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産業医面談室の記録 ―小さな変化の話―

産業医面談 第五話 ぐるぐる思考の対処(マインドフルネス)

作者: 寺西志穂
掲載日:2026/04/15

午後の産業保健室は、静かだった。


窓から差し込む光が、机の上にやわらかく広がっている。

保健師の星野は、カルテをめくりながら、ふと時計に目をやった。


「次の方、そろそろですね」


寺西は、小さくうなずく。


ノックの音がして、ドアが開いた。


「失礼します」


入ってきたのは、四十歳前後の男性だった。神谷廉。

きちんとした身なりだが、どこか力が抜けきらないような硬さがある。


「どうぞ、おかけください」


椅子に腰を下ろすとき、彼は一瞬だけ息を整えた。


「神谷さんですね。産業医の寺西です。保健師の星野が同席しますがよろしいでしょうか」


神谷は寺西の隣に座る女性と目が合う。


「よろしくお願いします」




「今日は、どんなことでいらっしゃいましたか」


寺西が尋ねると、神谷は少し考えてから口を開いた。


「……大したことじゃないんですけど」


そう前置きしてから、言葉を探すように続ける。


「夜、眠れなくて。寝ようと思うと、いろいろ考えてしまって……考えないようにしてるんですけど、止まらなくて」


その言い方に、寺西は静かにうなずいた。


「家に帰っても仕事のことを考えるなんて、無駄だってわかってるんです。でも、止めようとすると、余計にぐるぐると頭に巡って」


「止めようとすると、余計に強くなりますよね」


男は、少しだけ表情を緩めた。



「ちょっと、ひとつだけ実験してみましょうか」


「今から30秒だけ、“しろくまのことを絶対に考えないでください”」


男は一瞬きょとんとして、それから目を伏せた。


部屋の中に、短い沈黙が落ちる。


やがて顔を上げて、苦笑した。


「……無理ですね。しろくましか出てきません」


「そうなんです」


寺西は、穏やかに言う。


「人の頭は、“考えないようにしよう”とすると、かえってそのことに縛られてしまいます」


少し間を置く。


「じゃあ、どうしたらいいと思いますか」


男は首をかしげる。


「……わかりません」


「“考えない”より、“別のものに注意を向ける”方が楽なんです」


寺西は、わずかに笑った。


「たとえば、“くろくまのことを考える”とか」


男が、ふっと笑う。


「頭の中は、空白にはできません。だから、無理に消そうとするより、どこに注意を置くかを変える方がうまくいきます」


神谷は、言葉の意味を確かめるように、寺西を見つめる。


「呼吸でも、音でも、体の感覚でもいいんです」


男は、ゆっくりとうなずいた。


寺西は、続けた。


「もう一つ、似たような別の話をしてもいいですか」


男が目を上げる。


「脳って、パソコンみたいなものなんです」


「電気で動いていて、しかも、自動で処理を続けます。

何もしていないときでも、気になっていることを、バックグラウンド処理をしてくれているんです」


少し間を置く。


「たとえば——、今日の夕飯、どうしよう。明日はあれをやらなきゃ。なんであんなこと言ってしまったんだろう。部長、ああいう言い方だったな……」


神谷は頷く。心当たりがあった。


「ひとつひとつは小さくても、そういう“タブ”が開いたまま増えていくと、パソコンだったらどうなりますか」


男は少し考えてから答えた。


「……重くなりますね」


「そうですね。熱も持ちますし、動きも鈍くなります」


寺西は、わずかにうなずいた。


「そんなとき、どうしますか」


「タブを閉じます」


「それでも重かったら?」


「……一度、電源を落とします」


寺西は、静かに続けた。


「人の脳も、少し似ています。1日に一回、開いたままのタブを、ひとつずつ閉じていく時間が必要です。それでも足りないときは、電源を落とす時間をつくる


“考えないようにする”のではなくて、浮かんできた考えを、そのままにして、追いかけない。

ただ、呼吸や体の感覚に注意を戻していく


そういう時間を作って、脳を休ませるんです」


男は、しばらく黙っていた。


「……できる気は、あまりしませんけど」


正直な言葉だった。


寺西は、すぐに否定しなかった。


「できなくても大丈夫です」


寺西は、静かに言った。


神谷は、少しだけ視線を落とした。




寺西は、少し間を置いてから続けた。


「よければ、ひとつだけ、やり方をお伝えしてもいいですか」


神谷が顔を上げる。


「…お願いします」


「呼吸を使います。シンプルな方法です」


寺西は、ゆっくりとした調子で言う。


「5つ数えながら吸って、5つ止めて、5つで吐いて、また5つ止める。これを、四角をなぞるように繰り返します。ボックスブリージングと呼ばれる方法です」


神谷は、わずかに眉を動かした。


「よかったらいま、やってみませんか?」


「……はい」


椅子に座ったまま、寺西が静かに数え始める。


「それでは、息を吸って、1、2、3、4、5……」


神谷はあわてて息を吸う。


「止めて、1、2、3、4、5……」


止める。


「できなくても大丈夫です」


寺西は、静かに言った。


「戻ることを、繰り返すだけでいいので」


神谷は、少しだけ視線を落とした。


「……やってみます」


その声は、小さかったが、さっきよりも力が抜けていた。


寺西は、少し間を置いてから続けた。


「よければ、ひとつだけ、やり方をお伝えします」


神谷が顔を上げる。


「呼吸を使います。シンプルな方法です」


寺西は、ゆっくりとした調子で言う。


「5つ数えながら吸って、5つ止めて、5つで吐いて、また5つ止める。

これを、四角をなぞるように繰り返します」


「ボックスブリージングと呼ばれる方法です」


神谷は、わずかに眉を動かした。


「今、少しだけやってみましょうか」


「……はい」


椅子に座ったまま、寺西が静かに数え始める。


「吸って、1、2、3、4、5……」


神谷はあわてて息を吸う。


「止めて、1、2、3、4、5……」


止める。にわかに息苦しさを感じる。


(……これって、なんだろう)


神谷は半信半疑のまま呼吸を合わせる。


(別に、これで何か変わるとは思えないけど)


「吐いて、1、2、3、4、5……」


吐く息とともに、胸の奥がゆるむ感覚が、わずかにあった。


「止めて、1、2、3、4、5……」


また、ほんの少しだけ、息苦しさを感じる。


その感覚に、ふと注意が向く。


寺西の落ち着いたカウントが、一定のリズムで続いていく。


「吸って、1、2、3、4、5……」


何度か繰り返すうちに、頭の中に浮かんでいた断片的な思考が、少し遠のいていく。


ただ、吸って、止めて、吐いて、止める。吸った時に胸が開く感じと、止めた時の息苦しさ。そして、吐いた時の身体の緩み。


それだけを繰り返している。


——十回ほど続けたところで、寺西が声を止めた。


「……いかがですか」


神谷は、ゆっくりと目を開けた。


「……あれ」


自分でも意外そうに、息を吐く。


「なんか……少し、すっきりしてます」


寺西は、小さくうなずいた。


「そんな感覚があれば、十分です」


少し間を置く。


「こういうものは、音声を流しながらやると入りやすいです。例えばYouTubeで“マインドフルネス”で探すと、いくつも出てきます」


神谷は、静かに聞いている。


「私はこのチャンネルの、この動画がお気に入りです」


寺西は手元にあるiPadを紙屋に見せた。どうやらその動画をお気に入り登録しているらしい。


「運動もいいですし、早口言葉を、少し真剣にやってみるのも、意外と頭が切り替わります」


神谷が、わずかに表情を緩めた。


「映画でも、趣味でもいいんです。ただ、なんとなく流すのではなくて、そこにしっかり意識を向ける。それだけで、集中していること以外のタブは、自然に閉じていきます」


一瞬だけ、言葉を選ぶようにしてから、寺西は続けた。


「ゲームも、悪くはないんですが、ものによっては、逆に頭を疲れさせることもあります


終わったあとに、少し軽くなるかどうか。そこを目安にするといいと思います」


神谷は、ゆっくりとうなずいた。


「寝る前や隙間時間にならできそうです、やってみます」


寺西は静かに頷いた。






面談室には、変わらず午後の光が差し込んでいる。


何かが大きく変わったわけではない。


それでも、ほんの少しだけ、

頭の中の熱が下がったような空気が、そこにあった。


ドアが閉まって、しばらくの静けさが戻る。


星野が、カルテに目を落としながら口を開いた。


「今の、マインドフルネスですよね」


寺西は、小さくうなずく。


「そうですね。仏教の坐禅の考え方が、アメリカで医療に応用されて広まったものです

“いまここに、判断せずに注意を向ける”、それだけです」


星野は、顔を上げた。


「未来のことでも、過去のことでもなくて、今」


寺西は静かに言う。


「たとえば、歩いているときに、足の裏の感覚に注意を向けるとか。道端で目に入ったものを、そのまま見てみるとか。特別なことじゃなくて、ただ、注意の向け方を少し変えるだけなんです」


星野は、ゆっくりとうなずいた。


寺西は続ける。


「それと、もう一つ大事なのが、判断しないことです」


「ネガティブな思いが出てきたときに、私たちはそれをダメだと思う傾向があります。消そうとしたり、良くないものだと決めつけたりしない」


少し間を置く。


「“ああ、今こういうことを考えているな”と、そのまま気づいておく」


星野は、ふっと息をついた。


「さっきの“しろくま”の話と、つながりますね」


寺西は、わずかに笑った。


「そうですね。消すよりも、距離をとる、という感じです」


午後の光は、変わらず静かに差し込んでいる。




「神谷さん、眠れるようになるといいですね」


面談室には、さきほどとは少しだけ違う、

穏やかな空気が流れていた。

マインドフルネスとは、もともとは仏教の禅の考え方を背景に、アメリカで医療や心理の分野に応用され発展しました。呼吸法が有名ですが、食べているものに集中したり自分の感情に集中したり、色々な方法があります。

うつの再発予防では薬と同程度の効果が報告され、腰痛や片頭痛でも生活への影響を軽減し、集中力や生産性の向上にもつながるとされています。

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