武装船(2)
宏美は腹部に強打を受け身を崩しながら、羽鳥や仙田律子との話を思い返していた。
海洋生命体キューブとは。
「無駄な抵抗はやめておくことです」リチーはいった。「この特殊鱗布はキューブとおなじ性質を持っています」
「……かはっ」
カーサへ向かった仲間たちは敵を退けはするだろう。だが、彼らはキューブをひとつとして破壊できない。
薄膜や気泡を利用して追い払うことしか出来ないのだ。直接的なダメージは与えられない。
物理攻撃を受け付けない物体。それは液体、個体、気体のどれにも当てはまらない〈ボース=アインシュタイン凝縮体〉と呼ばれるものである。
人類の知識では量子力学の黎明期に予言されたままの理論である。同一のボース粒子が集まると、量子統計性の自然な帰結として、低温下で単一の状態に凝縮するという現象がある。
この未知の物質は人体や家屋を、銃弾をすり抜ける。さらに映し出したフォログラムやバーチャル空間と混同し人々を困惑させる。
誰もが亡霊だ、別次元の生物だといって思考停止におちいった。しかしあらゆる文献、書物を研究してきた宏美には作られた物である以上、《《全て》》を通さないとは考えられなかった。
高橋が付けていたセラミック製の眼鏡が歪んでいた。ポケットには、いつか手渡された玩具。シリコン製の小さなサッカーボールを握りしめていた。
擬似アストラル界が、中世の街並みを模倣して建設されていた理由は、他にあるのではないか。
くるりと前に身を投げ出して宏美はアレザの足を払った。バランスを崩したかに見えたが、アレザは冷静に裏拳を宏美の頬にあてた。
「っ……!」地を削るように体は壁まで転がった。視界がぶれて軽い脳震盪をおこしている。
ボールを握っていたのは、単なる偶然だった。割れた奥歯を吐き出し、震えながら手応えを感じていた。
「……!」
歪んだセラミック、あるいは同じ材質であるシリコン製の玩具でキューブにダメージが与えられることを。
摑まれたアレザの足にピシッと亀裂が入った。ほんの僅かな聖痕だったが、それが証明に値する事象だと宏美は確信した。
人工的な金属元素と非金属元素の組合せである無機化合物材料。中世の街並みを模倣したカモフラージュ。
「シ、シリコン樹脂。シリコンからダメージが与えられるんだわ」
「はっ、こ、この魔女がっ!」
声をあらげ動揺したアレザは宏美をつかみ、また壁へ突き飛ばした。更に気がふれたように執拗に殴りつける。
「ぶっ、伝えなくちゃ。カーサにいる高橋に。金子くんに、タナーに、アッシュに伝えなくちゃ」
強化された肉体からの打撃は重く、宏美の顎は割れ、長く美しい脚は逆方向に向いていた。
「ぐ……っ。伝えなくちゃ」
目や耳からの出血に続いて、口から大量の血を吐いた。目は充血し、髪はべたりと皮膚にはりついた。
「まだ意識を失わぬか。この弱者が、この売女が、この醜い悪魔がっ!」
「……つた……つた」
バキバキと骨の折れる音。膨れ上がって腫れたまぶた。引きちぎられた服の下には血に滲む聖痕がみえた。
「……」
「ひ、宏美さん!」
アレザを羽鳥が止めようと動く。だが羽鳥は後ろ髪を引っぱられリチーの足元へ手をついた。
「貴方の相手は私ですよ、魔女め」
立ち上がろうとする羽鳥の頭部へ叫喚銃の台尻が見舞われる。護衛に囲まれ倒れれば立ち上がらせては殴り続ける。唇が切れて鉄の味が広がった。
「おいおい。この女……まだ生きていやがる。しぶといな、リチー」
「汚い魔女はさっさと殺してしまいましょう。我々の性奴隷には別の女を用意すればいい」
宏美は突き上げられる蹴りを止める力も無かった。羽鳥が動けば男のタックルにまたバランスが崩される。
「つたえ……なくちゃ」
「馬鹿がっ」アレザは怒鳴った。「何故死なない。伝える術など無かろうに」
船体が大きく揺らぎ、ミシミシと音を鳴らした。操舵室で律子が何かを仕掛けているのだろうか。
「律子先生っ!」
「……」反応はないが薄暗い連絡通路は上下左右に大きく揺れる。
「くそっ、無駄なあがきをっ」リチーとアレザ、部下の四人は左右にバラけて膝をついた。
羽鳥は倒れていた宏美と引き寄せた。「私たちって気が合うみたいね宏美さん。後でちゃんと回復魔法を使うから、ちょっと待ってね」
「……」
今まで宏美は自らの肉体に〈聖痕〉を刻み続けてきた。傷だらけになりながら、誰かを護るという希少な能力者だ。
負う痛み、苦しみを他人に押し付けることなく自分ですべてを消化して、表にも見せない人。
だから他人の痛みや辛さに寛容であり、寄り添う姿勢を自然と持っている。その優しさや強さは、彼女だけの経験から身についたものだ。
「もし彼女の痛みを、あなた達のように傲った人間が感じるとしたら、どうかしら?」
バランスを崩して連絡通路にアレザとリチー、その部下は固まる。この一瞬を待っていた。
「魔女と決めつけたのは早急だったわね。情動感能者の力を見せてあげる」
瀕死のダメージを負った宏美だが、誰かのために耐える精神力こそが、彼女の本質的な強さだ。
背負った痛みや苦痛に耐えながらも誰かを思いやる心の力。それは計り知れない彼女の愛の力。
「彼女の痛みを知って生きていられるかしら?」
観念動力で空間ごと連中を捕捉し、宏美の手をとった羽鳥は力いっぱい叫んだ。
〈聖痕付絶対的共感共振動!!〉
「……なっ?」「ふっんぐっ」
「ぐあ」「あ、あああ」「ふあっ」
各々の奇妙な声が、しばらくすると絶叫に変わっていく。
「「うわああああああああああっ!」」
発狂した男たちのざわめきが連絡通路に響き渡る。「醜い魔女といったわね。醜い悪魔といったわね。弱者で売女ともいった」
羽鳥舞はずっと涙を堪えていた。だが宏美の痛みを知って、秘めた苦しみを知って黙ってはいられなかった。
その宏美も、立ってはいられず羽鳥の肩にもたれていた。アレザもリチーも、その部下たちも誰もが意識を失っていた。
「……」
「……」
尚も武装船はガタガタと揺れていたが、羽鳥の回復魔法によって宏美は息を吹き返した。
「あ、ありがとう。舞さん、助かりました。でも大丈夫。それ以上は貴方の寿命が縮むわ」
「平気よ、時空間移動中は時間の概念がおかしいみたいよ。あっは、ほとんど全回復だわ。ふふっ」
「この人たちは……」
「残念ながら生きてる」羽鳥は両肩をあげて答えた。「すぐに気絶しちゃうんだもん。情けない奴らね」
「ぷっ」ふたりの肩が触れて微笑みが共に訪れる。羽鳥の魔術は宏美の受けた精神ダメージを、そっくりそのまま彼らへと伝えたのだ。「アハハハハハ」
ガタンと大きな揺れが連絡通路を軋ませた。赤い照明に切り替わり、緊急着陸アラートが鳴った。
予定時間の五分はとうの昔に過ぎていた。コンテナ船を切り離すことなく、武装船は明滅し擬似アストラル界のヨーク付近へと姿をあらわす。
「宏美さん、掴まって!」
「は、はいっ」
上下の感覚が麻痺するほどの激しい揺れは、岩や山に三度は衝突をしていると想像できた。
「きゃあああああっ」
「た、助けてえぇ!」
大きな武装船は川面を跳ねる小石のように岩肌を滑り、木々をなぎ倒しながら速度を弱める。
船が完全停止したとき、船体は割れ黒煙が噴き出していた。羽鳥と宏美は粉々になった通路からコンテナ船へと移っていく。
「いたたた。そっちは大丈夫?」
「う……うん。なんとか大丈夫よ」
高橋と金子の無事を確かめ、直ぐに外へ出ようと動いた。太陽に照らされて、赤い照明は残骸と共に荒野に転がっていた。
「!!」
「そ、そんな」
焼けた油の匂いと、あちこちに広がる黒煙。その先にコンテナ船の通路から荒野が見えた。
羽鳥舞は目を疑った。そいつとは海岸線で、伊藤麟太郎と明菜婆さんとで対峙した。歯がたたなかった相手。
フクロウに似た頭に、真っ黒な翼を持った有肢菌類の名家にして、賢者に続く実力者。
「か、カラス天狗……」羽鳥は眉をひそめた。「なんで奴らがいるのよ」
大破した武装船は、目の前のカラス天狗によって既に囲まれていた。弾避けにイグアナの群れと猿人、半漁人まで大軍がひしめいていた。
「……」羽鳥は宏美をみた。
「だめ、まだ金子くんもハッシーも眠ったままだわ」
「大丈夫よ」羽鳥の目は諦めていなかった。ピンチになればなるほど、力を増すかのように。「宏美さんはそこにいて」
羽鳥舞は、ひとり荒野の地に足を下ろす。ふらつきながら、ゆっくりとカラス天狗へと歩いた。
まだやれます――。




