産業医面談 第五話 ぐるぐる思考の対処(マインドフルネス)
午後の産業保健室は、静かだった。
窓から差し込む光が、机の上にやわらかく広がっている。
保健師の星野は、カルテをめくりながら、ふと時計に目をやった。
「次の方、そろそろですね」
寺西は、小さくうなずく。
ノックの音がして、ドアが開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、四十歳前後の男性だった。神谷廉。
きちんとした身なりだが、どこか力が抜けきらないような硬さがある。
「どうぞ、おかけください」
椅子に腰を下ろすとき、彼は一瞬だけ息を整えた。
「神谷さんですね。産業医の寺西です。保健師の星野が同席しますがよろしいでしょうか」
神谷は寺西の隣に座る女性と目が合う。
「よろしくお願いします」
「今日は、どんなことでいらっしゃいましたか」
寺西が尋ねると、神谷は少し考えてから口を開いた。
「……大したことじゃないんですけど」
そう前置きしてから、言葉を探すように続ける。
「夜、眠れなくて。寝ようと思うと、いろいろ考えてしまって……考えないようにしてるんですけど、止まらなくて」
その言い方に、寺西は静かにうなずいた。
「家に帰っても仕事のことを考えるなんて、無駄だってわかってるんです。でも、止めようとすると、余計にぐるぐると頭に巡って」
「止めようとすると、余計に強くなりますよね」
男は、少しだけ表情を緩めた。
「ちょっと、ひとつだけ実験してみましょうか」
「今から30秒だけ、“しろくまのことを絶対に考えないでください”」
男は一瞬きょとんとして、それから目を伏せた。
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
やがて顔を上げて、苦笑した。
「……無理ですね。しろくましか出てきません」
「そうなんです」
寺西は、穏やかに言う。
「人の頭は、“考えないようにしよう”とすると、かえってそのことに縛られてしまいます」
少し間を置く。
「じゃあ、どうしたらいいと思いますか」
男は首をかしげる。
「……わかりません」
「“考えない”より、“別のものに注意を向ける”方が楽なんです」
寺西は、わずかに笑った。
「たとえば、“くろくまのことを考える”とか」
男が、ふっと笑う。
「頭の中は、空白にはできません。だから、無理に消そうとするより、どこに注意を置くかを変える方がうまくいきます」
神谷は、言葉の意味を確かめるように、寺西を見つめる。
「呼吸でも、音でも、体の感覚でもいいんです」
男は、ゆっくりとうなずいた。
寺西は、続けた。
「もう一つ、似たような別の話をしてもいいですか」
男が目を上げる。
「脳って、パソコンみたいなものなんです」
「電気で動いていて、しかも、自動で処理を続けます。
何もしていないときでも、気になっていることを、バックグラウンド処理をしてくれているんです」
少し間を置く。
「たとえば——、今日の夕飯、どうしよう。明日はあれをやらなきゃ。なんであんなこと言ってしまったんだろう。部長、ああいう言い方だったな……」
神谷は頷く。心当たりがあった。
「ひとつひとつは小さくても、そういう“タブ”が開いたまま増えていくと、パソコンだったらどうなりますか」
男は少し考えてから答えた。
「……重くなりますね」
「そうですね。熱も持ちますし、動きも鈍くなります」
寺西は、わずかにうなずいた。
「そんなとき、どうしますか」
「タブを閉じます」
「それでも重かったら?」
「……一度、電源を落とします」
寺西は、静かに続けた。
「人の脳も、少し似ています。1日に一回、開いたままのタブを、ひとつずつ閉じていく時間が必要です。それでも足りないときは、電源を落とす時間をつくる
“考えないようにする”のではなくて、浮かんできた考えを、そのままにして、追いかけない。
ただ、呼吸や体の感覚に注意を戻していく
そういう時間を作って、脳を休ませるんです」
男は、しばらく黙っていた。
「……できる気は、あまりしませんけど」
正直な言葉だった。
寺西は、すぐに否定しなかった。
「できなくても大丈夫です」
寺西は、静かに言った。
神谷は、少しだけ視線を落とした。
寺西は、少し間を置いてから続けた。
「よければ、ひとつだけ、やり方をお伝えしてもいいですか」
神谷が顔を上げる。
「…お願いします」
「呼吸を使います。シンプルな方法です」
寺西は、ゆっくりとした調子で言う。
「5つ数えながら吸って、5つ止めて、5つで吐いて、また5つ止める。これを、四角をなぞるように繰り返します。ボックスブリージングと呼ばれる方法です」
神谷は、わずかに眉を動かした。
「よかったらいま、やってみませんか?」
「……はい」
椅子に座ったまま、寺西が静かに数え始める。
「それでは、息を吸って、1、2、3、4、5……」
神谷はあわてて息を吸う。
「止めて、1、2、3、4、5……」
止める。
「できなくても大丈夫です」
寺西は、静かに言った。
「戻ることを、繰り返すだけでいいので」
神谷は、少しだけ視線を落とした。
「……やってみます」
その声は、小さかったが、さっきよりも力が抜けていた。
寺西は、少し間を置いてから続けた。
「よければ、ひとつだけ、やり方をお伝えします」
神谷が顔を上げる。
「呼吸を使います。シンプルな方法です」
寺西は、ゆっくりとした調子で言う。
「5つ数えながら吸って、5つ止めて、5つで吐いて、また5つ止める。
これを、四角をなぞるように繰り返します」
「ボックスブリージングと呼ばれる方法です」
神谷は、わずかに眉を動かした。
「今、少しだけやってみましょうか」
「……はい」
椅子に座ったまま、寺西が静かに数え始める。
「吸って、1、2、3、4、5……」
神谷はあわてて息を吸う。
「止めて、1、2、3、4、5……」
止める。にわかに息苦しさを感じる。
(……これって、なんだろう)
神谷は半信半疑のまま呼吸を合わせる。
(別に、これで何か変わるとは思えないけど)
「吐いて、1、2、3、4、5……」
吐く息とともに、胸の奥がゆるむ感覚が、わずかにあった。
「止めて、1、2、3、4、5……」
また、ほんの少しだけ、息苦しさを感じる。
その感覚に、ふと注意が向く。
寺西の落ち着いたカウントが、一定のリズムで続いていく。
「吸って、1、2、3、4、5……」
何度か繰り返すうちに、頭の中に浮かんでいた断片的な思考が、少し遠のいていく。
ただ、吸って、止めて、吐いて、止める。吸った時に胸が開く感じと、止めた時の息苦しさ。そして、吐いた時の身体の緩み。
それだけを繰り返している。
——十回ほど続けたところで、寺西が声を止めた。
「……いかがですか」
神谷は、ゆっくりと目を開けた。
「……あれ」
自分でも意外そうに、息を吐く。
「なんか……少し、すっきりしてます」
寺西は、小さくうなずいた。
「そんな感覚があれば、十分です」
少し間を置く。
「こういうものは、音声を流しながらやると入りやすいです。例えばYouTubeで“マインドフルネス”で探すと、いくつも出てきます」
神谷は、静かに聞いている。
「私はこのチャンネルの、この動画がお気に入りです」
寺西は手元にあるiPadを紙屋に見せた。どうやらその動画をお気に入り登録しているらしい。
「運動もいいですし、早口言葉を、少し真剣にやってみるのも、意外と頭が切り替わります」
神谷が、わずかに表情を緩めた。
「映画でも、趣味でもいいんです。ただ、なんとなく流すのではなくて、そこにしっかり意識を向ける。それだけで、集中していること以外のタブは、自然に閉じていきます」
一瞬だけ、言葉を選ぶようにしてから、寺西は続けた。
「ゲームも、悪くはないんですが、ものによっては、逆に頭を疲れさせることもあります
終わったあとに、少し軽くなるかどうか。そこを目安にするといいと思います」
神谷は、ゆっくりとうなずいた。
「寝る前や隙間時間にならできそうです、やってみます」
寺西は静かに頷いた。
面談室には、変わらず午後の光が差し込んでいる。
何かが大きく変わったわけではない。
それでも、ほんの少しだけ、
頭の中の熱が下がったような空気が、そこにあった。
ドアが閉まって、しばらくの静けさが戻る。
星野が、カルテに目を落としながら口を開いた。
「今の、マインドフルネスですよね」
寺西は、小さくうなずく。
「そうですね。仏教の坐禅の考え方が、アメリカで医療に応用されて広まったものです
“いまここに、判断せずに注意を向ける”、それだけです」
星野は、顔を上げた。
「未来のことでも、過去のことでもなくて、今」
寺西は静かに言う。
「たとえば、歩いているときに、足の裏の感覚に注意を向けるとか。道端で目に入ったものを、そのまま見てみるとか。特別なことじゃなくて、ただ、注意の向け方を少し変えるだけなんです」
星野は、ゆっくりとうなずいた。
寺西は続ける。
「それと、もう一つ大事なのが、判断しないことです」
「ネガティブな思いが出てきたときに、私たちはそれをダメだと思う傾向があります。消そうとしたり、良くないものだと決めつけたりしない」
少し間を置く。
「“ああ、今こういうことを考えているな”と、そのまま気づいておく」
星野は、ふっと息をついた。
「さっきの“しろくま”の話と、つながりますね」
寺西は、わずかに笑った。
「そうですね。消すよりも、距離をとる、という感じです」
午後の光は、変わらず静かに差し込んでいる。
「神谷さん、眠れるようになるといいですね」
面談室には、さきほどとは少しだけ違う、
穏やかな空気が流れていた。
マインドフルネスとは、もともとは仏教の禅の考え方を背景に、アメリカで医療や心理の分野に応用され発展しました。呼吸法が有名ですが、食べているものに集中したり自分の感情に集中したり、色々な方法があります。
うつの再発予防では薬と同程度の効果が報告され、腰痛や片頭痛でも生活への影響を軽減し、集中力や生産性の向上にもつながるとされています。




