忍び寄る影
木製の板に真っ黒な鉄がうたれた冷たい鎧戸だった。一階は床も壁も煉瓦作りだったが、二階の床は木製に薄い絨毯だけのため歩くたびに軋んでギイギイと音が鳴った。
鎧戸の前に片膝をつき耳を近づけると、長廊にいる気配は複数になっていた。
「!!」
だが……それとは別に部屋の中に何かがいた。突如として現れたようにも感じるが、見方を変えればトリックアートのようで、ずっとこの場にいたようにも感じる。
「居るのはわかっているわ。立体映像ね」
「ええ――」
薄明かりの寝室で、その少女は空のベッドごしに立ってこちらを見ていた。街の住人のような北欧系の人種ではなく、見慣れたアジア系の黒髪の少女だ。見た目には十二歳くらいに見える。
両腕から手首、首から顎にかけて青白い鱗布が覗いているが、上からは白く透き通ったオーガンジーの衣装をまとっていた。
「……」
美しい少女は高度な知性を感じさせる容姿だったが、その目には人間的な情感をかけらも宿していなかった。部屋全体が息もつかないほどの緊張で埋め尽くされる。私は冷静を装い恐怖を隠していたが、不安は高まる一方だった。
「頭が良くって、いかれてるって最悪の組み合わせね。あなたがこの農場で家畜を飼ってる領主様なんでしょ?」
「低俗な言い方ですな」少女は大人の男性のような口調で無表情にうなずき、こちらから話しかけるのを待っているようだった。
意外な態度だった。普通の監視者(という言い方が正しいとは思わないが)、有肢菌類の怪人などは話がしたくてたまらず、こちらの理解を無視して挨拶も告げぬうちに身の上話を始めるものだ。
「街中の人間が、部外者の種を欲しがってるなんて状況は低俗とはいわないまでも、上品だとは思えないわね」
海洋生命体の上層部、大部分の種族は肉体を持っていない。これによって精神と肉体のバランスは崩れ、自ら長い眠りにつくものも数多くいるという。特異な生態の代償に、このような歪な街が形成されているのだ。
食料としてではなくとも、徹底した監視社会に人間を放牧している時点でこの場所には醜悪で危険な匂いを感じる。この住人たちを観察、支配することでかろうじて自我を保っているような連中には法律も権力も必要なかろうに。
「そうですな。伝えたいと思うことは進化の度合いに関わらず、生命としての本質なのでしょう。たしかに我々は他の場所に精神を宿し、街中を監視しています。そうやって歳月の重みに耐えているのです」
少女は龍宮の巫女と名乗り、ゆっくりとこちら側に歩み寄った。亡霊のように薄暗い部屋をゆらゆらと動く人影は水槽の中で泳ぐ熱帯魚のように見えた。そもそも地面に足が着いていなかった。
聖地の象徴のような街並みを見れば、自分たちがどこから来たのか思い出すことができるから。古の街並みを――まるで親たちがほろ苦い記憶をたどり過去を見据えることで自分も若返るとでもいうように――管理しているのだ。
「進化の果ての悲しい種族だわ。ちゃんと私たちを安全にこの疑似アストラル界って場所から出してくれるんでしょうね、クソ領主さま?」
かすかに両肩が持ち上がると巫女と名乗った少女は、残念だというように眉をひそめた。
「なんと、はしたない言葉でしょう。承知しているかわかりませんが、貴方の友人達は禁止地区に入っていかれました。あなたの罪状は――説明の必要はありませんね。罪の大小にかかわらず、刑罰は同じです。加えて地上に住む貴方には逃亡の危険性もあります」
「はあ!? 私達には自由を要求する権利があるはずよ!」
「ふふっ、ここに居るからにはここの法に従ってもらいます」
少女はお決まりのように先程とは打って変わって饒舌に話しだした。この螺旋世界では分離されている二つの世界が薄膜一枚に張り付いているモノとされているようだ。
地上で人や物を運ぶ大きな箱が乗っている二つのレールのように。地上とこの異界は二本のレールに共に乗っているのだという。ならば、どちらの法律が正しいなんてことはないと思いたかった。
「しかるに……地上が人類に汚染されたり、複製ばかり産み出す有肢菌類が惑星の支配者面をして環境を変化させることには閉口しております。だから海洋生命体としてはこの楽園を守るためにも、この法律を守らせてもらうのです」
二本のレール。それは時にぶつかり合い、拡大し、縮小し、膨張し、影響を及ぼす。こちらでの空間の歪みが地上での大災害、〈大量絶滅〉に繋がるという。大洪水や大地震、地殻変動になりバランスを保とうとするのだ。
「だから地上は全て海にかえすっていうの?」
「ええ、それがよろしいでしょう。人類はみんな水中の植物やサンゴ礁になって生きていけばいい、ウィンウィンの関係です。生命は受け継がれるから心配しないでいただき――おっと、貴方は特別でした。大勢の住人とギャラリーに楽しんでもらうことになっております」
大きな鎧戸が動いたので私は背後に振り返った。何人もの金髪の男たちが長廊から螺旋階段までうめつくして、恐ろしい戯画のような笑い顔を見せていた。手には棍棒やクワを持っている。
「シドさん、ドゥラさんまで……」
「悪くおもわないでくれよ、羽鳥舞。君のようなB級魔女を生かすことはないんだ。せめて伊藤麟太郎なみのC級かD級だったら、僕らの子種を与えてあげられたんだがね」
ざわざわと男たちの罵声が響いていた。口々に聞こえるのは、殺し方についてだった。昔ながらの火炙りか、杭に打ち付けて吊るすか、あるいは陵辱のはてに身体を切り裂く方法か。
「……」
まるで祭りのような高揚感で、楽しそうに話している声。生きたままハラワタを引きずり出してやろうとか、子宮を取り出そうとかいう声もあった。血の気がひいて全身がこわばり、呼吸が乱れる。
「こないで!」私は悲鳴をあげた。自分が思う以上に怯えていることに気付いた。男たちは、ぞろぞろと部屋に入ってくると亡者のように手を伸ばした。
駆け出した先にいる無表情の巫女。その立体映像をすり抜けて、揺れるカーテンを引き裂き叫んだ。
「観念動力!!」
硬い窓枠がグニャリとまがりガラスが外側に割れ落ちた。私は勢いよく二階の窓から飛び出し、庭園に着地したと同時にトランポリンのように跳ね上がった。邸宅を囲んでいた住人たちは、指をさし、おおきな声をあげてこちらを見ていた。
「お、追うんだ!」
「ほほお、B級かC級の魔女だろう? あんなに動けるもんなのか」
屋外には松明が幾重にも並んでいた。電子機器は見当たらなかったが、階下にいる人間自体が映像を映し出すことに一役かっているのだ。
海洋生命体の体内にある細胞は、一定の距離があっても他の細胞に対して科学的に通じ合う接続遺伝子がある。
それは電子ニューロネットと呼ばれていた。何処へ逃げようと、空中を行き来できる龍宮の巫女が張り付いてくる。
撒いたと思った瞬間には、目の前に現れてニヤリと笑うのだった。もし、この人間たちを引き離せれば、この巫女の目も引き剥がすことは可能かもしれない。
「あっちよ、あっちにいったわ。殺して!」
「待て! 魔女め」
「お前は死ぬぞ! 魔女め」
「捕まえて杭につなげて、通りがかりの全員に陵辱させよう」
数万人の人口がひしめく街ヨークで、ひとり私は力の限り走っていた。街中の男たちが武器を持ち、女や子供は人間ばなれした奇声を上げていた。
逃げ場はないように思えた。孤独を感じた私は聖子お婆ちゃんに会いたくて、会いたくて仕方なかった。
『舞ちゃん。魔女は長い歴史で迫害され、追い立てられ、殺されたんよ。でもね、逃げ方や身の隠し方はしっかり教えてあげる。それとひとつ、特別な魔術を教えるけぇ。魔女はね、《《知らないこと》》が武器になることもあるんよ』




