黒いダイヤモンド 最強の黒人拳豪 サム・ラングフォード(1883-1956)
ライト級の素人の少年がボクシングを始めてから三年足らずで歴代ライト級十傑に名を連ねることもあるジョー・ガンスに競り勝ったことだけでも奇跡だが、その後同じく世界十傑クラスのウエルター級王者ジョー・ウォルコットをボコボコにし、ミドル級最強の声もあったスタンリー・ケッチェルと分のいい引き分け、ライトヘビー級の一流王者ジャック・オブライエンまでナックアウトするなんて人間業とは思えない。だからこそ、ヘビー級の一流どころでさえラングフォードとの対戦に尻込みしたのだ。現代にこんな男がいたら、ライト級以降は全階級制覇され、ボクシングの階級も意味をなさなくなったかもしれない。
カナダのノバスコシア州ウィーマウス出身のラングフォードは、暴力的な父親から逃れるため故郷を出奔した家出少年だった。やがてボストンに流れ着き、ドラッグストアの経営者ジョー・ウッドマンに拾われたのが一九〇一年十一月のことである。
十一月のボストンは寒い。ウッドマンが窓の外を眺めていると、寒さに震えながら店の前の通りを歩いていた痩せっぽちの少年が目に留まった。可哀想に思っていくばくかの小銭を与えると、少年はその金で空腹を満たした後、「お礼に店の窓拭きをさせてほしい」と再び店に戻ってきた。
浮浪者のような身なりでありながら、礼儀正しく生真面目な彼の態度に好感を抱いたウッドマンは、自らも出資しているレノックス・アスレティッククラブというボクシングジムに管理人としてこの宿無しの少年を寝泊りさせてやることにした。少年の当てのない旅はこれで終わりを告げたが、それは新しい人生の旅、すなわち世界チャンピオンへの道の始まりでもあった。
ラングフォードが自らの拳の威力に気づくまでには大して時間はかからなかった。ボクシングの練習に精を出し始めると、あっという間にジムの中でも頭角を現し、ボストン市内のアマチュアフェザー級チャンピオンになっている。プロデビューは一九〇二年四月、運命の出会いからわずか半年足らずのことだった。
翌年の暮れ、ラングフォードに夢のようなビッグマッチの話が転がり込んできた。世界ライト級チャンピオン、ジョー・ガンズとのノンタイトル戦である。百戦錬磨のベテラン王者とどさ廻りのローカルファイターでは全く格が違うが、伸び盛りのラングフォードのパンチは何と稀代のテクニシャンを打ち据え、判定をもぎ取ってしまうのだ(十五ラウンド判定勝ち)。
身長171cmのラングフォードはライト級でデビューしたが、この頃には筋骨逞しくなり、ライト級リミットに落とすのが厳しい状態だった。この試合は、ライト級リミットを2ポンドオーバーでリングに上がっていたためタイトルの移動はなかったが、ボクシングを始めてまだ三年にもならない弱冠二十歳の無名ボクサーが超一流という折り紙付きのチャンピオンを破ったことは衝撃的だった。
減量苦のため惜しくもタイトルをつかみ損ねたラングフォードが次なる目標に定めたのが、“バルバドスの悪魔”と恐れられた世界ウェルター級チャンピオン、ジョー・ウォルコットだった。
156cmの短躯ながら、ゴリラのように太く長い腕から繰り出される強打で上背に勝るライバルたち次々とマットに沈めていたウォルコットも、さらにリーチが長く俊敏なラングフォードには予想外の苦戦を強いられた。二ラウンドにコンビネーションをしたたか浴びて、口元から出血し始めると、後は顔面が血まみれになるほど打ちまくられてしまった。ウォルコットにとって唯一の見せ場は、右がきれいに顎をとらえて挑戦者ダウン寸前まで追い詰めた十三ラウンドだけだったが、判定は何とドロー。記者席の大半がラングフォードを支持していただけに、何とも解せない判定だが、両者は再び合いまみえることはなかった。すでにラングフォードはウェルター級リミットでは収まりがつかない体格になっており、ミドル級に活路を求めざるをえなくなっていたからである。
全階級を通じた歴代の強打者を選ぶ場合、必ずベストテンにランクインすることから、ラングフォードと言えばハードパンチャーという側面のみが語られることが多いが、実際はディフェンス技術も素晴らしかった。裏を返せば、ラングフォードの体格ではディフェンス技術なくしてヘビー級で通用するはずがない。仮にパンチ力はヘビー級並みであったとしても、耐久力は体重に比例するため、通常はミドルウエートで戦っていたラングフォードにとってヘビー級のパンチは致命的なダメージを意味する。だからこそラングフォードは、デイフェンスマスターであるガンスを自らのボクシングの手本としていたのである。長いリーチを生かして常に相手との距離を取り、ロングジャブとフットワークで撹乱しながらジリジリとプレッシャーをかけてゆく慎重なボクシングこそがラングフォードの身上だった。
スピードのあるラングフォードは、顔面へのパンチはヘッドスリップですいすいとかわし、ボディーへのパンチはパーリングで叩いてしまう。そこで相手がバランスを崩せばすかさず射程距離の長い左右のロングフックが飛ぶのだ。
試合運びも実にクレバーで、相手を力任せにねじ伏せるといったタイプではない。上背のあるボクサーの場合、ジャブをサイドステップでかわしざまデンプシーばりのショベルフックをわき腹にぶち込んでガードを下げさせ、ピンポイントで顎を打ち抜くのだ。また、至近距離からのアッパーも強烈無比で、アッパーの名手だったジャック・ジョンソンを凌ぐという声も少なくない。アップライトスタイルから直角に突き上げるジョンソンに対し、彼のアッパーは身体をよじらせてタメを作ってから相手のアームブロックの隙間を縫って叩き込むという豪快なもの。タイミングと距離の合わせ方が絶妙だったため、モーションが大きくても的確に相手を捉えることが出来た。これが数々のワンパンチKOを産んだ理由であり、ワンパンチKOにかけては、デンプシーやルイスもラングフォードには及ばない。
マックスでも80kg前後しかウエートのないラングフォードのパンチがヘビー級の大男たちを震撼させたのは、パンチ力そのものよりもむしろそのスピードと正確さにあったのだ。
ガンズ、ウォルコットというそれぞれの階級で歴代十傑に数えられるほどの強豪と互角以上の勝負を演じたラングフォードは体重差などおかまいなしに誰とでも戦った。しかし、白人の強豪選手のほとんどが黒人との対戦を避けたため、黒人は黒人の中で優劣を競い合うほかなかった。そんな中で生まれたのが「カラード・タイトル」と呼ばれる有色人種を対象とした世界タイトルである。
野球が白人によるメジャーリーグと黒人によるニグロリーグと明確に区別されているのに比べると、ボクシングの世界には表向きはカラーラインがなく、軽量級から中量級にかけては有色人種の世界チャンピオンも現れたが、重量級は白人の聖域という見方が依然として残っており、有色人種にはタイトル挑戦の機会すら与えられなかった。そのため彼らは有色人種の中で最強を証明するための独自のタイトルを制定したのである。その頂点に立つカラード・ヘビー級チャンピオンの称号は有色人種中最強を意味するだけでなく、白人からも対戦を避けられているという意味において、実質的には世界最強のボクサーといっても過言ではなかった。
白人との対決が叶わない以上、ラングフォードが目指すべきはカラード・ヘビー級タイトルであり、その王座に座っているのが、誰もが現役世界ヘビー級チャンピオンのトミー・バーンズより強いと認めるジャック・ジョンソンだった。
1907年4月26日、両者は事実上の世界最強を懸けて激突した。
結果はジョンソンの判定勝ちに終わったが、試合のフィルムが現存していないこともあって、試合内容については様々な憶測が飛び交った。その多くはラングフォードの善戦を称えるもので、その後ジョンソンが再戦を拒み続けた事実ともあいまって、ラングフォードこそがヘビー級最強だったという“伝説”が出来上がった。ラングフォードが「無冠の帝王」と呼ばれた所以である。
しかし、後年になってこの試合を実際に観戦したナット・フライシャーの義父、ダッド・フィリップの証言や試合の経過を記した当時の新聞記事などに言及した結果、伝説は覆されることになった。
それらによると、試合はワンサイドで、六ラウンドに二度のダウンを喫したラングフォードはKOを免れるのがやっとだったらしい。ライト級あがりのラングフォードより13cm高く、10ポンド以上重いこの時代までにおける歴代ヘビー級最強の男が相手では、さすがに荷が重かったと見える。
その後、ラングフォードはカラード・ミドル級チャンピオンを経て、ジョンソンが正規の世界チャンピオンになったのを機にカラード・ヘビー級王座も手に入れた。この王座には足掛け八年以上の長きに渡って君臨し続けたが、ウォルコット戦を最後に世界王座挑戦の機会は最後まで訪れなかった。
無冠であっても人気・実力ともに一級品のラングフォードは、同時代のボクサーの多くにとって畏敬と恐怖の対象だった。そんな中でラングフォードに挑戦しようという命知らずの白人ボクサーもいた。それが世界ミドル級チャンピオンのスタンリー・ケッチェルと世界ライトヘビー級チャンピオンのフィラデルフィア・ジャック・オブライエンである。
ケッチェルとの対戦は1910年4月27日、稀代のハードパンチャー同士が一歩も引かずに打ち合う素晴らしい熱戦だった。公式判定はドローだったが、ニュースペーパー・デシジョンではラングフォードの勝ちだった。
オブライエンとの対戦は翌1911年8月15日のことである。オブライエンはすでにライトヘビー級タイトルを返上してしばらく経っていたが、若き日のジャック・ジョンソンと引き分けを演じ、三冠王ボブ・フィッシモンズの強打を完封した重量級屈指の技巧はいまだ健在で、1905年に世界タイトルを獲得してからこの日までの間に敗北は二度しかなかった(トミー・バーンズとスタンリー・ケッチェル)。
そのオブライエンをもってしてもラングフォードの壁は厚く、六ラウンドKO負けに退いている。
しかし何と言っても、全盛時代のラングフォードの最大のライバルは彼と同じ不遇を味わった“ブラウン・パンサー”ことハリー・ウィルスであろう。両者の対決は実に17度にも及んでいるが、いくら試合数が多い時代とはいえ、異常な頻度である。しかも両者共に同時代におけるヘビー級屈指のハードパンチャーであることを考えると、クリチコ兄弟が年に数回ずつ何年にもわたって本気で殴り合っていたようなもので、健康被害の恐れすらある極めて危険なマッチメイクといわざるを得ない。
とはいうものの、ジョンソンが黒人の強豪選手たちとの対戦を避け、イージーな防衛戦でお茶を濁している以上、この二人の対決こそヘビー級屈指の好カードであり、しかもそれを毎年楽しめるのだからファンにとってはたまらなかったであろう。事実、ほとんどの試合が手に汗握る熱戦だった。
ラングフォードがウィルスに勝てたのは2度しかないが、黒星がついたニュースペーパー・デシジョンは参考記録に過ぎず、公式な戦績ではノーコンテスト扱いになるため、それを除外するとラングフォードの2勝4敗2引分けということになり、双方の実力が拮抗していたことがわかる。
この中で最もスリリングだったのは第二戦である。開始早々、ウィルスの強打が炸裂し、一ラウンド、二ラウンドと連続してラングフォードがダウンを喫するという一方的な展開だった。しかもダウンの際に左足首を痛めたラングフォードは得意のフットワークが使えず、ダメージ回復を待ちながらひたすらパンチの雨に耐え続けていた。ところが、足首の痛みが引いた十二ラウンドからラングフォードが突如逆襲に転じ、ついに十四ラウンドにウィルスをカウントアウトしてしまったのである。まさに絵に描いたようなしびれる逆転KO劇だった。
第六戦にも四度のダウンを奪い“元祖”無冠の帝王の貫禄を見せつけたラングフォードも、寄る年波には勝てず、全盛期を過ぎてからはウィルスに歯が立たなくなってしまうが、ジョンソンよりもさらに大柄であのジャック・デンプシーが対戦を拒み続けたウィルスを相手にここまでやりあえたものだと感心してしまう。
ウィルスの全盛期は1916年から1927年7月にパウリノ・ウスクダンにKOで敗れてヘビー級タイトル挑戦の夢が完全に絶たれるまでの長きにわたり、その間の4つの敗北のうち2つは反則負け、1つは試合中に手首を痛めて棄権したTKO負けである。したがってウィルスはこの10年間で実質的な敗北はラングフォードにKOされた試合だけしかなく、この事実からもラングフォードの強さを推し量ることが出来よう。
ジャック・デンプシーが後年、1916年にラングフォードと初めて会った時の印象を次のように語っている。「俺は誰に対しても怖いという気持ちになったことはないが、サムと会った時は本当に怖かった。もし戦っても勝てなかっただろう」と。
リング上での殺傷本能の強さで恐れられた向こう見ずなデンプシーを、戦う前から弱気にさせるほどラングフォードの放つ殺気が凄まじかったのだろう。
しかし素顔のラングフォードは、ウッドマンと出会った頃と変わらぬ好青年だった。白人の挑戦者を小馬鹿にした“ゴールデンスマイル”で白人たちの憎悪の対象となったジョンソンと比べると、愛嬌のある笑顔で“ボストン・タール・ベイビー”と親しまれたラングフォードには白人ファンも多かったのである。
1917年、ラングフォードはボクシング生活最大の危機を迎えた。6月19日に巨漢の白人ボクサー、フレッド・フルトンと戦った時のこと。さすがのラングフォードも215cmという長大なリーチを誇るフルトンのパンチは避けきれず、目が塞がるほど打ちまくられたあげくに七ラウンドで棄権している。この時のダメージが原因で片目を失明してしまったラングフォードは、ウッドマンから引退を勧告されたにもかかわらず、それを隠してリングに上がり続けることを選んだ。
ウッドマンが隻眼のラングフォードをこれ以上戦わせることは出来ないという理由でマネージャーを辞したため、これまで苦楽を共にした二人は袂を分かつことになり、十七年にも及んだ黄金コンビは解消した。
片目というハンディは大きかった。ラングフォードはこの年を境に負けが込み始め、翌年四月にはウィルスからナックアウトされ、カラード・ヘビー級タイトルまで奪われてしまう。
1920年、30代後半になり、成績は下降線を辿っていてもまだヘビー級のトップクラスに名を連ねていた彼は、ジャック・デンプシーのマネージャー、ドク・カーンズにタイトルマッチを直談判するが、「サム、俺はもっとイージーな相手を探してるんだよ」と体よく断られてしまう。
ラングフォードは当時の金で約20万ドル稼いだと言われている。労働者の平均年収が一千ドル台の時代にこれだけ稼ぎながら、彼がなおもリングに固執したのは、その収入のほとんどを貧しい人や不遇な友人に気前よく恵んでやった結果、ほとんど貯金というものを持たなかったからである(ただし、全盛時代には金歯の代わりに歯にダイヤモンドを埋め込んでいたこともある)。
1924年5月4日のエディ・トリンブレーとの試合では、すでに全盲になっているにもかかわらずリングに上がり、三ラウンドKO勝ちを収めているが、相手が倒れたことに気付かずにファイティングポーズを取り続けたため、事態を悟った観客が騒然となったという。この状態でも戦い続けられたのは、無類のタフネスを生かして相手に先に攻めさせ、至近距離に入ったところでやみくもにパンチを振るっていたのだろう。余程生活が逼迫していたのか、ラングフォードはその後2年間もリングに上がり続けた。
引退後、完全に人前から姿を消してしまったラングフォードの消息がわかったのは1944年のことである。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン誌の記者、アル・ラニーが、ラングフォードの伝記を書くために行方を捜し回ったところ、ハレムで乞食同然の生活をしているのが発見された。伝説の拳豪の惨めな姿に心を痛めたラニーは、伝記の印税一万ドルを信託預金として月に50ドルずつラングフォードに生活費が支給されるよう手配した。ようやく人並みの生活が送れるようになったラングフォードは、1952年に養老施設に移り、そこで安らかに人生の幕を閉じた。
生涯戦績 178勝(129KO)32敗・40引分
ジャック・ジョンソンがラングフォード最強説を否定しなかったのは、もし同じ体格であれば絶対に勝ち目がないと思われる偉大な先輩を立てたかったからではないだろうか。ジョンソンはムハマド・アリのように多分に芝居がかった言動を見せることがあったが、本来はやさしい性格である。黒人が差別を受けている時代だからこそ、黒人同士でいがみ合い、競い合うより、むしろ優秀な黒人同士が賛美し合ことこそ、黒人全体の地位向上に繋がるという意図もあったように思えてならない。




