどすれば、話し合いの余地は生じるだろう。


「父には私から話す。私には、真に愛する方がいるのだ。私はその方に、心を捧げている。お前がいくら私に取りすがっても、私の想いは変わらない」

「愛する方、ですか。……その方と、想いを交わされたと?」


 想いだけではなく、万一情を交わしていたとしたら、それは破棄の理由にもなる。そしてその場合はもちろん、ピアソン家側からの願い出となるだろう。


 だが、私はそうであって欲しくないと願っていた。


 そんな筈はないと、何故か確信めいた気持ちを持っていた。


 案の定、私の追及にジュリアンは言葉に詰まっている。唇を歪め、苦悶の表情を浮かべている。


「まだだ……。まだ、私の想いは伝えていない」


 そう言った際のジュリアンの視線が、一瞬だけ王女殿下に向けられた。彼のその縋るような行為を見た瞬間、腹の底からどす黒いものが湧いてきた。


「話になりませんわね」


 この期に及んで、ジュリアンとの婚約を守りたかったわけではない。なのに、気付いたらそんな言葉が口をついて出ていた。


 私の言葉に、ジュリアンが悔しそうに表情をゆがめている。自分でも、些か分が悪いと感じたのだろう。


 だが、ここでも再び王女殿下が味方した。


「あら。ジュリアンがここまで言うのだもの、きっとそのお方とは真実の愛で結ばれているのだわ。そうよね? ジュリアン」

「は、はい……! 殿下。きっとそのお方も、私を憎からず想ってくださっている筈です」


 ジュリアンに向けられる、王女殿下の花のような笑顔。その笑顔は、まるでジュリアンの愛を誘うかのように、蠱惑に満ちている。


 その光景を見た瞬間、私の心臓が大きく軋んだ。


 そんな筈はない。


 そう思う一方、まさか、という疑念も拭えなかった。


 扇子を持つ手が震え、呼吸が荒くなる。


 今すぐこの場から逃げ出したい。二人の姿を視界から消したい。そのような強い衝動に駆られた私は、思わず椅子から立ち上がっていた。


 私の突然の行動に驚いたのだろう、先ほどまでジュリアンに微笑んでいた王女殿下がこちらを見て、そして、大きく目を見開いた。殿下の視線を追うように、ジュリアンもこちらに顔を向けた。


「クレア? ……泣いているのか」


 心底驚いたという表情をしたジュリアンに声をかけられた瞬間、私はその場から駆けだしていた。



***



 突然部屋から飛び出した私を、ピアソン邸から連れて来た侍女が慌てふためきながら追って来る。途中ガーランド邸の使用人たちから声をかけられたけれど、私はそれらを無視して走り続けた。


 応接室から泣きながら出て来た、当家ご子息の婚約者。しかもその場には、王女殿下の姿。このガーランド邸の使用人たちの間で、一体明日にはどのような噂になっていることか。


 だが今の私には、そのようなことは些末なことだった。彼等だけではない、私自身の評判さえ、気にするところではなかった。


 あと数歩走れば、玄関に着く。


 そのほんの手前で、


「待ちなさい!」


 私を止めたのは、王女殿下だった。


 止めに来るならば、ジュリアンだと思っていた。


 だが彼に止められたとて、私は足を止めなかっただろう。


 王女殿下だから、この方だから。私はその場で足を止め、彼女に振り返った。


「王女殿下……」

「少し、話をしたいの。……良いかしら?」


 驚くほどに、優しい声だった。


 優しく、ゆっくりと。まるで相手を怯えさせぬよう、細心の注意を払っているかのような、そんな声。


 私が承諾の意を伝えると、殿下は私に殿下用の馬車に乗るように言い、私の馬車を帰らせた。


 馬車のなかには、私と王女殿下の二人だけ。侍女すら乗っていない。そんな息詰まる空間に気圧された私は、ゆっくりと、そして殿下に気付かれない程度にそうっと息を吐き出した。

 

 私の心境など知ってか知らずか、殿下が唐突な言葉をかけてきた。


「彼のことは忘れなさい。それがお互いのためよ」

「殿下……何故、何故このようなことを」


 何故殿下がこのようなことをしたのか、私には全く理解ができなかった。


 夫を亡くしたばかりの殿下。普通なら、まだ喪に服している時期だ。その普段よりもよほど貞淑であるべき期間にこのようなことしたら、殿下の評判に傷がついてしまう。


 殿下は、決してそのような人物ではない。それを知っているからこそ、殿下の行動が信じられなかった。


 まるでジュリアンのことのように、殿下のお気持ちがわからない。


「何故って? 愛していたからよ」

「……嘘です」 

「あら、何故そんなことを言うの?」

「だって……殿下がジュリアン様と会ったのは、この国に帰って来てからの筈……まだひと月も経っていません」


 私が言い終えると、殿下が小さく笑った。


「彼のことは、前から知っていたわよ? それに……彼から聞いたのよ。彼の婚約者はいつも無愛想で、表情に乏しくて、口煩くて、一緒にいると気が滅入るって」


 殿下の口から出てきた言葉に、私は思いの外傷付いてしまった。悲しくて、恥ずかしくて、私は無意識に唇を噛んだ。


 だがジュリアンの言ったことは、決して間違いではない。私はジュリアンに対して、期待することをやめていた。理解してもらうことを、諦めていた。彼といる時の私は、正に、ジュリアンが殿下に語ったような人物だった筈だ。


 だがそれは決して、誰に対してもそうだったわけではない。ジュリアンにだけ。婚約者である、ジュリアンにだけだ。


 だというのに、そのような言葉たちが、まるで今の私の本質だとでも言うように殿下の耳に届いてしまった。そのことが、とても辛く、恥ずかしい。


「彼からそう聞いた時、私、腹が立ってしまったの」


 感情を押し殺したような冷たい声音に驚き、私は思わず俯けていた顔を上げ、殿下の顔ををじっと見つめてしまった。


 けれど殿下は、私が思っていたような表情をしていなかった。怒っているのかと思っていたのに、殿下が浮かべていたのは、ただただ美しく柔らかい、無垢な微笑みだった。


 その微笑みを崩さぬまま、僅かに唇を動かし、殿下が言った。


「だから、解放してあげようと思って」


 美しい微笑みでそんな無邪気なことを言う殿下を、私は茫然と見つめていた。


 

***



 一波乱あったお茶会から半月もしない内に、ガーランド伯爵家からピアソン子爵家に、正式に婚約を破断にして欲しいとの申し出があった。しかも、ガーランド側の有責で。


 それは、結婚式の準備のためにかかった費用も、すべてガーランド側で持つということだ。それに加え、一方的に婚約の破断を望むなら、慰謝料もかかる。そのすべてをガーランドの家が負担することを許してまで、伯爵はジュリアンの我儘を受け入れたということなのだろうか。


 けれど私としては、驚きこそあったが、その決定に否やはなかった。


 だが破断の理由を話そうとしない伯爵に対し、父が納得しなかった。事と次第によっては、大事にせざるを得ない。そうはっきりと言い切った父に対し、伯爵は何かを観念したかのように息を吐き、沈痛な面持ちで、その事の次第を話しはじめた。


 ガーランド伯爵の話を要約すると、王女殿下の望み通りに私から解放されたジュリアンは、何故か捕らわれることになったらしい。


「何故だ! 私が何をしたというんだ!?」


 騎士隊に連れて行かれる際、ジュリアンはそのように叫び無実を訴えていたらしい。私としては、無実を訴えていたジュリアン同様、一体彼が何をしたのか誰かに問いただしたい気分だった。


 彼のことを、心配したわけではない。本当に、どういうことか分からなかったのだ。


 彼は確かに、嫌味で、気難しい人間だ。だが、それでも何かの犯罪に手を出すような人間だとは、私は思っていなかった。


 だが、何故ジュリアンが捕まったかの経緯については、ガーランド伯爵も、今の段階では詳しくはわからないのだという。


 家に捕縛に来た騎士たちは、ジュリアンが賭博に手を出していたためと言っていたらしい。世間一般では紳士の嗜みとも言われている賭博は、それだけでは捕縛の対象とはならない。だが、そこに違法性があるとなれば、話は別だ。


 一番考えられるとすれば、彼がいかさまをしたことだ。だがそうならそうと、捕縛にきた騎士たちもはっきりそう言うだろう。


 では、一体彼は、何をしたというのか。


 その疑問に答えてくれたのは、なんと王女殿下だった。



***



「さあ、クレア。召し上がれ」


 花のような笑みを浮かべ、王女殿下が私を見つめている。その黄金色をした瞳と一瞬だけ視線を絡ませてから、私はさっと視線を手元のティーカップへと移した。


「はい。殿下」


 カップを傾け、琥珀色の液体を口内へと流し込む。こくん、と飲み下した後、美味しいですと、感想を伝えた。まろやかな、花の香を纏うお茶。私の一番、好きなお茶だ。

 

 私の言葉を聞いた殿下は、それは嬉しそうに微笑んだ。


 私は今、城にある王女殿下の私室へと呼ばれている。


 急な呼び出しを受けてから、わけも分からぬまま用意された椅子に座り、ようやく落ち着いた所で何故呼ばれたのかと問うた私に、殿下はただお茶をするためと言い放った。


「あの、殿下……」

「何?」


 私の呼びかけに、殿下は何とも言えない愛らしい笑顔と、親しみの籠った口調で応えてくれた。


 そんな殿下の反応に驚いた私は、続けようと思っていた言葉を続けることが出来なかった。


「どうしたの?」


 何故、殿下の機嫌がこんなにも良いのか分からない。ジュリアンは捕まり、ジュリアンを解放したいという殿下の真の願いは、叶わなくなってしまったというのに。


 今の、朗らかに笑う殿下はまるで――。


「もしかして、私のこと怒ってるの?」

「え……いいえ」


 それは何も、急な呼び出しについて言っているのではないだろう、おそらく殿下が言っているのは、元婚約者であるジュリアンとのことについてだ。


 だがそのことに関しては、不思議だけれど、私はまったく怒っていない。それに、結局のところ私とジュリアンの婚約は、ジュリアンによる不貞ではなく彼の捕縛という醜聞によって解消されることになったのだ。殿下に対し怒ることなど、何もない。


「怒ってなどおりません」


 けれど、どうやら殿下には信じてもらえなかったようだ。信じてもらえなかった原因はおそらく、元婚約者のジュリアン曰く、この不愛想な顔のせいだろう。


「嘘。怒ってる」

「本当です。怒ってなどおりません」

「本当?」

「本当です」


 何度かのやりとりのあと、ようやく殿下は納得してくれたらしい。少しだけ強張っていた表情が、ふっと緩まった。


「そう。良かった。安心して? クレアには、もっと良い人を紹介するから」


 あまりにあっけらかんとした物言いで、私に新しい婚約者を宛がおうとする王女殿下に、私は困惑した。


「殿下……恐れながら申し上げます。殿下の御心が、私にはさっぱり理解できません」


 私の言葉を聞いた殿下は、大きな瞳を数回瞬かせたあと、ふうっと息を吐きだした。


「言ったじゃない。解放したかったのよ、貴女を」


 王女殿下の言葉に、私は咄嗟に息を詰めた。


「私、を……?」


 ジュリアンを私からではなく、私をジュリアンから。


「どうして……」

「今の貴女の顔。あの頃とは大違いだもの。よほど、あの男から酷い扱いを受けていたのね」


 殿下の言葉と視線に若干の居心地の悪さを覚えながら、私は元婚約者を擁護する言葉を口にした。


「……いいえ、王女殿下。確かにジュリアン様は理想の婚約者とは言い難い方でしたが、そこまで酷い方ではありませんでした」


 いつもつまらなそうな顔をしていたが、定例の茶会には、必ず出席していた。いつも私を貶す言葉を口にしていたが、決して暴力を振るうような人ではなかった。


 彼は無神経で、気難しくて、嫌味なことばかりを言う人だったけれど、婚約者として絶対的な瑕疵のある人物ではなかったのだ。


「貴女にそのような表情(かお)をさせているということ自体、あの男が碌でもない男だということの証よ」


 一体王女殿下の目には、私はどのような酷い顔に見えているのだろうか。そのことを考えると、今すぐハンカチで顔を覆ってしまいたくなった。


「……ジュリアン様の、捕縛の件ですが」

「ああ。別に私が手を回したわけではないわよ? 彼が国の認可を受けていない賭博場に通っていたことは、最初からお兄様に聞いて知っていたの」

「王太子殿下から?」

「貴女は知っていた?」

「……いいえ」


 ジュリアンが時々友人たちと、賭博場に行っていることは知っていた。けれど、まさか許可を得ていない賭博場へ行っていたなど、思うわけがない。


 違法賭博場は、法外な金が動く場所。ほんの遊び心と好奇心で、人生を狂わす者たちが大勢いる場所だ。私さえそのことを知っているというのに、遊び慣れたジュリアンが知らぬわけがない。


「仕方ないわ。周囲には上手く隠していたようだしね。いつも普通の賭博場で遊ぶ途中、抜け出して違法賭博場へ行っていたみたいなの。普通の賭博では、満足できなくなっていたのでしょうね。お兄様の密偵がその違法賭博の場で彼の姿を見たらしくて、それ以降気にかけてくれていたのよ」


 殿下の言葉に、私は内心で首を傾げた。なぜ、伯爵子息であるジュリアンを、王太子殿下が気にかけるのか。それが不思議だったのだ。私はその疑問を、そのまま王女殿下にぶつけた。


 返って来た王女殿下の答えは、まったく想像していないものだった。


「だって、貴女の婚約者だもの。妹の親友の婚約者が罪に問われる可能性があるというのなら、放っておくわけにはいかないでしょう?」


 親友と言われたことに喜びつつも、ジュリアンが捕縛された時のことを想像し、私は青褪めた。


 ジュリアンが犯罪者として捕縛されたことにより、私とジュリアンとの婚約は解消された。結婚前だったことから、私やピアソンの家に大した打撃はない。だが、もし発覚したのが結婚した後だったらなら……。

 

 離縁出来れば良い。だがこの国の宗教の教義は、離縁を推奨していない。ならば、私も彼と彼の家ともども、彼の犯した罪に巻き込まれていた恐れがある。


 私と彼との結婚は、目前まで迫っていた。王女殿下の介入がなければ、彼が捕らわれたころには、すでに式を終えていただろう。


「だから、あのような……」


 ともすれば、殿下の評判に関わるようなやり方を取ってまで、私を彼から逃がしてくれたのだ。


「どうにかして、貴女たちの結婚を延ばさなければと思っていたの。彼が捕まれば、いくらなんでも結婚式は中止になるでしょう? そのまま婚約解消となってくれることを期待していたのよ。まあ結果としては、その前に彼が白紙なんて言い出してしまったのだけれど」

「言ってくだされば……」


 王女殿下の言うことなら、私は何ら疑うことなく信じただろうに。


「彼との婚約を、解消できた? 貴女だけでは無理でしょう? 子爵に言う手も考えたけれど、やはり貴女は信頼できても、貴女の父親までは信頼できないわ。万が一子爵から伯爵へ話が流れ、違法賭博の関係者を取り逃すようなことにでもなったら、お父様とお兄様から怒られてしまうわ。一度は嫁に出されたけれど、これでも私、この国の王女だもの」 

「ですが……殿下の評判に、傷がついてしまいました」


 それが自らの愛の証とでも思っていたのだろうか、ジュリアンは誰の目も憚らずに、王女殿下を慕う様子を見せていた。殿下のことを考えろと言った私の言葉など、ジュリアンの中ではなかったことになっていたのだろう。


「大丈夫よ。傍からどう見えようと、私は彼と何の約束もしていないわ。彼が勝手に勘違いしたのよ」

「ですが……」

「私のことは大丈夫だってば。相変わらず心配性ね、クレアは」


 ジュリアンに向けていたものとはまったく異なる、晴れやかで爽やかな、力強い笑顔。これが、この王女殿下の本質なのだ。


 それは何よりも眩しい、あの頃とちっとも変わらない笑顔だった。


「それより、クレア。貴女どのような男性が好きなの? 好みを言ってちょうだい。お兄様にも手を貸して貰って、出来る限り貴女の要望に沿うような相手を見つけるわ」


 楽しそうに、嬉しそうに。殿下が微笑んでいる。きっと、私を励まそうとしてくれているのだろう。けれど私はその笑顔を見つめながら、きっぱりと殿下の申し出を断った。


「……殿下。私、もう婚約者は必要ありません」

「クレア⁉」

「侍女として……殿下にお仕えしたいと思います」


 本当は学園を卒業したあと、すぐに婚約などせず、侍女として城で仕えたいと思っていたのだ。両親にはそう伝えていたのに、学園卒業後私に待っていたのは、ジュリアンとの婚約だった。


 同時に、王女殿下には、隣国の王との結婚が待っていた。


 私が城で仕えたいと思ったのは、王女殿下に仕えたいと思ったからだ。殿下のいない城で仕えても、意味はない。だから私は大人しく、ジュリアンとの婚約を受け入れた。


「……どうか、私を殿下のお傍においてください」


 私がそう言ったとたん、殿下が目を見開き、次いで力の抜けたような笑顔を浮かべた。


「馬鹿ねえ……あのぼんくらの次は、私のお守りをしようというの?」


 殿下はそう言うが、これから一生あの男に尽くす筈だった未来より、殿下に尽くす未来の方が何倍、いや何十倍も良いに決まっている。


「私如きが殿下を守れるかは分かりかねますが、誠心誠意、お仕えいたします」

「……せっかく、逃げ道を用意してあげたのに」


 小さく落とされた殿下の言葉の意味がわからず、私は瞬きを繰り返した。


「貴女が本気でそのつもりなら……いいわ。貴女の身は、私が引き受ける。でもせっかく私の傍にいるなら、侍女ではなく友人としてはどうかしら?」


 友人として。


 殿下の放った言葉に、私は目を見開いた。


 殿下の言う友人とは、ただの友人ではない。友人(レディズ・コンパニオン)と呼ばれるその役職は、高貴な身分の女性などの付き人や話し相手として邸に同居する者のことであり、相手はもちろん女性に限られる。ただの使用人とは異なり、女主人と友人(レディズ・コンパニオン)との関係は、かなり独自性の高い関係だ。

 

 他国の王族の女性には、その友人(レディズ・コンパニオン)と似たような役割をこなす者が傍にいると聞いたこともある。だが、この国の王女や王妃に公式な友人(レディズ・コンパニオン)がいたという話は、いまだかつて聞いたことがなかったからだ。


 しかも子爵家出身の私では、身分が釣り合わない。


「ですが、殿下……王女殿下の友人など、聞いたことがありません。それに、私では身分が……」

「そこは大丈夫よ。私は一度お父様の頼みを聞いて、親子程に歳の離れた相手の元へ嫁にいったのだもの。私にはもう、二度目はないの。私が望むならどこへなりと嫁いで良いとは言われているけれど、そうでないならば、私はこれからずっと独り身でいることが許されているのよ」


 殿下の言葉の内容を咀嚼した私は、息を呑んだ。


 王位を継がない王族には、相応の爵位が用意される。殿下は女性であり一度嫁いでいるが、夫を亡くした今は未亡人だ。そしてこの国は女性にも爵位を与えており、陛下は、もう殿下には嫁に行くことを強要しないという。それの意味するところは――。


「お父様から、爵位を頂くの。あまり高位では周囲も何かとうるさいだろうからと、王位継承権はそのままに、子爵の位をね」

「まさか、そんな……」

「ふふ、驚いた? だから子爵家の生まれの貴女でも、大丈夫なのよ」


 私は到底信じられないという想いで、笑う殿下を見つめていた。こんな夢みたいなことが、実際にあるのだろうか。あって、良いのだろうかと。


 殿下の友人(レディズ・コンパニオン)となれば、ずっと殿下の傍にいることができる。雇用関係ではあるが、侍女としてでも使用人としてでもなく、学園時代に戻ったかのように、殿下とともに笑い、語らう、あの輝かしい日々が待っているのだ。


「殿下……」


 思わず殿下を呼べば、殿下が座っていた椅子から立ちあがり、優雅な足取りで私の目の前にやってきた。そして私の座る椅子の背に手を置き、その身を屈ませる。


 殿下の美しい髪が私の顔を掠め、殿下の美しい顔が、目前にある。


 一瞬で頬が熱くなった。


「で、殿下……近いです」

「名前で呼んで」


 常ならぬ迫力のある声と表情に、私は息を呑んだ。


「……学園を卒業してから、クレアは私のことを名前で呼んでくれないわ。正確に言うと、私の嫁ぎ先が決まってから」


 そう告げる殿下の声には、悲しみが満ちている。私の決断が殿下を傷つけていたのだと知り、胸が痛んだ。


 けれど、それは仕方のないことだったのだ。


 殿下は私にとって、家族よりも、ほかの友人よりも、もちろん元婚約者よりも。ずっとずっと、信頼でき、親しみを感じていた相手だった。


 その殿下が父親よりも年上の相手に嫁ぐと聞き、平静でいられるわけがなかったのだ。


 己の身分も忘れて、行かないでくれと縋りつきそうになった。

 与えられた殿下の責務も考えず、国を恨みそうになった。


 殿下と私が友人でいられたのは、あの狭い鳥籠のような学園の中だけのことだというのに。


 愛妾として隣国へ行くという殿下に「それが私の務めだから」と、そう言われた時に。私は私と殿下の間に横たわる、超えられぬ壁を嫌というほど知ることになった。


 だから……自分でもあらためて、殿下との間に線を引く必要があった。


 うっかり臣下としての一線を超えてしまわぬよう、己を律する必要があった。


 自惚れてはいけない。殿下を困らせてはいけない。


 私と殿下は、王族とその臣下。


 殿下の名を呼ぶことを己に禁ずることで、そう、自分に言い聞かせていたのだ。


「それは……臣下としての自覚を持とうと」

「そう。それは良い心がけね。でも、私はもう王女ではなくなるわ。そして貴女は、これから私の特別な友人(・・)となるの。今後はその自覚を持って頂戴。その手始めとして……あの頃のように、また名前で呼んで」

「でん……」


 再び殿下と呼びそうになった私を、殿下――フィリスが睨みつけてきた。


「……フィリス」

「クレア……」


 フィリスが私の名を呼び、己の額を私の額に押し付けてきた。


 そして、唇に感じたわずかな温もり。


 今触れたのは、彼女の吐息か、それとも――。そんな想像をしてしまうほどに、今の彼女と私の距離は近い。まるで、あの頃に戻ったかのように。


「……フィリス。これからはずっと、貴女のお傍にいます」


 それは、ずっと言いたくて、けれど言えなかった言葉だった。

 私の身分では、私の立場では、言ったところで、叶わぬ夢としかならなかった筈の言葉だ。


 けれど、これからはそれが叶う。


「ええ、クレア。私達……ずっと一緒よ」


 誰しもが心奪われる微笑みが、私だけに向けられている。


 その事実に胸を高鳴らせながら、私はただ一心に、彼女の黄金の瞳を見つめ続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ