裏切り者
◆羽鳥舞◆
温かい背中。疲れた私はお婆さんの背中でうたた寝をしていた頃を思い出した。愛情、優しさ、幸福、冗談と笑顔、そしてほんの一粒の涙。
お婆さんの歌声はすごく甘くて優しかった。情動感応者でなくても分かる。温かい背中に守られた私は、安心してぐっすりと眠ることができた。ずっとずっと昔のことに感じた。
彼は息を深く吸ってからグラウンドに入り、ゴールポストに口づけした。『絶対に勝つから見てろよ』と言ったのは、野口鷹志だった。緩やかに心地よい記憶の波が流れてくるのを感じていた。
毎日のようにボールを追いかけ、サッカーの練習をしていた。彼は勝てなくたっていい。だけどゴールは絶対に守るから安心して前に出ろと叫んだ。ボロボロになったキーパー用のグローブを握りしめて。
最初はただの付き合いだった。サッカー選手に憧れた少年の、シュート練習につきあったのが始まりだった。威力もスピードもないボールを止めるのは、簡単だった。冷静に見れば、どこにボールが飛ぶのか簡単に予測もできた。
『驚いたよ、すごいなぁ。もう一回やろう、お願い!』
野口は微笑みかけて、ボールを取りに走った。この世にふたつとない満面の笑みだった。山城祐介の家庭は裕福だったが、幼いころに母親は出て行き、公人だった父親は仕事に人生のすべての価値を見出していた。
自分は忘れられているのか、死んだものと思われているのか、そんな不安のせいで激しい動悸に襲われ、汗びっしょりで目覚めることも度々あった。
だが不安や不満を口にすれば母と同じように、父親までどこかに行ってしまうのではないかと感じていた。
何もしなければ、傷つくことはない。時間がすべてを解決してくれる。もともと無かったかのような人生だった。
虚無であればあるほど、時間は残酷にも加速していく。止まることのない列車と同じで、彼の無意味な時間は過ぎていった。
『遊ぼうよ。昨日はビックリしたよ、全部止めちゃうんだもん。でもすごく楽しいよ!』
棺桶のような部屋に閉じこもっていた彼を、引っ張り出した少年がいた。何度も帰ってくれと言ったはずなのに。野口はまるで聞かなかった。ただ遊び相手を欲しがるだけの小さな子供だった。
『遊ぼうよ。たまげるって、玉を蹴るからきた言葉なのかもね。もっと仲間がいたら強くなれるよね!』
もうサッカーは辞めたといったはずなのに。一日のほとんどを外で過ごしたのは野口がいるからだった。それでも棺桶にいるよりずっとましだと思った。
『遊ぼうよ。一緒に強くなるのって、最高だよ。僕も山城を驚かせたいなぁ!』
いつの間にか、仕方なくやっていたお遊びに夢中になっていた。野口は全て知っていたのかもしれない。山城がチームのキャプテンを引き受けたときには、本人より先に涙を流して喜んだのだから。
『ありがとう。引き受けてくれて。ずっと、ずっと……一緒に練習付き合ってくれて、一緒にやるって決めてくれて、一緒に頑張ってくれて……ありがとう』
野口の母親と山城の母親が親友だったと知ったのはずっと後のことだった。物心が付く前から、母親たちは二人を兄弟のように育てようと約束をしていたというのだ。
本人たちすら忘れていた口約束を律儀に信じてしまっただけの、幼稚な子供だといえば、そうかもしれない。何度帰れと言ってもしつこく『遊ぼうよ』といってきた少年。
彼のことを考えると絶対に守らなければならないものがそこにあると感じられた。楽しむことや仲間の存在が、本当に必要だったのは山城だった。彼は全員の仲間が見える一番後ろのポジションを選んだ。そして全員に囁くのだ。
負けるなよ、兄弟――。
※
どこにいるのだろう。ここは……安心しきってまどろみの中にいた私は、いきなり床に尻もちをついて起こされた。
(いたっ!)
コンクリートの壁に柔らかいクリスタルの照明、一度は見た場所だった。聖地ヨークの地下にある方舟を収用した隔離施設だ。
(いったいな、山城っ。いきなり降ろすんじゃないわよっ)
ロングコートに深々とフードを被った男が、ぽつんと一人、立っていた。地下施設の広いポート、その中央にじっと立っている。微動だにせず、山城と向かいあい互いに固まっているように見えた。
「……!?」
右手には長剣のように先の反った鋭い刃が光っている。フードを左手でまくると、男はその顔を見せた。
大きくつり上がった複眼を持った短いモヒカン頭、カマキリのような尖った顎からは触手のような髭が生えている……まごうことなく有肢菌類だった。
「……」
殺意に満ちた視線と、その異形さに私は息を飲んだ。宝珠なくして、単体で次元を越える能力を持った有肢菌類などいないはずだ。国境地帯から既に方舟に潜り込んでいたのだろうか。
「……」
沈黙に胸が押しつぶされそうになる。山城は左手を広げて前に突きだしたまま、動かずに口を開いた。
「動くなよ。落ち着いて話そうか、陽炎だな。名家のひとりに、あんたがいたのは知ってる。あんたの目的は何だ。賢者の石を取り返しに来たのか?」
「ふん……それもあったな。センリツ、ご苦労だった。胞子ネットワークに戻ってこい。全ては計画どおりなんだろ?」
(な、何言ってんのよ)
数歩後ろに仙田律子の姿があった。彼女は信頼できる味方。相手がひとりなら、こちらに分があるはず。だが男の言葉が引っ掛かった。
「おかげで、やっとハブに巣くう魔物を取り込むことが出来る。お役後免、さあワタシと帰ろう。胞子ネットを繋いでくれ」
(ど、どういうこと。仙田律子は、まさか、こいつの手引きを?)
私は視線を前に向けたまま背後に立つ彼女に集中していた。彼女が動けば前後から挟み撃ちにされる。油断は微塵も出来ない状況に、身動きのできない身体。
「……」
彼女は腰の立たない私を尻目に、ツカツカと前へ出た。リラックスした足音が過ぎていくなか、私は身震いし背中に冷たい汗が流れた。仙田律子は、私も山城もあっさりと殺せる位置にいるのだ。
「!?」
回復魔法か、防壁魔法か、動こうとする私はそのとき気づいた――私が見えていないのか。陽炎と呼ばれた敵対者にも私が見えていないようだった。理解するのに時間はかからなかった。
おそらく山城のキス。理由はどうあれ一定時間、回避や防御力が鉄壁となる能力。その加護を受けた者は、存在自体が攻撃の対象にもならない。つまり敵対者からは見えない場所に私はいるようだ。
(つまり……私が切札だ)
禁止区域には様々な甲殻種と、恐竜に似た化け物が徘徊していると聞いた。ハブに巣くう魔物とは――。
リザードマン、海獣、リバイアサン、ヤマタノオロチ、竜王、ウロボロス、ドラゴン、呼び名は様々だが、海洋生命体によって造られた怪物のことだ。
各地に点在するキューブは、単に街を監視していただけではない。実験的に生み出された生物兵器を近づけないよう、あるいは補食するための防壁の役目をはたしていたのだ。
私たちが巫女を眠りにつかせたことで防壁は無くなった。賢者は生物兵器を洗脳支配し、海洋生命体を叩く駒につかう気だ。仙田律子は山城の横についた。
「罠だ、下がってくれ。先生」山城は大きく構え、両手を広げた。律子はその手を見つめて足を止めた。
「ふっ、私はこれでも有肢菌類だ。お前らの味方でも、ましては教師でもない。はじめから知っていて利用したのだ。解らないのか?」
息が詰まりそうになる。山城はあまりにも無防備に律子の前に立っている。律子が有肢菌類だと知って、どうして信じ、背を預けることが出来るのか。もう駄目だと思った。間違いなく、山城は殺される。
「賢者の石ならくれてやるよ。俺たちの目的は仲間の救出だ。あんたには悪いが、先生は俺たちと行くんだ。悪い条件じゃないだろう」
複眼の男は、放り投げられた菱形の宝珠を、左手でキャッチした。多少なりとも警戒しているのだろうか、ゆっくりと賢者の石を確認する動きには隙がない。
「本気で言ってるのか。憐れなほど単純な奴だな。よほど上手くしつけられたのか」
どうして彼女を信じることが出来るのか理解出来ない。間違いを間違いだと言った大人なんて今まで一人も居なかった。
子供の頃、信じていた大人。間違っていることを正してくれた大人なんて居なかった。悲しいことだが、信じることは出来ない。
「育ちが良すぎてね。悪いが先生は教え子を見殺しにはしないんだよ」
「なぜだ……どうしてそう信じる」仙田律子は立ち止まったままピクリと眉をつりあげた。
「上手くいくかどうかじゃない。期待してるわけでもない。ただ、今後も先生を驚かせてやろうとは思ってるんだ」
(まったく子供と同じ考え方。でも、私がもし野口くんに“ビックリした・驚いたよ・すごいね”なんて笑顔で言われていたから、きっと同じ考え方になっていたかもしれない……)




