欠落した記憶(2)
今朝、目が覚めると自分の中に空洞を感じた。朝食は卵料理とパニーニ、チキンサラダとミルクたっぷりのコーヒーだった。
大丈夫よ、たかし。私は味方よ――。
ジェニファの作る料理は全部美味い。立体映像だから美味しいに決まっているけど空腹は満たされた。
大丈夫だから。おかえりなさい――。
彼女は僕の食べる姿をじっと見ている。井戸水で顔を洗っているときも、厨房で食器を洗っているときも、再生ポリエステルのシャツに着替えをしているときも、ずっとだった。
目が合うたびに、ジェニファは顔を赤くしてもじもじと俯いた。石の床に靴を叩くようにして履くと、やはり彼女は前に立っていた。
「ず……ずっと見てなくても大丈夫だよ。でも、ありがとう」
「ううん」にっこりと笑ってまた僕を見つめる。「お医者様にも目を離さないようにって言われたから」
「あ、そうか。でも四六時中って意味じゃないと思うよ。僕はピンピンしてるし、少し走ってこようと思ってるんだ」
「一緒に行くわ」
「いや、いいよ。一人でゆっくり街を見てきたいんだ。これは僕の問題なんだ」
「挫折したっていいのよ。嫌なら〈賢者〉との会合なんか断ればいいんだわ」
「えっ!?」驚いた。話は噛み合わないけど悪い気はしなかった。「何だってそんな……僕は挫折なんてしてない」
「周りの仲間が手を差し伸べようとしても、本人が認めないんじゃ無理よね」
「僕はまだ失敗も挫折もしてないのに、認めろっていうの?」
「ええ、それが挫折よ」
「「ぷっ、あははは!!」」
思わず笑いが漏れた。ジェニファは多分、僕の理想だと思った。僕はやりもしないで挫折することはしない。だから先回りしては、そんな冗談を言うのだ。
「分かってるわ、でもこれだけは信じて。私はどんな時もあなたの味方よ」
ランニングに、子供たちとのサッカー。何時間も街中を走ったり、パルクールばりに森や峠を駆け回るのは気持ちが良かった。
軽い脱水状態、重い筋肉痛にもなった。つまり倉庫で搬入作業をしたときとは違う。ここは完全に脳内だけでおきている仮想世界じゃない。
その日はヨーク市議員の邸宅で会談があった。シドさんとミーファさんの説明を聞いていると本物の〈賢者〉が来るという実感が湧いてくる。条約調印の前に頭に入れなければならないことは山ほどあった。
有肢菌類は相互個体で通信可能であるが、それは胞子ネットワークに複数のデータ保管庫があるからだ。
南米のジャングル、ウラル山脈からカスピ海、シエラネバダ山脈や、エチオピアからモザンピークまで四千キロに渡るグレートリフトバレー、そこには巨大な植物が地中深くに広がっている。
『お前らにとっちゃ驚くことかもしれないが――』脳内のマットは教えてくれた。
『もともと地上はパンゲアという一つの大陸だったから、胞子ネットワークは自然界が産んだ単なる土壌に過ぎない。人間だって理論的には利用することが可能だ』
高度な情報共有が可能だが、このネットワークには染色体の構造やファージ、個体情報や、基本構造のような個人情報は開示されない。
誰が決めたのかは知らないが、そうなっている。人間が個人情報保護法を作ったように。僕は何ページもある資料に目を通した。
「驚いたな。平和条約のシュミレーションがここまで出来ているなんて」
『驚くべきは、お前自身だよ。お前の脳内記憶をベースにしてるんだ』
ユグドラシルの樹と呼ばれる大樹は巨大な脳内シナプスのような構造で、自然界に存在しているメインサーバーだという。最終的に海洋生命体は、僕にその所在地を探りださせ、送り込む計画らしい。
マットによれば友好的な手段は仮の姿、おおかた僕に埋め込まれた窒素爆弾を使って破壊することが目的のようだった。
『もっと驚くべきは、改造手術の日から空き容量が八十%あったお前に、まだ空き容量が残っていて、更にはそいつが広がっていたということだ。お前を器として計画してきた俺の予想をはるかに上回っている。おい、また見られてるぞ』
「あ、ああ」
脳内にマットが居なければ得られない情報ばかりで混乱した。ステンドグラスの下に高級なベロアのカーテン、その向こうからジェニファの視線を感じる。
「ぷっ」
イトりんと羽鳥さんが、迎えにきて近くのラウンジで昼食をとった。大きな庭から見える鬱蒼とした景色の中の木陰にも彼女が見える。
「うぷぷっ」
条約や有肢菌類に詳しいドゥラさんと謁見室にいたときも、気晴らしに子どもたちとサッカーをしたときも、遠くから彼女が見ていた。
「うぷぷっ!!」
まるで『ジェニファを探せ』というゲームをやっているみたいに、彼女の視線は常に何処かで感じていた。
この世界自体がホログラムなのだから、監視は出来ているはずだ。でも僕は彼女を見つけるたびに、自然と笑顔になってしまった。
まるで僕に片思いの可愛い女子が木陰からいつも僕を見ては、うっとりしている状況。少しは浮かれたって仕方がない。
『まあ、お前さんの深層意識からスキャンして出来てるんだから、理想的な彼女なのは当然だ。常にお前だけを見て、常に笑顔を向ける。それより、まだ埋め込まれた物質の解析が終わらない。単なる異物や爆弾なら、とっくにバラしているんだが、ゲノムの異なる細胞が混ざり合うようなヘマは出来ないんだ』
「言ってる意味は少しも分からないが、とにかく頼むよ」
『ああ、こっちの話だ。専属設計士にまかせておけ』
そんな状況でも、彼女を振り払いヨーク郊外の丘陵をよろけながら降りていった。深い渓谷の先に、ようやく水辺にでる。
壁には黒っぽい地層が突き出していた。白い石灰岩と地磁気が乱れて地層が逆転している様子がうかがえる。
「マット、ここで間違いないね」
空間に歪みがある。脱出するならここからしかけるのが妥当だろう。見た目には断裂した地層がみえるだけだった。
だが――張り巡らせたマットの不可視の糸で、僕が本当に居るのはせいぜい十坪程度の四面体の中央だと推理できる。
おそらくは海洋生命体キューブの監視塔内部、四角い部屋に僕は閉じ込められている。見えているものは全てがホログラムだ。
『ああ、わかったぞ。だが不可解だ。お前さんに埋め込まれたのは爆弾じゃあない。こいつは……こいつは海洋生命体のクリスタルが骨髄に定着しているらしい』
「クリスタル? それって海洋生命体の本体ってことか。爆弾じゃなくて、海洋生命体がまるまる一匹、僕の体内に入ってるっていうのか!?」
『まったく、俺様にも解析できないようなもの埋め込みやがって。まさか同居人を増やそうって魂胆なのか。こいつを分解できなきゃ脱出計画もめちゃくちゃだぜ!』
「ま、また視線だ」
ホログラムは全方位から照射されていて、僕がどちらに進んでも全体のキューブが稼働するため中央からは移動できない仕組みだ。
未来のVRシステム。抜け道があるなら起点となる場所、この部屋の管理人であるキューブに直接的なダメージを与える必要があった。
日常を装いながら移動し続けることで、その本体であるキューブをこの場所に動かしていた。むやみに走っていた訳じゃない。ルービックキューブを回すような複雑な作業だった。
「!!」
彼女が立っていた。その後ろ手を掴んでいるのは後藤銀次郎、〈賢者〉だった。奴がどうしてこんなに早く現れたのか分からなかった。
「ほ、本物なのか……ま、マット!」
『落ち着け、野口。でなきゃ確認できない。戦いの準備をしろ、ネイルショットを構えるんだ』
「た、たかしくん」
「ジェニファ……どうして」
人質にされている彼女を前に、身動きが出来ない。僕はなんて絶望的な馬鹿なんだろう。彼女が本物じゃないと知っているのに。
ずっと自分に都合良いように彼女を想像してデタラメな作り話に没頭してきた。彼女に嘘をついて貰って精神を保ってきた。
ジェニファは僕に言った。言い続けた。
母さんは僕を捨てて出ていったわけじゃない。友達は運動オンチの僕を……本当は、待っている。本当は、また友だちになれるよう頑張れと励ましてる。
何が真実で、何が嘘なのか分からなかった。ずっと僕の味方でずっと僕のそばにいてくれた彼女がいま、目の前で瞳を潤ませている。
僕の中身は空っぽな空洞だった。胸が締め付けられるように苦しい。除け者で現実逃避ばかりしてきた毎日がよみがえる。
「はあ……はあ……」
自分を騙して、彼女を使って誤魔化して、真実から目を背けてきた。目障りな役立たずだった僕は、ずっとそうして生きてきた。
『呼吸を整えるんだ!!』
そのツケがまわってきたと思った。彼女を否定することは、自分を否定することだった。おかえり、ただいま、いってきます、いってらっしゃい。全て……全てが嘘っぱちだった。
「お、お願いだ」涙で視界が歪んだ。「彼女に、ジェニファに手を出さないでください……お願いです」




