裏切り者(2)
かつては、賢者自身がこの地を闊歩していたという。七つのハブに巣食う魔物と呼ばれる魂なき生物の世界を巡り、胞子ネットワークを構築してまわったのだ。
それはまるで新天地を切り開き、布教活動をする聖者のようだと讃えられた。そしていつの日か次元の壁は破られ、ハブに巣食う魔物の何割かは海洋生命体から開放され有肢菌類の従属種へと取り込まれると言われていた。
陽炎と呼ばれる怪物は、海洋生命体にも深い造形があり、探求者とも呼ばれていた。いうなれば賢者と共にこの地を幾度となく訪れた有肢菌類の案内人。
名家に在りながら、利用されるだけの立場で決して表には出ない。だが戦闘力や身体能力は、はるかに俺や先生を上回っている。格下に甘んじてはいるものの、まともに殺りあえば、勝てる見込みは毛頭ないだろう。
「心配していたんだ」その複眼の男が言った。「ネットワークに繋ぐのは、あの設計士を始末してからと考えているなら、お門違いだ。誰もキミの失態だとは考えていなかったのに、今ではすっかり裏切り者扱いだ」
仙田律子は肩をすくめると、暗い顔をして目をそらした。これ以上その話題には触れてほしくないというように。「従属種も賢者の犬も連れていないのか。仲間はどうした?」
「役立たずどもは帰らせたよ、安心してくれ。同族に犬をけしかける趣味はない。だが、その人間は問題だぞ。洗脳は賢者の専門だ。キミが飼い慣らした人間は、ここで始末していかなきゃならない」
羽鳥はゆっくりと立ち上がると、一歩また一歩と足を置きながら陽炎のほうへ向かった。
俺の脇でいったん立ち止まると、この場に満ち溢れる闇に飲み込まれそうな顔をしていた。
降りてきた通路は開け放たれたまま風が吹き込んでいる。銀色で球形の方舟は開閉扉がロックされているようだ。
方舟本体の周りには幾つかのコード状の線が繋がれている。すぐに方舟に乗ってバイバイとは行けそうもない。
時間をかけていたら、この能力には限界値がある。あるいは、シドやドゥラはここを真っ先に調べに来るだろう。チャンスは一度きり、敵は陽炎ただひとり。
「先生は良き理解者なんだよ。自分の意思でここにいる。あんたはどうだい?」俺は更に前にでようとする。勘のいい羽鳥なら、気づくはずだ。俺に出来るのは守ることだけだ。
彼女は壁に背を這わせながら、息を殺し歩みを進めた。身を滑らすように、陽炎との距離を縮める。弱りきった精神力で、観念動力を使うには指が触れるほどに近づかなければならないようだ。
「ククク、先生と呼ばせているのか。まさかこいつも野口鷹志と同じように私兵にしようと考えているのか?」
「いや、育成したいと思っている。我々は神ではないのだ。ウィルスと数学的な方程式で全ての説明がつくとは限らない。支配している人類とて五%にも満たないではないか」
「愚かだぞ。下等生物を迎合して得るものなど無い。キミの言っていることはペットを家族だと言い張る自己満足にすぎない。その気がないのなら、ワタシがやるしかないようだね」
あと一歩、羽鳥が陽炎の頭部に手が届くまで。
「待ってくれ。私でも馬鹿な話だとは思うが、改造手術は未だ続いている。どこにも辿りつていないし、何も変わっていないように見えるかもしれないが――」
その瞬間、羽鳥の指先は空をきった。この男の能力は鏡面蜃気楼により姿を隠すこと。陽炎は、既にそこに存在していない。
ドンっと鈍い音が響く。
目線の先には頭を低く構える複眼が片足で立っていた。飛び散る血液が宙に玉になって広がる。蹴り飛ばされたのは、仙田律子だった。
「ぐっふぅ!」
「キミが逆に洗脳されているなんてことが、あるなら……目を覚ますんだ。精神攻撃に汚染されてるのはキミのほうだ、センリツ」
左手はだらりと下ろしたまま菱形の石を持っていた。不安定な構えから放たれる刃先が俺の喉元を狙う。諸手の斬撃でなければ弾くことも受け止めることも出来る――はずだった。
「ううああああああっ!!」
小気味いいザクリという音とともに、くるくると腕から先の手首が舞っていた。無意識に間合いをとっていた。下手に反撃にでれば致命傷になっていた。
なんという速さ。いいや、違う。俺には見えていたはず。飛び出しと初太刀は確かに速いが、見切れない程ではない。白刃が滑りこんできたのは喉元だった。
「ふふ、反応していたじゃあないか。でも、避けられない」
残像ではない。これは鏡面蜃気楼を使った間合いの取れない攻撃だった。かわしたと思っても、実際の刃は別の場所を斬りつけていた。
踏み込んだ複眼の脚をかわすと、逆の足が払われていた。横なぎに迫る白刃をガードすれば膝を斬りつけられた。
実際の攻撃とフェイクの攻撃、その区別がつかなければ、闘いにすらならないのだ。さらに一撃、一撃がとてつもなく重い。
バランスを崩した俺の胃袋に、肝臓に、顔に、腰に、嫌というほどの蹴りが襲う。機械的に、執拗に、手を休めることもしない。
「ふふふ、骨は粉々だな。強化型かと思ったが生身の人間のようだね」
どさりと尻をついた俺は、腕の出血を抑えて、のたうち回るしか出来ない。陽炎はあざ笑いながら、更に蹴りを入れてくる。
この場を逃げようにも、無駄だった。必死にもがきながら、ロングコートを掴むことすら出来なかった。瞼は切れ、耳も鼻も削ぎ落ちていった。
「お前ら人間は殺す。ワレラの繋がりを引っ掻き回す、くだらない下等生物っ、何も出来ない無力な能無しっ、ころころと態度を変える胸糞悪いゴミめっ!」
全身がピクピクと痙攣し、意識が朦朧とする頃には痛みすら感じなくなっていた。荒かった息使いが収まり、生ぬるい血がドクドクと流れ、顔と背筋の汗は氷のように冷たく感じた。
「ペッ……」這いつくばる俺の周りを歩きながら唾を吐いた。目も、鼻も、口も、あらゆる部分から血が出ていた。「終わりだな」
振り下ろした剣先を納めながら、複眼は仙田律子の方を見た。首を跳ねられた教え子を見れば現実に戻ると信じているのだ。
「ふはは。ふはははは」
時間差を埋めるように首元へ、ゆっくりと冷酷な白刃が滑り込んでいく。意識は削り取られるように遠退き、何もかもが真っ赤に染まっていった。
全身を真っ赤な体毛で覆ったあの人食い獣に飲み込まれた時のような、恐怖と苦痛の衝動が、目の裏に浮かびあがる。永遠とも思える暗闇に落ちていく感覚――。
完全に胴体から切り離された頭部から陽炎を見上げる。口の中には血の味がひろがり、呼吸は出来なかった。海の中、血の海に浮かんでいる感覚だった。
仙田律子は肩をすくめると、暗い顔をして目をそらした。「従属種も賢者の犬も連れていないのか。仲間はどうした?」
「役立たずどもは帰らせたよ、安心してくれ。同族に犬をけしかける趣味はない。だが、その人間は問題だぞ。洗脳は賢者の専門……!? ど、どういうことだ。貴様、たった今、頭を斬り落としたはずだぞ」
仙田律子の前には、山城祐介が立っていた。たった今、地面にひれ伏し首を跳ねたはずの男が、数分前と同じ構えで……目の前に立っている。
そして聞き覚えのある同じ台詞が交わされる。まったく同じ場面が繰り返されていた。
「先生は良き理解者なんだよ。自分の意思でここにいる。あんたはどうだい?」
陽炎は自分が幽体離脱したかのように、身体から意識だけが前に出ていることに、はじめて気が付いた。
『……っく。ど、どういうことだ!!』
「残念なんだけどさ、俺に出来るのはさ、精神攻撃を止めるっていう地味なことだけなんだよな。だからさ、暴走してもらったんだ。あんたのそりゃあ、賢者の石じゃなくて海洋生命体コアの精神エネルギーが入ったクリスタルだ」
俺は気味の悪い複眼に、鼻がつくほど近づいて教えてやることにした。あまり、他人に聞かれたくはないだろうと思って。
『ち、近いぞ……顔が』
「俺だって、こんな面倒な方法は取りたくなかったんだぜ。こっちの精神だってボロボロになるからさ。だけど、見方をかえればさ、ほら、この賢者の石をひっくり返してみたらさ、ああ、こっちのはもちろん本物だよ。まあ、見てみろよ、見えかたが逆転するだろ?」
『!!』
目の前にあった気味の悪い複眼が、仰け反り飛び散る血液が宙に玉になって広がる。今度、蹴り飛ばされたのは、陽炎のほうだった。
『ぐっふぅ!』
「まあ、優れたキーパーはシュートを撃たせないんだ。石を受け止めてくれて良かったよ」




