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第四話: 再侵 ―ID_001―

森の空気が、重い。

 湿った風も止み、葉の揺れる音すら消えている。

 まるで、この空間そのものが呼吸を止めているかのようだった。


「……真壁、応答しろ。ノイズが強い」

『――ザ……ザッ……ッ……』

 応答はなく、通信には濁ったノイズだけが走る。


 颯真は足を止め、周囲を見渡した。

 視界の端が、微かに揺らいでいる。

 森の色彩が、少しずつ“灰色”に滲んでいくようだった。


 「……まさか、また……」


 端末の警告ウィンドウが、血のような赤で点滅する。


 > 異常波形検出:ID_001

 > 解析不能コードの再出現を確認。


 「……“あのコード”か」


 颯真の眉がわずかに動く。

 ――ID_001。

 フルダイブ型DNAリンクシステム《クロスリンク》の基幹データに、

 突如混入した解析不能コード。


 原因も発生源も不明のまま、解析が続けられていた。だが、いま確かに“同じ波形”が現れている。


 再度ノイズが途切れ、森が静寂に包まれる。

 その静けさの奥に、何かが蠢く音が混じった。


 「……地鳴り?」


 足元が微かに振動する。

 次の瞬間、地面のデータが泡立つように歪んだ。

 黒いノイズの粒が、渦を巻くように集まり始める。


 > 警告:リンクシステムに異常発生

 > 制御不能領域を確認

 > 不明データ群による再構築開始


 「制御系が書き換えられてる……? 誰が――」


 言葉を飲む間に、闇の粒子が形を取り始めた。

 歪んだ影がねじれ、獣のような、しかし人のようでもある輪郭を成していく。

 やがて姿を現したのは――二つの蛇頭と鱗、

 ヤギの下半身を併せ持つ、異形の存在だった。

 しかし、上半身は人の姿をしており、蛇の頭部には人の目や耳が歪に付いている。


 「なんなんだ……あれは…」


 二つに分かれた蛇の頭部は、筋肉のようなうねりで首を伸ばす。

 ヤギの身体は所々に鱗を輝かせながら二足歩行でゆらりゆらりと歩み始める。眼は濁り、だがその奥には“何かの意志”のような光が揺らめいていた。


 端末が自動で解析を始める。


 > 未知の生体データを検出

 > 識別:Helix-Class_γ


 「……ヘリックス?」


 耳慣れない単語が画面に浮かぶ。

 DNAリンクの暴走によって形作られた、

 ――融合生命体。


 どこからか、微かな音が混じる。


 「……た……す……け……て……」


 声。

 いや、正確には“ノイズの中の人声”だった。

 幻聴か、それとも……。


 颯真の背筋に冷たいものが走る。


 「……人間……?」


 その瞬間、ヘリックスの瞳が閃いた。

 蛇の口が開き、湿った咆哮が森を揺らす。


 颯真は即座にDNAリンクを起動する。


 > DNAリンク開始:Canis lupus

 > 適合率:98%


 筋肉が軋み、視界が鋭く研ぎ澄まされる。

 適合率の高い身体はあっという間に狼の獣人へと変わっていた。

 風の流れ、敵の動き、全てが見える。


 「来いよ……」


 ヘリックスの蛇首が襲いかかる。

 颯真は地を蹴り、喉元を掴んで捻る。

 黒い鱗が砕け、ノイズが飛び散った。


 もう一方の蛇頭が噛みつこうとするが、

 颯真の拳が先に走り、顎を砕いた。


 ヘリックスが呻き、黒い粒子をまき散らしながら後退する。

 その粒子は光に溶けるように消えた。


 やがて、異形は崩れ落ちる。

 跡には、黒い残滓が微かに残るだけだった。


 颯真は獣特有の呼吸を整えながら、端末を確認する。


 > 警告:ID_001の波形拡散中

 > 複数地点で同様の異常を検出


 「……ID_001、拡散してる……?」


 まるで、誰かが意図的にばら撒いているような波形の動き。

 胸の奥に、得体の知れない不安が広がる。


 ふと、先ほどの“声”が脳裏によみがえる。


 ――助けて。


 あれは、錯覚だったのか。

 それとも、本当に……。


 風が吹き抜ける。

 崩れかけた空の向こうで、黒いノイズが渦を巻いていた。


 「……ヘリックス……」


 颯真は呟き、空を見上げた。

 その眼に、確かな疑念と恐怖が宿っていた。


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