少年の詩(2)
舞台と客席に高さの違いはなく、パイプ椅子が並んでいたのは演者から僅か二メートルほどだ。
空席は三つ。広くはない室内には、立ち見を合わせて二十七人。項目を終えた園児や乳児は控室に移されていた。
「!!」
ぼくを撮影しながら白いハンカチを顔にあてたママ。無防備な背後には青白い顔に眼球が飛び出した男がいた。その恐ろしい形相にぼくの身は凍った。
男の腕が空をきったと思うより速く、ママの左手はその喉にナイフを突き上げていた。
右手に持っていたハンカチを優しく男の喉にあてると生々しい赤になって、ゆっくりと倒れた。
音はなく、空気は重く感じた。世界は灰色でぞっとするほど不調和な色彩に染まっていた。静寂が打ち壊されたのは、部屋の奥でパパが園長先生を突き飛ばしてからだった。
木製の扉が砕かれ、激しく打った頭はあり得ない角度に曲がって、腕も折れていた。
パパは元もと地下組織にいた強化型戦士だった。魔女団にいたママと出会ってボクが産まれた。
「たっくん」ママがいった。「ちょっとだけ頭を下げて」
銃声が二回。義弘くんとマキちゃんの体が舞台の奥に飛んでいくのが見えた。
「くそっ」パパの声だ。「たっくんの友達もやるのか。少し計画とちがうんじゃないか」
「仕方ないでしょ。この子たち、顔は天使だけど態度の悪さときたら悪鬼魔なみよ」
ママの前後左右から一斉に吸血鬼と化した親たちが掴みかかった。三発撃つと四発目に拳銃を掴み取られた。
慌てずにカメラの三脚を使って男の人の頭を横薙ぎにして振り回しながら、パイプ椅子を足にかけた。
「大丈夫よ、たっくん。でも怖がったらだめ」
畳まれた椅子は走り込んで来る女の人の足元へすべった。カメラをはずして三脚の先を他の人の顔へ突きさす。
「何人やる?」パパはピアノに置かれた中国製の花器を手にとって吸血鬼にぶつけた。「全員かな」
「そうね」奇妙な時間の止まった世界だ。ここで蠢いているのは人間を利用して世界を牛耳る怪人たちだけ。
首をグラグラに揺らしながら園長先生か起き上がった。『クソおうぅうあうぅ! ガキを狙え。ガキがどうなってもイイのかうあぁおおぁあよぉおおっ』
「やってみるかい? たっくんは強いぞ」
刻読みの魔女。攻撃魔法は持たないが、相手の脳波からイメージが見える能力者。母親は銀の弾薬を詰めたリボルバーとナイフで吸血鬼を確実に駆逐していく。
『な、なぜだ。胞子ネットワークが使えない――』
パリパリと電撃を帯びた腕や足を使い、父親は肉弾戦で吸血鬼の首を落としていく。稲妻のように速く硬質化した手刀は、容易く吸血鬼の肉体を切り裂いていった。
最速の遮断者、雷光と刻読みの連携技は連中の使う胞子ネットワークを一時的に封じている。ふたりは最強の組み合わせといえた。
有肢菌類の強みとは独自のネットワークで常に仲間とあることだ。ちいさな戦闘であっても配信されていれば無限に敵対者を集めてしまう。
ただひとつ問題がある――胞子ネットを無効化する能力と引き換えに、同種の組織とは決別するしかなかった。他人が加われば、成立しない限定的な能力であった。
吸血鬼たちの頭はコロコロと部屋中に転がった。何事もなかったような笑顔でパパとママはぼくをみる。敵対者の姿は居なくなっていたが、ずっと胸につかえた不安は拭えなかった。
「まずいな、拓巳の心拍数が上がってる」
「怖くないよ、たっくん」
「歌おう、一緒に」
どんぐりコロコロどんぐりこ
時間旋にハマってさぁ大変
怪人出てきてこんにちわ
たっくん一緒に遊びましょう♪
パパたちに他の方法なんてなかったんだと思う。胞子ネットを遮る能力で、ぼくの声やぼくの共感力、ぼくの怒りやぼくの恐怖心を封じ込めた。そして意識は常にパパとママと共有できた。だから友達なんていらない。
優しいママと、楽しいパパが居ればよかった――。
※
「イトりんと野口はまだか。ヴィダの肉体をいつまで抑えられるかわかんないぞ?」
現実世界で中島拓巳と対峙していたのは中条洋と、フォログラムの細川大也である。ヒロは肉体を乗っ取ったヴィダ・ビーの動きを抑え込んでいる。
次元の外縁である薄膜を意識しながらヒロは眉をひそめる。同じ肉体で活動している以上、僅かに野口と伊藤の意識も流入してくるのだ。
細川もこの異変には気づいていた。「我々は、中島くんがヴィダ・ビーに意識を記憶置換されたと単純に考えていました。しかし実際に彼の意識を封じていたのはこのネズミの怪人ではなかったようです」
「死んだ両親だってのかよ」
「うっ、うう。イトりん」背後に立ち上がる懐かしい男の声。「お前じゃないのか。なんでヒロに姿が変わってるんだ。一条なのか?」
『待っていました』
すでにフォログラムの細川から草薙に〈楔のパス〉は繋がっていた。チームの誰もが、三人は賢者の犬になり魔女団や地下組織と交戦していた事実を知っていた。
だが、事実だけが全てとは限らなかった。魔女団を裏切り人類を貶める大司教や、地下組織の中に紛れたスパイ、洗脳された同じ人間ですら信用出来なかった。
長い間、彼らは誰も信じてはいなかった。危険を排除してきたのは自らの意志であり、けして人類や仲間を裏切っていたわけではなかった。
カジノで金子と高橋と対峙した時でさえ、悪役をかって出て仲間を逃がそうとしていた。三人いれば、不可能なことが可能になった。
〈誘導〉〈圧縮〉〈突破〉を駆使し、試合の流れを作るのはミッドフィルダーの仕事だといって――。
「繋がるはずだと確信していました。貴方たちは信頼できる仲間です。いまでも。いいえ、はじめから」
楔のパスが繋いだ精神に、草薙と前田の苦悩と葛藤の日々が流れた。賢者の犬に偽装して、可能な限り人々を救い出してきたのだ。
「説明はあとだ、草薙。野口とイトりんは、やつの頭の中の中島拓巳を救いにいってる。力を貸してくれ」
「まあいい、そういうことかよ」草薙は、よろめきながら立ち上がった。「中島の本来の能力は〈突破〉だ。ヴィダの裏をかいて、俺たちと会うことは容易かった」
草薙はヒロの左肩に手をかけた。いつか明菜婆さんが羽鳥舞の背中から力を注いだ姿と似ていた。
前田のほうも意識を回復していた。低い唸り声をだしながら壊れたテーブルを這い上がるように立ち上がる。「ああ、だから倒せると思った」
「甘かったですね――」と応えたのは中島ではなくヴィダ・ビーだった。
「次元の薄膜を利用した結界術ですか。この能力をつかってポータルを開いていれば疑似アストラル界へ逃げられたはずでしょうに?」
「俺達は仲間を見捨てて逃げない」前田は立ち上がってヒロの右肩に手をかける。「まだ、貴様を倒せるって信じてるぜ」
ミシミシと部屋の外から地鳴りのような音が響いていた。有肢菌類は胞子ネットワークを使って常に同種を呼び込んでいる。すでに屋敷を囲んだ数キロ以内に敵対者は何百何千と集まってきている。
「貴殿らの嫌う〈どぶネズミ〉が数百、他の従属種が数千もきております。ここを襲撃するのは時間の問題です」
地鳴りはだんだんと大きさを増していく。「どうですか、怖いですか。小さな牙で肉体を細切れにされるのは苦しいでしょうね」
天井からは砂埃が落ち、床はボコボコと形を変えていた。締め切った扉の先から無数の奇妙な鳴き声が聞こえてくる。部屋全体が生き物のようにうねっていた。
四方八方がヴィダ・ビーの従属種であるネズミに埋め尽くされていく。〈圧縮〉と〈誘導〉の能力を加え、かろうじて室内の空間は保たれている。
「私は疑問があります。絶望と恐怖の中でも、その友情ごっこは続くのでしょうか。一般的な人間は死という共通で絶対的な平等を前に、不平等を訴えだします。見苦しく不公平だと権利を主張しだします。それが貴方達には、当てはまらなかった。何故でしょう?」
「天上で人を見下してるような神様にはわからねぇだろうな」
「草薙くん。私は英雄的観念のために死ぬ連中にはうんざりしているのですよ。そういった観念を持つことが容易で安易だとも知っています。泣きわめいて、もがき苦しんで、皮を剥がれて、絶望の渦中にのたうつ姿を見せてください。そのとき、今一度この質問を試してみたいですね」
足元は大きく揺れた。部屋は傾き、ギシギシと大きな音をたてた。冷たい汗が背中を滑り、口の中が乾いていた。
『心をひとつに』細川がいう。『少しでも気を抜けば一瞬で潰されます!』
建物がバキバキと崩れだし、立っていることも難しかった。
「友よ、信じてくれてありがとう。俺は、またチームと繋がれて一緒に死ねるっていうなら構わない。たまたまって言ってたけど、あの歌を、あの懐かしい歌を――」草薙が二人に泣きそうな声で囁いた。
「はははっ」ヒロもよく歌って、笑って、リズムをとった歌。「あのとき流行ってた替え歌だよな。中島の目つきが変わったんだ。たしか気づいたのは野口だったよな」
「ああ、バカだよな、グスッ」前田の手は恐怖で震えている。「俺たち、ここが死に場所だってのに。怖くて怖くて仕方ないのに、皆で集まれた喜びで、嬉しくて、一緒に歌いたいだなんて」
「ごんな時だからだ。ぐぞっ、涙が流れてきた。恥ずかしくなんかないぞ、ぜいいっばい歌う。お前も歌えよ、ヒロ。ぜーの」
どんぐりコロコロどんぶり子
クーちゃんライスはいかがです
たっくん一緒に遊びましょう
どんぶりコロコロどんぶり子
小僧が出てきてこんにちわ
たっくん一緒に遊びましょう
どんぶりコロコロどんぶり子
怪人出てきてこんにちは
たっくん一緒に走りましょう
間抜けな歌詞を叫びながら、三人とも涙が止まらなかった。呼吸は重く苦しいままだったが、僅かな勇気と仲間の存在を感じた。
誰も一人では死なない。死ぬときは一緒だというように互いに固く手を繋いでいた。
どんぐりコロコロどんぶり子
「ぐずっ、クーちゃんライスはいかがです……ぐすっ」
無数の真っ黒なヴィダのネズミが床を、壁を、天井を突き破り、三人に襲いかかってきた。




