海洋生命体シビラ
◆仙田律子◆
仙田律子は野口に「母さん」と呼ばれた日、自らの存在意義と胞子ネットワークに疑問を持った。
そして野口鷹志の友人、山城や羽鳥の行動に有肢菌類にはありえない深い繋がりを知った。
そしていま教え子でもあった金子と高橋、羽鳥。宏美という魔女、五人を乗せた武装船がポートをたとうとしている。
「さっさと行こう」金子と高橋が騒々しく喚く。この状況でもポータルを乱用しないのは冷静で正しい判断だと感じた。
追跡されるだけでは済まない。おそらくあの場所以外で本物の〈宝珠〉を使用すれば、海洋生命体は気付いていただろう。
宝珠の能力を知れば擬似アストラル界すべてを再構築する可能性すらある。まったく事態の落としどころが見えないではないか。
「次元間の潮流にのる。出発はもう少しまて。嵐を最大限に利用して疾走させる」
馬蹄型の操縦席に腰掛け、機器に集中する。隣には羽鳥が、後部に四人が座っていた。
焦る気持ちも分かる。こいつらは自分と同じく慎重で心配なのだ。だが今はムカッ腹がたつだけだった。
ぶつぶつと専門用語を呟きながら気を鎮める。やるべきこと、考えることが多すぎる。
ずっと〈賢者の石〉を奪って逃げることは出来たはず。場合によっては今から〈宝珠〉を奪って逃げることも可能だ。
だが、山城だけではなかった。野口鷹志の友人を見るたび、そこに彼本人の存在を感じるのだ。
「ここに野口くんもいるのね」羽鳥の声に金子は頷いた。「大丈夫だよね。苦しんでいない?」
「……」律子の胸が苦しくなった。なぜ、なぜ野口が苦しんでいるかと羽鳥が心配するのだ。あいつはフォログラムの姿で肉体は無いのだぞ。
「分かるのか」金子は律子や羽鳥にも野口を見る能力があるのかと、懸念の目を向けた。
彼の心理を想像するくらいは出来ると思っていた。仲間や友人を巻き込みたくない、全員を助け出したいと野口は願った。
「ずっと悔やんでます」高橋は頭をかいて話た。「野口は仲間を引っ掻きまわしただけ。状況はなにも変わってないって」
「そんな理由があるか!」思わず声を上げた自分が情けなかった。後悔とは何だ。なぜ自分を責める必要がある。
「……」
違う決断をすれば良かった。いいや、そんな理由があるものか。
山城は伊藤を助けるためにレッドカードを渡した。草薙はプロ行きが決まる試合を捨てた。高橋、金子は神父に離脱を勧められたのに、ここにいる。
野口は迷わず、肉体を捨てて精神を分断したではないか。羽鳥はみなの為に自爆を試みたではないか。
こいつらは同じ失敗を何度でも繰り返す。たとえ人生を繰り返しても、どうせ同じ決断をするのだ。それが分かっているから私は苛つく。少しも成長しない。
それが分かっているから、私は放って置けないのだ。分かっているから……愛おしいのだ。
「本当は何と言ってる。野口は私を頼っていないか。胞子ネットワークを使えといっていないか?」
「なっ、何いってるんですか」金子は動揺している。「バレますよ。そんなことしたら先生の位置から何から有肢菌類に見つかるでしょ。こっちにカラス天狗も賢者も来てるんですよ」
「巻き込んでやればいいさ。待てよ、悪い考えじゃないな」
「ま、まじすか」金子と高橋は互いを見合った。「たしかに胞子ネットで野口は山城に繋いでくれって言ってます……俺たちは反対したんですけど」
「ほうらみろっ!」怒りの声をあげながら私は笑っていた。「忙しいな。すべて同時にやらなければならん。時間旋と胞子ネット、出航したら嵐に突っ込んで、コンテナ船に乗り換える」
潜入していた仲間の情報によれば、方舟が次元間航海に出ても僅か五分で操縦権は海洋生命体に渡る仕組みだ。
操縦権が移れば、この方舟はこのポートに逆戻り。双胴コンテナ船は機器をオフにして、荒れ地に軟着陸する。
既に機体からの信号は同期されており、次元間の情報は向こうに漏れることはない。
「なんか楽しそうっすね」
「馬鹿をいうな。飛ばすぞ、野口に胞子ネットを繋ぐといえ」
〈賢者の石〉は羽鳥舞が所持している。野口は、賢者の石を山城が持ったままだと思っている。
胞子ネットに精神を繋げば、彼の考えや行動は有肢菌類に筒抜けになるだろう。
だがそれでいい。賢者やカラス天狗は〈賢者の石〉を海洋生命体に奪われることだけは許さないはずだ。
人間と海洋生命体との戦いでは勝ち目はないが、海洋生命体と有肢菌類の戦いになれば話は別だ。
最期に陽炎は言った。決して後悔などしないと。私はどうだろうかと考えた。
もう迷いはなかった。
「はじめるぞ」
「はい」「了解」
※
黒煙と白濁した泡が舞うカーサに、風はやんでいた。海洋生命体キューブのほとんどは自意識を持たない。
発達した自律神経が人並みの判断や会話をすることはあっても複雑に複合した個体をまとめる存在は要らなかった。
優れた情報伝達。電子ニューロネットによって全ての意見や発明は吸い上げられ、万人の万人による万人の為の支配が約束されていた。
既に自我や個人の欲求は無用の長物とすら考えられていた。精神世界には格差もプライバシーも差別も存在しないからである。
必要なら自我くらいのものは何時でも持つことは出来た。それが今だった。
同じ銀髪でピタリとしたマーメイドスタイルの女性たちの姿だ。中心の一体は開いたドレスの胸元に宝珠を持っている。
八体まで増殖した海洋生命体の王シビラに、自我が現れていた。はじめにニ体。
タナーとアッシュは最前列に立ち、数歩とあけずに八人のボロ布をまとった野戦司教が身構えていた。
「相手も八人か!」
「こちらも八人だ」
「魔女は固定観念板で防御にまわってくれ」
「ひとり一殺でやろう」
血気盛んな囚人もいるようだとタナーは溜め息を漏らす。バラバラに戦うのは分が悪い。無謀だ。
「まあ、待つんじゃ」アッシュの落ち着いた声だった。「すまんが知り合いの若造と女の子も付いてきてしまった」
「俺は山城祐介、この娘チータも戦える。だから来たんだ」
「ふっ、急拵えの部隊では戦えん。まず儂らがいく」
「「は、はい」」
「ふぉふぉ、やけに素直じゃな」
男たちは円を描くように魔女のふたりに背をあずけた。更にその背にいた山城を守る隊形。山城は黙っている少女と語りあっている。
「僕は第七次北欧紛争で貴方様に仕えました」
「俺もです」
「私はタナー教官から中東部隊を任された者です」
「自分は格闘と射撃訓練を受けました」「俺も作戦に参加した」
「聞こえましたか。みな、貴方たちの命令は絶対に守ります。死ぬ覚悟もあります」
「やれやれじゃわい。年はとりたくないのぉ、タナー」
「ハッハッハ、まったくじゃ」
二体は〈ホコラ〉と〈モモラ〉と呼ばれていた。まだ好奇心を持っている比較的若い個体が選ばれた。
過去二百年、地上から部隊が何人攻め入ろうが五分とかからず収まっていた。
自我を持つには情報経路を細く、あるいは遮断しなければならない。同時に生まれた二人が選ばれたのは単純な理由があった。神経伝達速度や処理能力が同じだった。
「信じられますか。我々が、こうして会話をしていることが」
「とても不思議な感覚ですね、モモラ」
「懐かしい感覚ですね、ホコラ」
「彼らは何が目的なのでしょう」
眼下には身体の大きい老人がふたり。地下組織の人間が八人と魔女がふたり。真ん中に腕の長い若者と少女がいる。
「混成部隊でしょうか。まずは我々と会話するのが目的だと思いますよ」
「ええ、それはそうでしょ。その為に私たちが来たのですから。あんな野蛮な連中と何を話すことがあるのでしょうか」
「ないでしょうね。我々の法を犯した者の刑罰はひとつだけですからね。冗談はそれくらいにして、さっさと駆除したほうがよさそうです。市民はそれを願ってます」
「みんな死ぬのに可哀想なひとたちですね、ホコラ」
「死ねない我々のほうが可哀想かもしれないって思うことはありませんか。モモラ」
数年ぶりに自我を覚醒させたモモラは、発する言葉が干渉されない現実世界を満喫したいという感情を演じていた。
「うらやましいくらいだ」
それこそが感情だという意識はなかったにせよ。おかげで集合体からの離別に孤独を感じることはなかった。
「発言には気をつけるべきよ。ホコラ。シビラには干渉されていないと思っているようだけど、わからない?」
「ああ、何か干渉している」同じ顔のふたりは引き合うように宙を舞いながら近くに寄りそった。「有肢菌類の胞子ネットかな。微量の信号があったけど、すぐに消えたみたい」
その信号は間抜けな顔をした老人のずっと後ろにあった。まだ若く制服姿の背の高い男だ。
黒髪パーマで背は高い。ぶつぶつと独り言をいいながら、銀髪の少女を連れているのが見える。
「あいつに見られてるからって、慌てることはないだろ。モモラ」
「何を話しているのかしら。あの娘を構成する物資は……我々と同じナノ・キューブでは?」
気をそらした瞬間だった。二人の老人が目前から消え、背後からホコラとモモラを抑えつけた。
「なんだって!」
ブゥオオオン……と大木のような腕を振る音がした。人知を超えたスピードと威力に唖然とする。
肉体のコントロールは得意分野のはず。だが、まったく動かすことができなかった。恐怖を覚えたホコラが叫んだ。
「ひいっ!」
「なんて速さなのっ」
「……」
「しっかり生に執着しとるじゃないか。避けるんじゃないわい」




