反撃の合図
「お前、左サイドバックの野口だよな?」
金子の発した予想外の台詞に三人は顔を見合わせた。楽しかった仲間の記憶と同時に浮かぶのは恐怖だった。圧倒的な恐怖に呪縛される感覚は理性では振り払えない。
そして現実に対して思考と真逆の扱いをしている自分たちの顔を眺めた。しばし間抜けのように口を開いたまま呆然とたつ。
青ざめた顔の野口鷹志は必死に三人を見ている。何かを伝えようとしている。それは今まで見ようと思っても見えなかった現実に感じた。
「カネちゃん聞いて、校舎から松本がくる。僕なんかのことは信用しなくてもいい。でもあいつはマズいんだ、これだけは信じてくれ」
「はあ? なんだ野ぐそっ、わけの分かんない話はやめろっ!」伊藤と高橋がほとんど同時に口を開いた。
「てめえ、俺たちに指示しようってのか!」
「き、聞いてよ、イトりん。僕はみんなの敵でも脅威でもないんだ。松本が問題の根源なんだよ。カネちん、ハッシー、すぐに目抜通りを避けて高校から離れるんだ。頼むよ」
「……」
金子は返事をしなかった。そして胃の辺りが持ち上がるようなピリピリした緊張を感じ、野口の腹を軽くパンチした。その身体は以前とは違い、硬く、燃えるように熱かった。
「……」
「走るんだ。振り向かないでまっすぐ」
後退る伊藤にたいして高橋は、怯えたような笑みをうかべて野口に向いた。金子が二人の肩をポンと叩いた。
「あ、ああ。そうするよ」
校舎を見つめる野口を残し、三人はやみくもに校舎を出た。ただの高校教師の代わりに、何か別のものが追ってきているのを感じていた。
野口は奇妙に冷静な顔つきで松本を見ていた。あの三人に五年前のサッカーの試合中、まったく同じ言葉を叫んだのを思い出していた。
(僕が絶対にパスを通すから、走るんだ。振り向かないでまっすぐ……ゴールへ――)
※
体育教師は目をすがめ、じろりと見上げながら僕に向かってきた。斜めにかけられたタオルはだらしなく、いつもの松本に見えた。
慌てる様子もなく、自分より高校に馴染んでいるように見える。背が高く筋肉質で太鼓腹、ベテラン教師の物腰だった。
でもそんなはずはない。僕はちゃんと知っている。タナーさんは「やり合おうとは思うな」と言ったが、僕は待っていたんだ。
知りたかった。どうすれば皆の洗脳がとけて、どうすれば皆が助かるのか。そして母さんは何処にいるのか。僕は質問しかけた。
だが先手をとったのは松本のほうだった。だぶついた青ジャージがぐにゃりと搾られたように回ると弓なりに振りあがった拳が真上から一瞬で、僕の顔面をとらえた。
ドンッ!
たった一撃で、全身が粉々になるような衝撃だった。口の中には血と砂の味がした。両手をついて立ち上がろうとすると、目前には太い足が迫っていた。
背中を反ってギリギリでかわす。隙もなく連撃がおそう。強烈な左フックを両腕を使って食い止めると、骨のきしむ音がした。
ミシ……。
更に不自然な角度からの蹴りがきたが、それもギリギリでかわした。松本は完全に意識を奪うまで攻撃を続けるつもりだ。
「ぐっ!」
何発か食らいながらも、大振りのパンチをフェイントですり抜ける。サッカーをやっていて身に付いた動きが、無意識に僕を動かしてくれた。
「はっ!」
だが背後に回ろうにも、青ジャージは人間の骨格を無視した角度から攻撃をだした。まるで背中にも目があるみたいに。
「大丈夫かい、野口いぃぃ?」体型には似合わない、不快に響く甲高い声だった。
「これからやっと、本物の生命になろうとしていたんだぞ。それを何だ、鼻血なんか出しやがって。どう見ても負け犬のゴミ野郎じゃないか」
太鼓腹が迫ってきた。すかさず左に跳び退いて地面を思い切り蹴った。全力で体当たりすればヤツのバランス位は崩れるはずだ。
ガツン、という衝撃に視界が歪んだ。カウンターをもらったのはどこからだろうか。がくりと片膝を付いて顔をあげる。
王様に謁見している貧民みたいな格好だった。内臓がゆれているみたいに全身が震えて力が入らなかった。場を繋ぐように僕は松本に質問をした。
「……か、母さんはどこだ、化け物」
「ふん、食っちまったんじゃないかな。俺みたいな優秀な生命はしっかり体力をつけなきゃならないからな」
「な、何だって」かすれ声しか出なかった。まぶたから、ちいさな血球と涙がゆっくりと地面へ落ちていくのが見えた。
「……嘘だっ」
「さあ、どうかな。昨日の夕飯ならともかく、何日も前となると覚えちゃいない」
「……嘘だ!」
「らしくもない。お前の将来は俺がちゃんと保証してやる。私兵として戦いかたも身の振り方も教えてやる。お前は俺のために一生懸命に働けばいいんだ。あと少し手を加える間だけ、じっとしていろっ!」
松本は改造の続きを始めようと、僕の頭に手をかざした。以前のように説教を楽しんで、人類を支配下におく余興に酔いしれていた。
「手間をかけやがって」
指先が割れて糸のような触手が伸びた。くぼんだ眼球の奥から見据えられると、ゴボゴボと深淵に引きずりこまれるような音と共に身体の自由が奪われていった。
「……!」
その刹那、松本の顔つきが変わった。青白い液体がはじけ、頭の上下が逆さになっていた。
バキッ! ドスッ!!
松本の後頭部へ叩きつけられた警棒が見えた。ゆっくりと倒れこむ影には、金髪をかきあげるカネちゃんの姿があった。
同時にメリケンサックで殴りかかったのはハッシーだった。もうひとり、イトりんが手にしていたのはスタンガンだろうか。
ハッシーの眼鏡ごしに覗いた目はいきいきと輝いていた。三人組は各々、校門を出てすぐに鞄から武器を取り出していた。
三人に言葉はいらなかった。恐怖のスイッチが切れたわけではない。だが自分たちが彼を責め、傷付けてきたこと。そのほうがはるかに恐ろしく、苦しかったのだ。
ただ、《《あいつ》》の指示で何かを思い出した。監督でもキャプテンでもない、一番身近で一番大切な指示をくれた少年。清々しいほど、まっすぐで何より勇気をくれた少年。
そしてあいつの儚い生命は、どこかの優秀な生命と名乗るいかれた化け物に脅かされている。
「どうして……戻ってきたんだ!?」
「ははっ。さあな、あの台詞。いつだって反撃の合図だったろ? それに俺たちフォワードはゴールにゃ鼻がきくんだ」
カネちゃんは警棒を構えたまま、親指の腹をなめて笑っていた。まだ終わってはいない。青ジャージの太鼓腹がデコボコと蠢いていた。
「い、生きてやがる。なんだよ、なんだよこいつ、人間なのか? やばくねーか、カネちゃん」イトりんは言った。
「とにかく、こいつとケリをつけるぞ」