裏切り者(3)
『ううああああああっ!!』
小気味いいザクリという音とともに、くるくると陽炎の手首が舞っていた。どこからともなく白刃が滑りこんでくる。
「ふふ、反応していたじゃあないか。でも、避けられない……だろ?」
『現実ではない。これは単なる賢者の石を利用した精神攻撃だ。実際の刃がこの身を斬りつけているのではない』
だが払われた足にバランスが崩れる感覚はまるで現実だとしか思えなかった。斬りつけられた膝からは多量の血液が吹き出している。
実際の攻撃と精神攻撃、その区別がつかなければ、闘いにすらならない。さらに一撃、一撃がとてつもなく重い。
山城は同じ精神攻撃を受けているはずだ。それをそっくりそのまま、投影しているだけに過ぎない。それなのに何故、こちらだけが疲弊し絶望しなければならないのか。
狂っている。いや、人間の知能が低いからこそ、痛みに対する感覚、精神力に優位性があるとでもいうのか。
バランスを崩したワタシの胃袋に、肝臓に、顔に、腰に、嫌というほどの蹴りが襲う。機械的に、執拗に続く連撃。
「おいおいおい、今日は散々だな。無力な生身の人間に痛めつけられる気分はどうだい」
どさりと尻をついたワタシは、腕の出血を抑えて、のたうち回るしか出来ない。山城は容赦なく、更に蹴りを入れてくる。
全身が痙攣し、意識が朦朧とする頃には痛みすら感じなくなっていた。荒かった息使いが収まり、生ぬるい血がドクドクと流れ、顔と背筋の汗は氷のように冷たく感じた。
パラドックス。不完全性定理。宇宙には知ることのできないものがある。どんな知識にも限界があるらしい。何年も生きてきた有肢菌類の名家でもこんなものは、はじめて見た。
優劣で判断していたことが間違いだった。これは人間の劣るが故の勝利だというなら、敗北を認めざるを得ない。
『セ……センリツ』
這いつくばるワタシは死を覚悟してささやいた。愚かだと決めつけていた人間に負けた愚かなワタシを認めたのだ。
この人間の精神力がはるかにワタシを上回ったのだ。そのことは事実だった。
(センリツ、ワタシが自害したらキミにどんな影響があるかな。少しは精神が揺れるか、あるいはキミは、解放されるのではないか。いつかキミが語った自由という概念へ)
痛みの感覚が失くなると、感情までも深い海に沈んでいくようだった。生あたたかい血は、川になって流れていく。
「…………」
「……」
「……回復魔法」
温かい。溢れていくのは血ではない。これは感情だった。いや、もっと単純に、涙が溢れでていたのだ。
(馬鹿なっ……何故、何故だ)
ワタシに呪文を唱えたのは、みすぼらしい制服姿の少女だった。それは術式なんて立派なものではない。自分の寿命から時間を切り貼りして与えただけだった。
ただ、それだけのことに……全身に鳥肌がたち、力がみなぎってくる。この世界に無償のものなどないと信じていたワタシが、一度として、感じた事の無いものだった。
(……なんて、あたたかい)
「なんで私が裏切り者なのよ。この人は絶対に殺さないわ。聞いていたら分かるでしょ、先生を助けに来たのよ」
「おいおい。殺らなきゃ、殺られるんだぞ」
「分かんないかな。あんたが、ここにいる理由だって誰かさんを助けるためじゃない。この人にとっては賢者も海洋生命体も関係ないわ。同じなのよ」
「ふざけるなよ、議論なんかしてない。お前は何の苦労もしてないし、見ていないから分からないだろうが、こいつは殺人鬼だ」
「いいえ、大量絶滅や大洪水にも関係していないし、なにより洗脳に強い拒否反応を示していたわ。彼を殺すっていうなら、あんたは自分の意志も野口くんも裏切ることになるのよ」
「の、野口っ。どうしてそんな酷いことを言うんだ。野口は、野口は関係ないだろ。よく考えて言って良いことと悪いことを勉強しろよ」
「……」言い争いを続けるふたりを見上げながら、ワタシは考えていた。
あの時、ワタシは賢者の石を持って時間旋の起こす巻き戻しを見ていた。賢者に感染していた山城に出来るのは、精神攻撃の劣化板に過ぎない。
それも破壊、破滅、崩壊に限定される。相手の精神的なパワーを利用し、別の角度から放たれたように見せるだけの能力だ。
専守防衛の能力。自分の殺られたことを映像にして相手に見せるだけだった。実際に傷が付いたり、死に至るわけではない。
あくまで精神に限定された能力だった。だがワタシは度重なる蹴りの連打を受け、自らの放った白刃に頭を跳ばされる映像に驚愕した。
生まれてはじめて感じた恐怖。死を現実に感じてはじめて知った天使のような少女の存在。彼女は自己犠牲を越えた光の存在だった。
「……回復魔法!」
「おいっ、おいおいっ、いい加減にしやがれ。殺さないのは分かったが、完全に回復させてどうする気だ。先生も何とか言ってくれよ」
天使の胸ぐらを掴んでいた山城が見えた。沸き上がる怒りの感情を鎮めたのは、彼が泣いているのが見えたからだ。
彼のイメージした世界が僅かに逆流して感じられた。平気な素振りを見せてはいるが、少女を背負ってワタシを見た瞬間の恐怖と絶望は、言葉に出来ない。
素振りを見せてはいないが、山城の精神的なダメージは壮絶なものだった。
「……」
センリツは黙ってワタシの身体に腕を伸ばした。それが彼女の答えだというように。少女はまた山城に詰め寄った。
「で、なんで山城が泣いてんのよ」
「立っていたんだ。こいつは、この俺の真ん前に。そんなことが平気な訳があるか。平気を装おっているが、平気じゃあない。それを、裏切り者は俺だってのか。そうだ、俺は野口を散々痛めつけて、裏切ってきた」
「……わ、悪かったわよ」
人間はそんなことで泣くのか。繋がりがないからこそか。山城にとっては野口を裏切ったという言葉が地雷になっているようだ。
彼も、少女も、センリツも誰かを裏切ってきた。ワタシは胞子ネットを切断し、ゆっくりと少女の前にひざまずいた。
「なっ、なんなの。急に」
教師姿のセンリツにならって擬人化する。色白でサラサラした金髪の西洋人を見て、少女は戸惑っているように見えた。タイトスカートのセンリツは何も言わない。
『教えてくれないか』
初めから分かっていたのかもしれない。センリツは育成したいと言った。ワタシは彼女の言葉を誤解していたようだ。
『育てるといったのは、人類との繋がりや、友好関係を期待をしていたのか。だが、それは、裏切りだ……裏切っている』
自分の見たいものしか見ていなかった。ネットワークは見たいものを見せてくれた。いつの日か我々はファンタジーを作り上げて幻を見ていたのかもしれない。少女より先にセンリツが口を開いた。
「間違っていたのはネットワークのほうだ。私たちは偏見を捨てて育てなければならない。彼らに出会ったのはチャンスだ。人類だから、海洋生命体だからではなく、本物の彼や彼女を見なければならない」
『こうなると思っていたのか』
「こうなると思っていた」
ワタシは少女を、じっと見た。自分の希望ではなく本物の彼女を。回復魔法は、この世で最も残酷な仕打ちかもしれない。
みごとに期待を裏切ったのだから。ワタシはこの少女と共に在るべきだと思った。確かにネットワークに残れば安全な生活が約束される。
管理された快適で幸福な世界。造り物の世界。真実が何処にも存在しない世界。
『ワタシも裏切り者になれるだろうか』
「なれるさ。それがはじまりだ」
片膝をついたワタシは羽鳥舞と呼ばれる少女の従属種となる決意を示す為、両手を広げながら頭を垂れた。
『ここに永遠の忠誠を誓うぞ。羽鳥舞』
「……」少女は優しく微笑みを浮かべた。だが手の甲をサッと引っ込めて言った。「キスはしなくていいわ。気持ちは嬉しいけど」
『……ま、まあ、よしとしよう』
「俺には誓わないのかよ、なあ、どうしてかな。教えて貰えない理由があるなら、秘密が二つになるぜ。俺にキスしてくれよ。そうやって黙っていたら、秘密はどんどん増えるんだ。そういうのは良くないだろ、先生も何とか言ってくれよ」
「ぷっ……ふふふ。さあな」
そして方舟が動き出す。海洋生命体の自動回収システムが作動したのだ。リング状に渦巻く彩炎がが燃え上がり、全システムが作動する。
機能を失った無数の海洋生命体キューブはロープで繋がれた列車のように方舟に追従して、中央都市リーンへと運ばれるのだ。
次元の渦動に浮かぶ方舟は、少しずつ視界を覆い隠すほど壮大な長さになっていった。その何処かに野口鷹志と伊藤麟太郎がいる。
天使はそう信じていた。




