サイコパス(2)
道もない暗い森だった。木々の隙間に軽自動車が止まると、キャンプ用の椅子やテーブルが見えた。マグカップや寝袋もあった。
誰かが先に来て夜営していた形跡。もっとも人の気配はなく、あるのは死の気配だけだった。ランプを持った細川がやっと口を開いた。
「君をここに連れて来たのは、僕らを疑似アストラル界へ送りだしてほしいからです。意味は分かりますか?」
「……」口は塞がれている。短く切り揃えた前髪と分厚い眼鏡、細川の顔は今も真面目だったが、言うことは今も意味不明だった。
「ヒロくん、君は僕らの信頼に応える機会をずっと与えられてきたにもかかわらず、ずっと部外者のように振る舞ってきましたね」
アンディは僕を車から出すと、なれなれしく肩を叩いた。僕を何だと思ってるんだ、サイコパスと呼ばれた一条洋だぞ。知ってるよな、たしか知ってて離れていったんだよな、お前らは。
「……」口が塞がれてなくても相手を納得させる答えはなかった。
「今すぐ友人として、それに応えるべきだと思います。正しいと思うことをして欲しいだけです。それを期待する権利が僕にはありませんかね?」
「……」
期待する権利があるかっていうのと期待してるってのは、同じじゃないだろうか。違いを詳しく聞きたいと思ったが、話してる場合じゃないことは分かっていた。
二人に恨まれるようなことをした覚えはないし、疎遠になって六七年はたつ。今更何を期待するっていうんだ。
「愛美さんから山城にレッドカードが渡ったことも知っています。野口くんを助けに向かうためです」
「ん、んんっ!」
どうして、あのカードを知ってるんだ。まさか山城が言い寄った話は関係していたのか。
勘違いだ。まったくの勘違い。お前らは知らないだろうが、彼女は見張っていただけの部外者だ。
「!?」
待て。よくよく考えると山城は僕に一発も入れていない。猫を撃ったのは……あれは有肢菌類の傀儡だったからか。愛美は、ずっと昔にいわれた通り、パンツにカードを隠し持っていたんだ。
「!!」
なんてことだ。山城祐介の目的は初めからカードか。僕はとんでもない誤解をしていた。
「僕らはまたチームとして集まるべきです。野口くんはたった一人で、戦っているのです」
「!!」
レッドカード。有肢菌類に抵抗力を持った特別な血液から作られた〈時間旋〉への侵入、離脱装置。
あの日、僕らは野口の母さんを愛美の家の別宅に運んだ。目覚めた彼女は改造までの時間を稼ぐため、僕の血液・DNAを利用したいといった。
二枚のカードと一滴の薬品、データの詰まった集積回路を手にした玲奈さんが目に浮かんだ。
カードは一枚を玲奈さん自身。一枚を愛美に渡していた。『パンツの中にでも入れておきなさい』と言って笑ったのを覚えている。
彼女は息子に開発中の無毒化ワクチンを投与した。そして一定期間ではあるが、有肢菌類を近づけないことに成功した。
しかし同時に、そのワクチンは僕に絶大な効果を発揮した。野口に近づくことが出来なくなった。原理は知らないが接触すれば、僕の肌は火傷のように爛れただろう。
本当はずっと皆の側にいたかった。ずっと寂しかった。だが野口の母さんは僕らを制した。あれから僕は、ずっとあいつと距離を置いて生きてきた。
無毒化ワクチンの効果がいつまで続いたのか、僕は知らない。だけど街に死骸があれば、僕が処理しなければならないと思った。
野口に会うことは出来ない。でも僕が片付けなきゃならなかった。あんな死骸が側にあったら、また新たな追っ手が来る。いつも目を光らせていなきゃならなかった。
薄気味悪い僕に、ぴったりの仕事だった。でも、やらなきゃ、野口も、愛美も、野口の母さんも殺されると思った。それは――誰にも言えない僕だけの宿命だと思った。
何もかも忘れるほどの年月がたっていた。少しは事態は転じたのだろうか。そのときが来たのだろうか。
「だったら。だったら、馬鹿野郎っ、いつから関わって良くなったんだよ。なんでもっと、もっと……早く言ってくれなかったんだよぉ!」
猿ぐつわが外れて、森に声が響いた。僕は二人を制して暗闇から進撃してくる何かに目を向けた。左右から、カサカサと音だけが近づいていた。
あの日――愛美と野口の母さんを助けるために、奇跡が起きた。正確には有肢菌類の死骸を、爬植石生物に捧げていた僕は、身を守るための方法を知ったのだ。それは追っ手である〈黒い犬〉から二人を守った方法。
縛られたロープをほどき、身を低く構えると木々の暗闇から迫ってきた有肢菌類に両手をかざした。見上げた僕はぞっとした。
「ひっ、ひいいいぃ!」
それは巨大なカマキリの形をしていた。六本の脚に鎌を持って僕らを睨みつけている。臆した僕を傍目にアンディがテンポ良く手前に立つ。
「ヨー、ヒロっ。右サイドはカバーするよ、でもそれ以外はノーだ」
「なんでだよっ!」
もう一度、試すときが来た。海洋生命体の住む異次元世界、いま僕らのいるこの世界。よく見れば分かるが、それは表裏一体の同じ世界だ。
有肢菌類に感染した僕が、あの木から学んだ法則と手段。あの木は、死骸を一瞬で何処かに送っていた。
何度も、何度もアレに触れてきた。何日も何ヶ月も何年も、僕はたったひとりで死骸を木に食わせてきた。
構えた手のひらに接触する空間から別次元との外縁である薄膜を意識し、タイミングを合わせる。
「ふぅ――」
アレから見れば時間旋も異空間も決して絶対的な存在ではない。相互に作用して、ときに縮み、ときに曲がり、ゴムのような弾性を持っている。
目の前にカマキリの大鎌が振り下ろされる。ギリギリまで引きつけ、タイミングを合わせたとき、向かってきた攻撃は質量に関係なく逆流する。
〈反転撃破〉
――飛び散る脳漿に血まみれの内臓。残った下半身は真横にジタバタと、のたうちまわりハラワタを中心にぐるぐると回った。
右手からもう一匹が大きな鎌を振り上げた。アンディは軽快に相手のふところへと飛び込むと強烈なフックを打ち込んだ。
「ヨーヒロ、左にも来たヨ!」
木々が大鎌で薙ぎ倒されると月の明かりが一面を照らし出した。ロープを着た司祭や黒服の魔女たちが倒れ伏しているのが見えた。
「ひっ、人がいるぞ!!」
「……ヒロ、目の前に集中しなヨ」
振り切る鎌を見る必要はない。カマキリの腕の関節部分で読み、肌でとらえる。どんなに鋭い刃先だろうが次元の外縁渦動には関係ない。
鎌が僕を捉える瞬間、カマキリの上半身がまた弾け散った。タイミングを測るつかのま、恐怖と同時に畏怖が沸き上がる。
この世界と異次元。その薄膜を、こんな風に使うのは僕くらいのものだろう。生と死。正常と異常。集合と解散。真実と虚偽。抽象と具象。正と悪。希望と絶望。何もかもが薄膜一枚で隔たれた反転した世界に、僕は生きてきた。
「野口の母さんは生きてる。ずっと黙ってて悪かったよ。この技で……反転撃破で僕が守ったんだからな!」
同時に飛び出したカマキリは群がるように襲いかかった。だが肉片が木々に飛び散るばかりで、中央にいる僕には一発も届かない。
暗闇からカマキリはまだまだ湧いてでた。アンディの両手は鳥の嘴みたいに固く鋭く光っていた。尽きることのないパワーとスタミナで薙ぎ倒していく。
「ヨーヒロ。左はノグチの場所だろ。ノグチが居ないときはキミの範囲だ」
「何いってんだ。空にもいるんだぞ!」
「ご心配なく」細川はニタリと笑って言った。「あのカラスは味方です。僕が餌付けで勧誘しました。カラス天狗より素晴らしい労働環境を与えましたので」
「……は、ははは」
倒れた木々に、カマキリの死骸が足の踏み場もなく溢れていた。僕はあまりにも凄惨なその姿に吐き気を抑えられなかった。
「お、おおおおえええっ!」
「ヨーヒロゥ」黒い羽で着飾ったラッパーが突然に言った。「カラスはミーたちの親友ね。それにキミはサイコパスでも、何でもないヨゥ!」
手足が恐怖で震えていた。アンディの言うとおりだった。僕はサイコパスでも何でもない、ただのヒロだ。死骸を見たら気持ち悪いし、生き物を殺すのはもっと最悪な気分だった。
「無茶苦茶だよ、お前ら。何でこんな奴らと殺りあう必要があったんだ」
「このカマキリたちは蜃気楼を使って攻撃をすり抜けます。ですから倒すのは夜である必要がありました」
「あのなぁ、細川」
「そしてカマキリに感染した我々は、ヒロくんの能力を利用し、薄膜を抜けて海洋生命体の住む疑似アストラル界へと飛びます」
「聞いてるのか、細川っ」
「聞いておりますとも、君にこれ以上迷惑はかけられません。僕らを見送ってくだされば結構です。お礼は必ずさせていただきます」
まだ……続いていたんだ。僕だけじゃない、細川も、アンディも、山城も、あの日の友情ごっこを今も続けながら、夢の途中にいたんだ。嬉しくて涙が溢れていた。
「一緒に行くに決まってるだろ。僕は誰だ? センターバックのヒロだぞ」




