離脱
◆マット・イーター(野口体)◆
近隣に配備されていた海洋生命体キューブと巫女を失い、錯乱状態に落ちたヨークの街。
有肢菌類の賢者シルバーバックは、その僅かな隙をつき〈蝙蝠男〉を送り込んだ。
野口とアンディ、細川、ヒロの四人は市街まで連中をおびき出し、その殲滅に成功する。
そして野口は配合種と化した蝙蝠男と群生生物イグアナから〈楔のパス〉と呼ばれる能力を得た。
精神を分裂させ、ノルウェーと疑似アストラル界の荒れ地、同じく中央都市リーンへと飛んでいってしまった。
残されたヤツの身体を預かる俺さまと、アンディ、細川、ヒロの四人はしばらくミーファという女の家に隠れた。
そして部屋にいる三人は、ときたま他の仲間の誰かと入れ替わり会話をしたり、罵りあっていた。
ずっと共に戦ってきた俺さまに本当にパスが繋げないかどうかは知らんが、寂しいものだ。
(俺の助けは要らないのか?)そう少なくとも三百回は自問した。俺の役目はもっぱら蝙蝠野郎二匹とカラスの使い五匹と同じ、見回りだった。
ヨークの住人と平和的な和解ができたのは良かった。そして当初の目的であった器、野口の肉体も手に入れたわけだ。
俺は素直に喜べなかった。たしかに体内に埋め込まれた海洋生命体コアには〈ジェニファ〉という見張り役もいる。
だがそれ以上に、野口との関係が絶たれたことに悲嘆と同様にむなしい感情の発作を誘発された。
まったく俺らしくない。設計者が作品を手放したくない気持ちなら分かるが、それとは違う。この感覚は違うんだ。
つまり俺は久々の自由を手にしたと同時に、役割りを終えた定年社員の気分を味わっていた。
(しかし、なんと体が軽いんだ。俺が改造したとはいえ生命力に満ち溢れている。それに随分と腹がへりやがる)
食堂には五人の若く美しい女が給仕や手当に出入りしていた。とくにサラとミーファは、俺(野口)から目を離さない。
少なくとも俺だけは警戒の対象だと思われている。メンバーとも、あのとき共に感じた堅い絆は薄れていた。
まあ、仲間からも警戒されているんだ。無理もない。
感覚が鋭敏なうえ幾らでも食える。この身体は預かっているだけだから、体型は維持しなきゃな。
「そろそろ、皆さん寝室を分けたほうがよろしくないですか?」
頬を赤らめたミーファが露出の多い服で細川の肩をなでた。敏感なのは味覚だけじゃない。
「な、何をするつもりか知りませんが、わ、私には婚約者がおりまして、紹介しておりませんことを深く反省しておる次第です」胸の谷間を前に、早口でまくしたてる男。「ネヴァン、ネヴァンは……しまった。見張りを終えて私のベッドで寝ていましたかね」
ヒロはキョトンとしていたが慌てたように続けた。「お、俺には大事な彼女がいるんだあっ! 愛美、ごめん、愛美っ」
「「あはははははは」」
「はあ……ごめんよ」
先に謝れば済むとでも思ってるのか、ヒロよ。まあ、高校生なんて発情した動物と変わらん。全員が落とされるのも時間の問題だ。
サラは食事中のアンディの隣に座った。「あなた、このあと私とセックスしない?」
「ぶっ!」
「もちろん彼女がいるなら遊びでもいいし、後腐れなしで名前も覚えなくていいわよ」
「えっ、ええっ。そ、それって社会勉強になるかな」うぶなアンディが頭をかいた。カツラが気になるんだろうか、馬鹿なやつ。
「避妊具もあるのよ。ラバースケイルっていうの。装着感はなくて、潤滑ゼリーを自分の体内から生産抽出できるのよ。他にも貴方たちの知らない道具がたくさんあるわ」
「それは」細川が立ち上がる。「じつに興味深いですね。勉強会も必要かもしれません」
お前は玩具に興味あるのか。本当にオタクだな。
野口なら何というだろう。一夜を共にして結束を固めたって別にいいんだ。いつ死ぬか分からないなら、遊びでも構わない。
どういう理由か、三人は俺を見た。俺の意見が必要だとは思えなかったが何かを期待された。
「ごほんっ」俺は言った。「避妊具なんか必要ない」
「「わぁっお〜!!」」若い女たちは黄色い歓声をあげ、笑顔をみせあったが俺は制した。
「何故なら愛している人間と信頼関係を築いて、周りの連中にも祝福されて、生活基盤や環境を万端にしてから、はじめて愛の結晶が産まれるべきだからだ。お前らが行為をするのは、ずっと先になるだろうな」
「ぷっ!」ミーファと思ってサラと手を叩いて笑う。「冗談よね。あはははははは!」「あっは、面白いわ!」
設計士の仕事とどこか似ているのだ。見た目は野口だが、俺は年長者として話を続けた。
「大切にしたい。傷ついて欲しくない。ずっと一緒にいたいと心底願う。彼女と子供を守ってやりたいと誓えるなら、誰も止めやしないさ」
「えっ!?」雲行きが怪しくなってきたと感じたサラは首をかしげていた。「古臭い話よね、説教かしら」
「あいつが産まれたとき……産まれたというのは語弊があるが、あいつが能力に目覚めたとき。俺は手を優しく差し伸べて、ゆっくり成長を夢みたんだ。苦しくないか寂しくないかと、そいつのことばかり考えて、想像したんだ。俺は浅はかで愚かにも、あいつを傷付けてしまった。何度もな。だがあいつにとって、良い者になりたいと考えを改めた。支えてやりたいと感じた。はじめから、そう出来たらどれだけ良かったか知っている。あんなことは初めてだったが、俺は本気だ」
「……」「……」「……」
俺は何て恥ずかしい話をしているんだ。あの純粋な野口にすっかり感化されちまったみたいだ。
「わ、笑えるわっ。子作りなんて思ってないよね、ウケるわぁ!」
「笑いたけりゃ笑え。俺は体を安売りする気はないし、こいつらの安全を優先したいだけだ」
「……」
「可笑しくない」アンディは静かに立ち上がり、サラたちにいった。「すまないけど席を外してもらえないかな」
「わ、わかりました。あの、ごめんなさい。私たちも野口さんの話を聞いて、配慮が無かったと感じています。すみませんでした」
「う、うん」
「ふん」「なによ」
「ほら、行きましょう」
サラやミーファが部屋を出ていくときに別の気配がした。入口は闇に近かったが、そいつが誰かは皆が知っていた。
「大也さま」濡れたような黒髪の美しい少女が膝をつくと木造の床が軋んだ。
「ネヴァン。他の烏たちは?」
「去りました。彼らは陰鬱で無感情な呼び声に躊躇して、どちらも選ぶことが出来なかった」
「選ぶ?」
「はい。つい先程、私はベッドから身を起こし冷たい床に素足をゆっくりと乗せました。まだ頭はハッキリとしていなかったのです。憎むか……愛するかです」
「おかしな子ですね。私は弱いのです。貴方に差し出すものは愛することしか出来ないと伝えましたね。貴方はこれが終わったときには私の首を持ってカラス天狗の元へ帰る約束のはずですが」
蝙蝠男を相手にフギンとムギンを失ったばかりだというのに。〈マッハ〉か〈八咫烏〉は此方に残しておきたかっただろうな。
「相手は、そのカラス天狗です。こちらに来ているのです。彼らは、どちらに従うべきか迫られるのを避けたのです」
はたして本当か。離脱したカラスから、どれほどこちらの情報が漏れているのか分からんぞ。
拒絶反応で頭髪を失っているアンディ。以前のようなフットワークはないが、ヘイトを操る技術は増している。
ヒロのダメージも計り知れない。彼の能力〈奪取〉は元々が直接的な戦いには向いていない。
ただ奥の手である時空間移動を使えば、戦況はひっくり返る。それこそがカウンター攻撃の本当の力だ。
「ヨークの城壁に有肢菌類が集まっています。記憶置換された蝙蝠男を使って〈まだ攻撃はするな〉と信号を送っていましたが、もう後がありません」
口を継ぐんだままの細川にヒロが詰め寄る。「俺はマットの〈薬指〉で回復したが、ほとんど感染していない細川には、さほど効果がなかったんだろ」
「気付いていましたか」
「海洋生命体が地上を攻めれば二万人の被害がでる。傷を癒したら、すぐに仲間の場所に向かうべきだよな」
「私の作戦はすべて野口くんに伝えました。これ以上は足手まといになるだけです。私は、私だけはここで降りるべきだと判断しました」
「何だって」アンディが駆け寄った。「ずっと一緒だロ!」
「分かりませんか。これ以上は怖いのです。私は女子にも勝てない肉体なんですよ」
「そ、そんな」
「悪いが俺も賛成だ。俺もこの体で海洋生命体や有肢菌類と戦うつもりはない。細川は、離脱してもらう。しばらくは廃墟にでも身を隠すんだな」
静寂がながれた。頭では理解できても信頼する仲間が抜けると言って、ハイそうですかとはいかないのだ。
「マットさん、貴方の言葉。刺さりましたよ。私の家庭は所謂デキ婚でして、両親は私が産まれたことを後悔していましたから」
細川がどれだけ疲弊していて仲間が、どれだけ危険な状況にあるかも分からなかった。
冷や汗に酩酊状態。立っているのもやっとなのだ。
「俺たちは蝙蝠男とカラスの使いの捕虜になったと情報を流す。作戦は俺に任せてもらうぞ」
「貴方なら信用できます、マットさん。誤解していました。貴方は野口くんを実の息子のように感じているのですね」
「ああ」そうだ。そんな資格はないがな。「また会おう」
「はい。また会いましょう」