第一話: 起動―Cross Link―
“フルダイブ開始まで、あと十秒。”
静寂の中、無機質な女性音声が響く。
【神谷颯真】は深く息を吸い、装置の中でまぶたを閉じた。
人工の睡眠誘導波が脳に浸透していき、現実の感覚がすっと遠のく。
――これは、ただのシミュレーションだ。
そう自分に言い聞かせながら。
光が反転し、世界が開く。
目を開けると、そこにはクロスリンクの実践フィールド“理想都市”が広がっていた。
青空は完璧なグラデーションで、風は心地よい温度を保ち、遠くでは電子鳥の群れが空を舞っている。遠くに見えるビル群とは違い、足元に広がるのは一面の草原だ。
ここは政府主導のフルダイブ型DNAリンクシステム《クロスリンク》フィールド。
「……やっぱり、すげぇな。まるで現実だ」
思わず呟く。
指先で触れた透明なガラス壁は、確かな温度を持っていた。
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資源の偏在とエネルギー争奪の激化により、国家間の緊張が高まっている現在―それにより世界情勢は不穏となっていた。
クロスリンク――
それは、戦争を未然に防ぐために開発された、DNAリンクシステムを応用したフルダイブ型仮想空間。
このシステムでは、他生物のDNA情報を自身の身体に一時的にリンクさせることができ、脳や神経系に作用させることで特殊能力を再現することが可能だった。
兵士や試験者たちは、能力を安全に試し鍛え、任務や防衛のためのシミュレーションを行える。市民向けの遊び用仮想空間とは異なる防衛専用の訓練施設である。
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『通信確認。こちらシグマ・オペレーター01。神谷隊員、視覚・聴覚ともに問題はありますか?』
「問題なし。動作も正常だ」
颯真の声は落ち着いている。
元は警察官。いくつもの現場を見てきたが、これはまるで“新しい命のフィールド”のようだ。
『ではこれより、簡易リンク動作試験を開始します。対象DNAデータは《Canis lupus》──狼型です』
「了解」
身体の奥に、微かな脈動が走る。
視界の端に薄い光の粒が漂い、神経が刺激される感覚。
DNAデータが、神経信号として脳内に“接続”されていく。
痛みはない。ただ、熱い。生き物の鼓動のような熱。
それが──彼の中に流れ込む。
「……“リンク”完了」
反射的に息を吐いた。
感覚が研ぎ澄まされ、風の流れや遠くの足音までもが鮮明に伝わる。颯真の身体は限りなく狼に近い獣人と化していた。
強くなった、というより、世界が広がったように思う。
『リンク状態、安定。さすが神谷隊員、適合率が高いですね』
「ただの数字だよ。結局、使うのは“人間の意志”だ」
そう言って、颯真は微かに笑った。
【正義】
ただ真っ直ぐにそれは彼がまだ警察官だった頃から、ずっと支えとしてきた信念だ。
力を使うのは、人を救うため――その信念だけは、変えるつもりはない。
リンク完了に息を落ち着けた、その時。
彼の視界に、ノイズが走った。
一瞬の歪み。
青空の一部が、ざらつくように波打つ。
ほんのわずか、ほんの一秒。
「……今、空が……?」
『異常値は検出されていません。通信も安定しています』
「そうか……気のせい、かもな」
だが、その違和感は、心のどこかに刺さったままだった。
颯真は最後にもう一度空を見上げる。
そこには何もない。穏やかで、完璧な空。
――それが、最初の“ほころび”だった。
その小さな異常が、後に世界を飲み込む暴走の前触れになることを、
この時の彼はまだ知らなかった。




