さよならジェニファ
◆マット・イーター◆
脳は嘘をつく。だが心はどうだろうか。俺は有肢菌類の名家でもなければ、海洋生命体の権威でもない。
だが史上初ともいえる《《共存》》をして学んだことがある――。
人間は誰もが不平や不満を抱えている生き物だと思っていた。あるべき姿と現実の落差に失望し、その落差が高いほど不安は増す。
社会的な繋がりの中に身を置いて、自身の評価や存在意義を見出だすからだ。そこで自己評価と、他者との評価に落差が生じる。
野口の体験した六年。たった二割の視力、体力、持久力で、もがき続けた日々。ストレスは常人の想像を絶するものだ。
馬鹿にされ、虐げられ、見下される。普通の人間なら、他者の評価は本来あるべき姿ではないと考え、受け入れ難い現実に疲弊する。
百人いれば、百人がそうだと思っていた。それが人間の脆く、醜悪で、廃退的な一面だと決めつけていた。
だが野口は違った。例えば〈賢者〉の洗脳を解いたときの仕事はどうだった?
つまらない、くだらない、やるだけ無駄、やる気もしないような、単なる延命の為に強いられる労働には閉口する。誰からも期待もされなければ必要ともされない人生。
野口は、どんなくだらない仕事でも、僕に任せてくれませんかと懇願した。イーロンやベゾスから見たら、社長の仕事だってくだらないと言って笑った。
出来ることは限られていた。だが地べたを這いまわるような汚れ仕事だろうと、野口は喜び勇んで受けただろう。
生きることは、尊いことだと教えられた気がした。どんな状況でも野口は自分を貶めたりしない。労働も生きることも同意に尊いことで、そこに上下も偏見もない。惨めさなどないと胸を張って言うだろう。
情けない生活だろうが、くだらない仕事だろうが一向に構わない。世間のいうプライドとは全く違う価値観が野口にはあった。
どんなに脳が嘘をつこうが、俺は……野口を否定しない。心の真っ直ぐなこいつを、誰にも否定させないと誓った。
深い渓谷を降りてきたはずだったが、目前には有肢菌類の〈賢者〉と呼ばれた男が立っていた。髪を後ろにまとめて擬人化しているが、本来なら全身が真紅の野獣だ。
この目に射すくめられると、どうも調子が狂っちまう。艶のある長い金髪の少女、ジェニファは後ろ手を捕まれている。
両膝をついて、野口は戦いを放棄した。そして両手をかざして涙を流し、すがるように祈るように言った。
「か、彼女に手を出さないで……彼女を離してください。お願い、お願いします。僕は、僕はどうなっても、構わないから」
「……」
赤色の瞳を向けたスーツ姿の男は、眉を吊り上げてこちらを見た。涙ぐみ、見つめ会う二人を無視するように、この《《俺》》へと語りかけた。
「混じっている訳ではないのだろ。教えてくれないか、マット・イーター」
『……おいおい、まさか本命か? 俺が見えているとでもいうのか』
「いつから立体映像に気付いていた。肉体にも仕掛けはしてあるというのに」
『……人が登場するのに一瞬の間があった。野口の母親が俺を知っていた』
「ふっ、間は仕方ない。記憶を引き出すにはラグが生じる。貴様の存在を隠していたのは意外だな。母親には隠し事などしないとデータは予測したが、それが成長なのか」
『極めつけは、こいつのイマジナリーフレンドの実体化だ』
「彼女か。なら何故……命乞いをする必要がある。まったく下等な生物の思考は理解出来んな」
『ほお、俺はむしろ彼女に感謝してる。誇りにすら思うね。野口の精神を支えてきた聖女様ってところだ。彼女が居なきゃ心は折れていただろう』
「はっはっはっ、冗談だろ。だからといって偶像が自分の命より大事だと本気で思っているのか?」
『……なるほど、お前らのように肉体を持たない不安定な生命体には、こいつの今の姿が理解出来ないようだな』
「くっ、自分の置かれている状況も理解出来ていない貴様が何をいうかっ!」
『理解したいんだろ、心は正直だ。肉体のない貴様らは、純粋で真っ直ぐな心に驚異を感じている。頭脳だけのくせに、理解出来ない心を見せつけられて動揺してるんだ。茶番は終わりにしろ、海洋生命体』
「し、知っていたのか!!」
『野口を見ろ、自分がどんな状況に晒されても変わらない。ゴミみたいな体力だろうと全力で生きる。そして自分の信じる者の為なら、命すら差し出す。そんなことも分からないで、心があると言えるのか?』
「だまれっ、黙れっ」
『いいや、見ろ。この精神に興味があるはずだ。貴様らは肉体を失ったうえに、心まで失ったことを認めたくないんだ。単なる記憶媒体ってことをな』
「う、うるさいっ……」
『遠慮をするな。貴様らが失ったモノの大きさを、しっかりと見るがいい!』
「う……う、う、う」
『どれほど尊いものを失ったか、知るがいい。思い返して悔やむがいい』
「…………」
「……」
※
立体映像で覆われた世界が崩れていく。足元の川や谷の景色は消え去り、薄暗く光るキューブに囲まれた白い部屋が浮かび上がってくる。
四角い部屋には、僕とジェニファの二人だけしか居なかった。あの人食い獣〈賢者〉が消えてくれたことに、内心では胸を撫で下ろしていた。
「ぐすっ……ぐすっ」
「な、泣かないで、ジェニファ」
「だって」
彼女はペタりとその場に尻餅をついた。服装はヨークの薄く透けそうな垂れ布の生地ではなく、銀色の鱗布に変わっていた。ロングヘアは床に付きそうだった。
「ぐすっ……私は、あなたに埋め込まれたクリスタルに身を宿す海洋生命体よ。ジェニファじゃないの」
「やっぱり、そうだったんだね」
「だから、だから、あなたに愛される資格もないし、居場所もないのよ」
「き、君の本当の名前は何だい?」
「ぐすっ……ううん、ずっと眠っていたの。名前も、自分の本当の姿すら忘れてしまったの。だから、あなたの記憶に触れ、ジェニファと呼ばれて、私の心は揺れたわ」
手が……川から白く長い指が流れてくるみたいに僕に近づいた。だが、触れることはなく、素通りした。彼女はホログラムだった。
「もう、触れることは出来ないのね。ここの人々は、みな眠りについたわ。意思のある海洋生命体キューブはヨークに移動したから」
龍宮の巫女や聖地ヨークの領主様と呼ばれている連中のことだ。彼らの目的ははっきりとしている。
この疑似アストラル界に生きる人々を支配し、有肢菌類の脅威を排除すること。あるいは地球を汚染する人類に鉄槌を下すことだ。
ここで僕を見ている彼女は違った。ずっと、平和的だった。僕をここに留めておくことが目的だったのだ。
埋め込まれたのは窒素爆弾や、破壊兵器ではなく海洋生命体自身のコアであるクリスタルだった。ジェニファ自身の精神だった。
「有肢菌類の賢者と、僕を和解させようとしたんだね。それで、僕が本当に幸せになれるって思ったんだね」
「ええ、でもそれは間違いだった。あなたは全てを見抜いて、まっすぐ真実に向かっていった。どんなに酷い現実でも、受け止めて進もうとする人だった」
彼女は僕を抱きしめようとした。触れられない身体を近づけて、髪を、顔を、肩を撫でた。まるで僕が壊れていないか確かめるように。
「ごめんなさい」彼女の頬を、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。
「全部、私の作った嘘だったの。あなたにずっとここに居て欲しかったから」
「あ、ありがとう。ありがとう。君は、僕にとって大切な人だ。僕にとっては、ジェニファだ。でも僕は行かなくちゃならない。羽鳥さんや、母さんを助けに行かなきゃならない」
「うん、そうよね」
ひとつのキューブが前に現れた。この部屋から脱出するには、こいつを破壊する必要があるという。
「心配はいらないわ。タイミングをあわせて全力で攻撃をして」
だが、こいつは全ての物理攻撃を受け付けない兵器だ。こいつを破壊する方法は、外郭からも同等の力で攻撃をする必要があった。
「全く同じパワーで、中と外から攻撃するなんて、絶対に不可能な気がするけど……」
言われるがままに、僕は半月刀を抜いて拳を固めた。同じ破壊力、それも渾身の一撃をいれなければならない。
「お別れね、野口鷹志くん。ここを出たら、私はあなたに会うことも、話すことも出来ない」
「な、なんで。君は僕の中にいるんだよね?」
「外では、ジェニファでは居られないの。でも、ずっとあなたの中にいるわ。さあ、今よ」
「い、いくぞっ……!!」
僕は弓なりに引いた拳をキューブめがけて打ち込んだ。力一杯、渾身の力を込めて。
バラバラに砕け散っていく白い結晶がガラスのように散乱した。僕の向かい側に立っていたのは、逆サイドバックにいた懐かしい顔だった。確かにアンディなら、僕と動きを合わせることは簡単なはずだ。
「ヨータカ、タイミングはバッチリだヨ」
(さようなら、さようなら、ジェニファー! 君に外側の世界を見せたかった。僕の仲間を紹介して、一緒に笑いたかった。君に僕らの住む大地を踏みしめて欲しかった)
『彼女は居るさ、おまえの心の中に』
(あ、ありがとう、マット。お前にも感謝してる。彼女を誇りに思うと言ったこと。嬉しかったよ)
『残念だが、まあ、どのみちホログラムに地面は踏みしめられないしな。ブハハハハ』
「……」




