表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

日陰に住む者

作者: 七凪亜美

 家に帰って、部屋のドアを閉めた瞬間、ため息がこぼれる。


 音がない。テレビもつけていないし、誰かの話し声も聞こえない。冷蔵庫のモーター音と、自分の呼吸音だけ。


 この静けさは、私にとってもう当たり前のものだ。でも、ときどき、妙に重く感じる日がある。


 SNSを開くと、また誰かが彼氏と旅行に行った写真を載せていた。


「彼が全部プラン立ててくれた♡」


 何気ない一文が、まるで私の胸を針で刺すように響く。


 今まで彼氏がいたことがないって、人に言うと、基本驚かれることが多い。


 「嘘でしょ?」「見る目ないだけだよ」「出会いがなかっただけだって」


 慰めのつもりだとは分かってる。でも、どれも正解じゃない。


 私は、自分が誰かに選ばれる想像ができない。


 それは、ただ自信がないからとか、恋愛経験がないからって理由だけじゃない気がする。


 根本的に、誰かと一緒にいる自分を、うまく描けない。


 好きな人とごはんを食べて、何でもないことで笑って、手を繋いで帰る。


 10代の頃は、焦ることなんてなくて、いつか自然にそうなるものだと思っていた。


 だけど、そういう「普通」が、私にはずっと、絵に描いた夢みたいに遠いものに変わっていった。


 たまに、怖くなる。

 このまま歳を重ねて、30になっても、40になっても、ずっと一人だったら。


 誰にも名前を呼ばれず、誰の思い出にも登場しないまま、生きていくんだろうかって。


 「愛してる」とか「好きだよ」とか。親以外の人に言われずに生涯を終えるのかなって。


 でも、そんな不安を言える相手がいない。


 私が「寂しい」なんて言ったら、きっとみんな困ると思う。「意外だね」って、笑うと思う。

 だから私は、誰にも言わない。

 今日も、言わなかった。


 友達がいないわけじゃない。


 アニメのイベントに付き合ってくれる友達がひとり、映画の好みが合うから月に1回は一緒に映画館に行く友達がひとり。あと、カラオケに行くと必ず「また行こうね」って言ってくれる子も。


 それぞれ、悪い子じゃないし、私もその時間は嫌いじゃない。


 でも、どの子も、「今から電話していい?」って聞けるような相手じゃない。


 体調を崩して寝込んでても、メッセージは来ない。


 休日に一緒にスーパーに行こうとか、意味もなく家に呼んでくるような距離感でもない。


 たまに、内容の薄いメッセージ送ってふざけたりとか、日常生活の不満とかいきなり送れるような子ではない。


 みんな、それぞれの役割を終えたら、スッと戻っていく。


 また次に会うまで、私のことなんて思い出さないんだろうなって、なんとなく分かる。


 仕事は、まあまあ。


 楽しくはない。苦手な上司はいるし、話し方にトゲのある先輩もいる。

 電話対応も好きじゃないし、社内メールの文章を何度も見直す自分が情けなくなることもある。


 それでも、なんやかんやで続いている。辞めようと思うほどではない。

 給料は低いけど、贅沢さえしなければ、生活はできる。服も化粧品も、ネットで安く買える時代だし。


 休日。ベッドの上でスマホを眺めてると、世界の色が急に濃くなる。


 SNSには、学生時代のクラスメイトの笑顔が並ぶ。誰かと行った旅行、誰かと食べたカフェランチ、誰かに買ってもらったプレゼント。


「#幸せな時間」「#LOVE」「#大切な人と」


 何が大切かは人それぞれ、って言うけど。

 私が大切にしてるものって、なんだろう?

 答えられないまま、ため息を何度か吐く。


 1人でスナック菓子を食べながら、画面をスクロールしていく。


 私の今日の休日は、コンビニのお弁当と録画したバラエティ番組。

 一歩も外に出ていないし、声も出していない。

 なのに、時間だけが過ぎていく。


 たまに、っていうか、いつもこんな風に思う。

 このまま誰にも深く関わらずに、誰の心に名前を残すこともなく歳を取っていくなら……私って、何のためにここにいるんだろう。


 でも、それを誰かに言う勇気もないから。

 今日も私は黙って、天井を見つめている。


____


 朝起きても、何も変わらなかった。

 カーテンの隙間から差し込む光も、スマホの通知も、昨日と同じ。


 今日は私の誕生日だ。


 27歳になった。あと3年で30歳。なんて言葉がふと脳裏をよぎる。


 でも、それ以上は考えないことにして、顔を洗って、いつも通りの化粧をして、いつも通りの服を着て、いつも通りの時間に家を出た。


 会社に着いても、誰も特別なことは言わない。


 皆、忙しそうにパソコンに向かっていて、私もその中の一人として、ただそこにいた。


 ふと思い出す。


 先月、新卒の遠藤さんの誕生日だった。


 会社に来た時、上司の近藤さんが「遠藤さん、誕生日おめでとう」と言って何かプレゼントを渡していた。よく見えなかったけど、多分ブランド品の紙袋。


 近藤さんは、遠藤さんの教育係で、遠藤さんが入社したときからよくお世話をしていた。


 近藤さんだけではない。課長も「おめでとう」と声をかけていたし、他の人も個別に声をかけていた。

 きっと、皆、近藤さんが遠藤さんにプレゼントを渡すところを見たから、自然に“今日はあの人の誕生日なんだ”って認知したんだと思う。


 私も「お誕生日おめでとう!」って声をかけて、ついでにコンビニで買った小さなチョコレートを渡した。


 そのとき、遠藤さんが嬉しそうにニコニコしながら「町山さんの誕生日、いつなんですか?」って聞いてくれて、私は何となく答えた。


 ……今日が、その日だ。


 だけど、遠藤さんからは何もなかった。


 彼女は、いつも通りポニーテールを揺らしながらコーヒーメーカーから出来立てのコーヒを取り出して、自分のデスクに向かっている。


 忘れられたんだろうな。


 別に期待してたわけじゃない。けど、少しだけ、ほんの少しだけ、心のどこかで「もしかして」が残っていた自分に気づいて、余計に虚しくなった。


 近藤さんも、課長も、ここには私の誕生日を知ってる人・覚えてる人はいないんだ。


 ランチはいつも通り一人で食べて、午後も黙々と仕事をこなして、定時になったら真っ直ぐ帰る。


 お祝いのメッセージは、今のところ、メールに届いていたよく行く飲食店の誕生日クーポンだけ。


 あのクーポンを見ると毎年、なんとも言えない気持ちになる。


「おめでとう」って言ってくれるのが、システムだけなんて、ちょっと悲しいな。


 帰宅してから、夜。


 母親から「お誕生日おめでとう。体に気をつけてね」とだけ書かれたメッセージが届く。

 父親は、一緒にいたんだろう、「お父さんも言ってたよ」って追記があった。


 それが今日、唯一の「おめでとう」だった。

 たったひとつの、家族からの言葉。

 私は「ありがとう」と返したけれど、スマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。


 寝る前、ベットに入った私はスマホを開く。


 SNSを開いても、誰からもお祝いのメッセージは届いていない。


 投稿されたのは、別の誰かのリア充な日常。恋人とのディナー、友人とのバースデーパーティ。


 誰かの“特別な日”が、眩しすぎて見ていられなくなる。


 もう寝ようかとスマホを伏せかけた、そのとき。


『そういえば今日誕生日だったよね? おめでとう〜!』


 カラオケにたまに行くあの子から、メッセージが一件。


 一瞬、嬉しかった。


 でも、『そういえば』の五文字が、胸の奥でずっと引っかかってる。

 思い出してもらえたことはありがたい。でも、やっぱり忘れられてたんだと思ったら、笑顔になるには少し時間がかかる。


 私はスマホを握ったまま、ふと天井を見上げる。

 誰かにとって「忘れたくない日」になれる人って、どうすればなれるんだろう。

 そんなことを考えながら、ベッドに潜り込む。


 誕生日だからって、私の一日はいつもと変わらなかった。

 世界は普通に歩んでいて、私だけ一人で気持ちがソワソワしてる感じ。


 盛大に祝ってほしいいんじゃない。

 ただ、私の存在を覚えてくれているか確認したかった。


 ただそれだけ。


 0時まで、あと少し。


____


 翌日は、休日だった。


 朝は少しだけゆっくり起きて、簡単に化粧をして、少し迷ってから、外に出た。

 SNSやメッセージには、私の誕生日に関するものは何もなかった。

 27歳の始まりは、両親とカラオケ友達と3人だけの誕生日おめでとう。


 覚えてくれていただけ嬉しいけど、でも、やっぱり少し寂しい。


 今日はメールに届いていた誕生日クーポンを使うために、家の近くのファミレスへ行こうと決めていた。


 特別な予定もないけれど、せめて自分への誕生日プレゼントぐらいは、自分で用意してあげたかった。


 駅までの道を歩きながら、あまり人に会いたくないな、なんて思ってしまう。


 だけどファミレスに着いてみると、やっぱり土曜の昼時。


 店内は思った以上に賑やかだった。


 子ども連れの家族、向かい合って笑い合っているカップル、数人でスマホを見せ合って盛り上がる学生グループ。


「おひとりですか?」と店員さんに聞かれて、思わず小さく頷いた。


 窓際のカウンター席に案内されて、メニューを開く。


 いつもなら一番安いランチセットにするところだけど、今日は少しだけ贅沢をする。

 チーズハンバーグのセットに、普段は頼まないドリンクバー、そしてデザートに、小さめのチョコパフェをつけた。


 料理が来るまで、ぼんやりと店内を眺めていた。

 隣の席では、赤ちゃんがフォークを落として泣き出し、お母さんが慌てて拾ってなだめている。

 向かいのテーブルのカップルは、スマホで撮った写真を見ながら笑っている。


 どこも楽しそうで、幸せそうで、自分だけが別の世界に取り残されたみたいだった。


 私は、一人。


 別に一人で食事をするのが悪いことだとは思ってない。

 一人でいる人だって、他にだってたくさんいる。

 でも、この空間の中では、私だけが余ってる気がした。

 誰とも言葉を交わさず、注文した料理を黙って口に運ぶ私が、急にすごく惨めに思えてきた。


 ハンバーグは美味しかった。パフェも、甘くて可愛らしい見た目だった。

 でも、どんなに味が良くても、心の隙間を埋めてくれるわけじゃなかった。


 なんで私だけ――。


 私だって、服には気をつかってる。安物だけど、毛玉のついた服なんて着てない。いや、毛玉のついた服は、毛玉取り器で取るようにしているもん。


 髪だって、月一で美容院に行って整えている。たまに行くのがめんどくさくなって、三か月に一回の時もあるけど。

 メッセージの返信は早い方だし、遅刻もしない。人の話はちゃんと聞く。誕生日も、ちゃんとスケジュールに記録して、当日にお祝いするもん。


 なのに、なんで。

 どうして、誰かと一緒に笑える時間が、私にはこないんだろう。



 ふと、視界がぼやける。

 涙がこぼれる直前で、ぐっと堪えた。

 周りに人がいるこの空間で、泣くわけにはいかない。目元のメイクが崩れてしまう。

 ティッシュで目元を軽く押さえ、ごまかすようにオレンジジュースを一口飲んだ。


 甘くて、冷たい。

 けど、何も癒してはくれなかった。


____


 数日が経った。

 私はいつものように電車に揺られて出勤し、打刻を済ませ、社内の空気に溶け込むように席へと向かった。


 朝礼が始まる。

 上司の近藤さんが、どこか浮かない顔で話し出した。


「……えー、遠藤さんですが、本日をもって退職となりました」


 え?


 一瞬、頭がついていかなくて、私は誰かの背中越しにぽかんと立ち尽くしていた。

 退職? なんの前触れもなく? いきなり?


 近くにいた後輩が小声で「え、突然すぎない?」と囁くのが聞こえた。

 私はうなずくことすらできなかった。ただ、銅像のようにその場で固まっているだけ。


 昼休みに、給湯室で偶然会った近藤さんは、カップ麺の蓋を押さえながらため息をついていた。


「……ずっと悩んでたみたいだけどな。もっと早く相談してくれれば……」

 そんな言葉をぼそっと漏らしていた。


 私はそれを聞いても、結局何も言えなかった。


 遠藤さんの使っていたデスクには、何も置かれていない。

 ただ、グレーの無機質な色だけが目立っている。


 遠藤さん、辞めたんだ。


 大した思い出もないけど、心の中でゆっくりと何かが変わるような音がした。


 その日の帰り道、改札を抜けたあと、ふと立ち止まってしまった。


 いつもならコンビニで何か適当な夕飯を買って帰るのだけれど、今日はスーパーで食材を買って、自分で何か作ろうと思った。


 家に帰って部屋着に着替えると、冷蔵庫から材料を出し、先ほどスーパーで買ったばかりの食品を取り出して少しだけ凝ったもの、たとえば野菜と豚肉の炒め物なんかを作って、炊きたてのご飯と一緒に食べた。


 一口ずつ、ゆっくりと噛んでいるうちに、なんだか目の奥が熱くなってきた。


 味付けに失敗したわけではない。ちゃんと、ネットにあったレシピ通りにしたはず。


 でも、段々味覚が感じられなくなり、ただただ目頭だけが熱くなる。


 気づいたら、涙がぽろぽろ落ちていた。


 なぜ泣いてるのか、明確には分からなかった。

 でも、たぶん……遠藤さんが羨ましかったのだ。


 あとで聞いた話では、遠藤さんは別の会社、名の知れた大手企業に転職したらしい。


「えらいよね、若いのにちゃんと考えて動いてて」と誰かが言っていた。


 私は、ひとりご飯のあと、ぼんやりとその言葉を思い返す。


 行動できる人が、結局は人生を変えていくんだ。


 それが真実なのだと思った。

 そして、行動できない自分が、どうしようもなく情けなくて、嫌いだった。


 何かを変えたいと願う気持ちは、ずっと前からあった。

 でも、気持ちだけじゃ、現実は何も変わらない。


 行動しない私は、ただ、取り残されていく。


 そう思うと、冷めた味噌汁をすすりながら、また涙がこぼれそうになった。


 行動しよう、そうしよう。


 でも、行動を起こしたときのリスクが怖い。絶対いい方向に行けるとは限らないからこそ、もしもが起きたときが怖い。それで、行動できない。


 それに、なんやかんや今の現状のままでいいやと思っている自分もどこかにいる。

 小さな声だけど、それは、こういうときばかりは大きな声になる厄介なもの。


 っていうか、そもそも行動って何から始めればいいのか分からない。

 朝、いつもより少し早く起きて、カフェとかに行けばいい? 近所を少し散歩すればいい?


 教科書とか、マニュアルがあればいいのに。


 私は、空のお皿をシンクに入れると、ソファに寝っ転がりスマホを見る。


 今日も、誰かは恋人とデートをして、誰か友人の誕生日を祝っている。


 小さい頃は、早く大人になりたいと思っていたけど、いざその時が来ると、案外大人はつまらないんだなって。


 あの頃、キラキラして見えた大人たちは、きっと一部の人間だけで、私のようにつまらなく日向が似合わないような人の数の方が多いんだろうな。


「変わりたい、変えたい……」


 小さな声で呟いた言葉が部屋に響く。


 もう27歳。若いの定義は何歳までか、怖くて調べられないけど、今からでも何かを変えることができるのかな。


____


 あれから、いくつかの週が過ぎた。


 梅雨入りしたらしいと、天気予報で言っていたけれど、職場は相変わらず乾いた空気だった。


 その朝、中途採用で新しい社員がやってきた。


「本日からお世話になります、五十嵐といいます。よろしくお願いします」


 背筋をまっすぐにして自己紹介をするその人は、年齢が私と近いと紹介された。

 ひとつ上、つまり28になる年らしい。


 総務の課長が、やや得意げに「席は町山さんの隣ね」と指さす。


 少しだけ、心臓が跳ねた。


 五十嵐さんは、さっぱりとした短髪で、黒縁のメガネをかけていた。

 最初の印象は「静かそうな人」。悪くはないけれど、すごく印象的というわけでもない。


 とはいえ、久しぶりに「隣の席」ができたことに、私は妙な緊張を覚えた。


 元々隣の席は、契約社員の長谷川さんがいた。

 長谷川さんとは同い年で話やすくて、友人関係とまではいかなかったけど、この会社では誰よりも会話しやすい人だった。


 長谷川さんは、仕事も出来るし、私以外の人とも会話ができる。


 契約満了が近づく中、何度か冗談交じりに「長谷川さん、このまま正社員になってくださいよ~」と言ったことがある。彼女の信頼と実力なら、正社員に昇格もあり得なくなかった。なにより本人も「えぇー、どうしようかなぁ」と、少し笑いながら言ってたから期待していた。


 でも、結局長谷川さんは契約満了と共にいなくなった。


 彼女は、専業主婦になったらしい。そもそも結婚していたらしい。

 元々、契約満了とともに専業主婦になることを決めていたらしい。

 全部、同僚の美緒ちゃんから聞いた話だった。


 それくらいなら、私にも言ってくれればいいのに。

 わざわざ席の遠いい美緒ちゃんにだけ言って、私には言われなかったことがショックだった。


 でも、SNSだけは繋がっている。

 最近生まれた女の子の赤ちゃんと楽しむ日常生活が、よく投稿されている。


 その投稿を見るだけで、幸せそうな日々を送れてよかったねという安堵感と、羨ましいという妬みが交互に現れる。


 投稿画像の中の長谷川さんの笑顔は、私に向けられなかったものばかりだった。


 でも、いいんだ。きっと、私と長谷川さんは最初からそういう運命なんだって、今は受け止めている。

 


 隣の席の五十嵐さんと最初の数日は、業務上の質問だけが会話のすべてだった。


「町山さん、すみません、この資料って……」


「えっと、それは前のファイルを見てもらえれば」


 必要最低限のやりとり。今までの私なら、それで終わっていた。


 でも、違った。


 遠藤さんが去ったあの日から、私はずっと「変わらなきゃ」と思っていた。

 何かを掴むためには、行動しなきゃ、ずっとこのままだ。


 大丈夫、今からすることは五十嵐さんを殺したりとか脅迫とかそういうのじゃないし、仮に嫌われたとすれば、無視すればいいし……。


 大丈夫、大丈夫。


 私は、変わるんだ。



 意を決して話しかけた。たった一言だったけど、私にとっては大きな一歩。


「……あの、五十嵐さんって、前はどんなお仕事してたんですか?」


 自分の声が、想像よりもずっと小さかったことに驚いた。けれど五十嵐さんは、メガネ越しに目を見て、やわらかく笑った。


「前は、広告の会社にいました。事務が中心でしたけど、わりと雑用も多くて」


 あぁ、ちゃんと答えてくれた。


 それだけで、少しだけほんの少しだけ、私の心が明るくなった気がした。


 たぶん、変わるって、こういう一歩の積み重ねなんだと思う。


____




「……まさか、君がこれ書いてたとは思わなかったよ」


 ソファの隣で笑う白髪の彼に、私は苦笑しながらノートを引ったくった。


「恥ずかしいから、ちゃんと読まないでって言ったじゃん」


 彼の手元から戻ってきたのは、一冊のノート。何の変哲もない、表紙すら色褪せたノート。でもその中には、27歳だった私が、ひとりでこっそり書き綴っていた毎日が詰まっていた。


 誰にも言えないまま胸の中にしまっていた、孤独の記録。

 誰にも気づかれなかった、日陰で過ごしていた私自身の物語。


「でも……この“誕生日のくだり”とかさ、読んでて胸が痛くなった」


「やめてってば、泣きそうになるから……」


 私は笑って首を振った。

 でも、目の奥がじんわりと熱くなるのを止められなかった。


 あの頃の私は、まるで小石のように小さくなって、誰の目にも留まらないように生きていた。

 すれ違う人全員が、充実しているように見えて。日向にいる砂利から日陰にはみ出された砂利のようだった。


 恋人ができたこともなければ、親友と呼べる人もいない。

 休みの日に一緒に出かける人がいなくて、でも誰かに誘う勇気もなかった。


 SNSで流れる人々の楽しそうな日常に、ただ指を滑らせては、自分の空っぽな休日にうんざりしていた。


「……よくこんなに細かく書いてたね。誰かに見られたらどうしようって思わなかった?」


「思ったよ。でも、誰にも見せないって思ってたから、書けたの。それに、見せる相手もいないだろうって思ってたから」


 私は小さく息を吐いた。

 そしてゆっくりとノートを閉じる。


 そのとき、玄関のほうから元気な声が響いてきた。


「おばあちゃーん! おじいちゃーん! 来たよー!」


「おかえりー! 寒かったでしょ? 手洗ってねー!」


 可愛らしい男の子が、恐竜のおもちゃを片手に帰って来た。その後ろから、二人の男女も現れる。


 あの子は、私と彼の孫。

 今では立派に成長した息子とお嫁さんが連れてきた家族だ。


 ふと目を上げれば、彼が笑って私を見ていた。


「変わったよね、私」


「ううん、変わってない。根っこはずっと一緒。ちょっと不器用で、でもちゃんと前を向ける人。最初から、そんな君だったよ。それに、そういう影な部分が長かったからこそ、今の君に出会えたんだし」


「そう? でも、あなたも変わってないよ。その眼鏡もあの時と同じ……。少し、白髪が増えたけど」


 私はふざけながら言うと、もう一度ノートに目を落とす。


 何もないと思っていた日々。

 誰からも必要とされていないと思っていた自分。


 けれど、あの頃の私は確かに生きていた。ちゃんと悩んで、迷って、もがいて、少しずつ、変わろうとしていた。


 そして、小さな一歩。あの日、勇気を出して隣の席の人に話しかけた、それだけで世界は変わっていった。



 ふと、台所から香ばしい匂いが漂ってくる。

 キッチンではお嫁さんが「今日は私が作りますよ」と張り切っている。

 彼女が作る煮物の味は、なんだか昔の私の母の味に似ていて、ほっとする。


 リビングには、息子が孫と遊ぶ声が響いている。

 お嫁さんにそっくりな目をしたあの子が、積み木を積み上げては笑っている。



「今だったら、このノートにどんなタイトルをつける?」


 彼がそう聞いてきたとき、私は一瞬迷ってから、静かに答えた。


「……『日陰に住む者』、かな」


 彼は少し驚いたように目を見開いて、すぐに優しく笑った。あの時と変わらない、やわらかい表情。


「じゃあ、もう住んでないね。ずいぶん陽当たりのいいところに引っ越してきた」


「うん、そうかもね」


 私は笑った。

 あの頃は日陰でも、いまは陽だまりの中にいる。

 大きな声で笑えるようになって、誰かと一緒に老いることの温かさを知った。


 誰の目にも映らなかった自分が、今、誰かの一番になっている。


 きっと、あの頃の私は、こんな幸せを掴むことができるとか想像していなかっただろう。夢物語だと思っていたはず。


 でも、ちゃんと現実だよ。

 呼吸をして、好きだと思える人ができて。


 友人は、親友といえるほどではないけど、近所のカフェでよく会う人できた。

 年齢は、私の2個下だけど、お互いの生活や愚痴とかメッセージで送りたいときに送れる人。

 今度、少し遠くにある有名なカフェに行こうねって計画を立てている。


 私でも、幸せな日々を送ることができたよ。


 だから、これからを生きる誰かにも、そっと伝えたい。


 日陰にいたからこそ、陽の光のぬくもりを知ることができる。


 どんなに遅くたって、ちゃんと幸せはやってくる。


 私はそれを、この人生で証明できた。


 次はきっと、あなたの番かも。



『日陰に住む者』

 町山ミカ(旧姓)・著

 





読んでいただきありがとうございました! 

この物語を通して、少しでも心があたたかくなったなら嬉しいです

読んでくださった皆様に、幸せが訪れますように

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ