視線を超えて
◆伊藤麟太郎◆
なだらかな斜面をくだると、少しずつ岩場が開けていて、切り立った崖が見えた。起伏が激しい場所は野口の蜘蛛糸を繋ぎながら、ペースを落とさないように走った。
「ほら、レッドカード」俺は息をきらしながら、野口にカードを返した。「もういらねぇんだ」
「えっ、まさか見えるの!?」
「あはは。ずっとカードなしで見えるように練習してたんだ。もうマスターしたぜ」
「やっぱりイトりんはすごいや。エッチな目的じゃなかったんだね!」
「ぶははは、もちろんソッチにも役にも立ったけどな、大したことないよ。いや、はっきりしとこう。本当はすごく大変だった。今のは謙遜して言ったんだ」
「うん。やっぱりすごいや!」
「だから、それやめろって」
最近は野口に出会ったころの記憶が、鮮明によみがえるようになった。そして羽鳥から精神感応者のレクチャーを受けて、見えてきたものもあった。
小学生の頃の俺は人の目ばかりが気になって、気が狂いそうだった。歩くのも下を向いていたし、人の目もまともに見れなかった。そんな自分が嫌で、死のうとすら思った。
俺の場合、自分の顔が赤くなっていないか、汗をかいていないか。そんな些細なことを気にしすぎていたんだと思う。
不安や恐怖を察知するのは、脳の扁桃体だ。俺のような視線恐怖症のある人間は、人の顔を見たときにこの扁桃体が一般の人よりも過剰に反応する。
見られているという〈他者視線恐怖〉。自分が人を見る視線が相手を不快にしているのではないかという〈自己視線恐怖〉。
注意を向けすぎることは、悪いことじゃない。まあ、本当にすごいのは野口だろうな。こうやって走ってると、まるで小学生の頃に戻ったみたいだ。
スゴいって言われるたびに、俺は自分の限界を超えることが出来た。毎日毎日飽きもせず、俺たちは走りまくって足の裏は豆だらけだった。まさに血と汗のランニングだ。
俺たちは常識もしがらみも、ぶっ飛ばして走りまくっていた。暗く変化のない岩場を走っていると、そんな過去が感傷的に戻ってくる。原因は何だったのだろうか。
『そんな目で見ないで!』
夜中に母さんが父さんに叫んだ言葉だ。いつもの夫婦喧嘩だった。「そんな目ってどんな目だよ!」と父さんは怒鳴った。
『世間にどんな目で見られるか、わかる?』
これも母さんの台詞。どうやら俺や親父は生きているだけで、恥ずかしいタイプの人間らしい。だから視線がグサグサと刺さる。
『いつだって見られていると思いなさい』
これは名言、だが誰が見てるっていうんだ。俺の何を見てる、何も見ちゃいなかったろ、こいつ以外。だからもう視線恐怖症は卒業した。
『見られてるなら、チャンスだよ。だってフェイントが出来るじゃん!』
絶対に無理だって思うことを、こいつは簡単にいってのける。出来立てホヤホヤのサッカーチームで優勝するといったこと。隣の県の遊園地まで走っていこうといったこと。
一度聞いたことがあったな、どうしていつも全力で走るんだって。誰だって疑問に思うだろ、全力で走る意味、全力で遊ぶ意味、全力で生きる意味。
『やるって決めたら、もう半分は来たのと同じじゃん。あと半分は……やるんだ』
それって、どんな意味だったんだろうな。俺は横を走る野口をみて、ついつい笑ってしまった。馬鹿だから言えるのかな。あの日は、つまずいて泥だらけになったっけ。
他の子供らにとって遊園地に行くっていうのは、決して行く過程の意味じゃない。ジェットコースターに乗ったり観覧車に乗ったり、美味いものを食ったりして一日を過ごすんだ。
俺たちの遊園地は、行きと帰りに五時間ずつかかる地獄のランニングだった。電車賃も入場券もいらない。
ただ入口を見て、「来たなぁ~、これが遊園地かぁ」とキャプテンが言って帰るだけだ。帰り道はもう誰も走れなくなって歩いてた。
細川はアンディがおぶっていたし、前田と金子は最後には居なくなっていた。親が迎えにきていたらしい。
キャプテンと高橋、ヒロと草薙はもうずっと前を歩いていた。夜道は暗くて足は重くて途方にくれた。十一人、俺は一番後ろを歩いた。
だが見上げた空には数万年前の星の輝きがあって、俺たちの冒険を見てくれている気がした。仲間はみんな温かい眼差しで俺を迎えた。
あのとき流した血と汗の匂い。あの日感じた絶望と希望の記憶。勝てば笑い、負ければ涙するっていう単純なゲーム。あのとき走った仲間たちの眼差し。
強くなる。そして仲間がいると思えば、立てなくなるまで走ることも出来る。次にはそいつが当たり前になってる。限界を決めるのは、いつも自分だったんだ。
それまで努力の仕方も、絶望の仕方も知らなかった。俺は一体何が怖いのか。視線恐怖症なんか立ち向かってやると決めた。
解るまで。何をやるかハッキリしたら、もう半分は来ている。つまり何を頑張るか決めることが物事の重要性では、半分の比率を占めてるということだ。
視線が怖ければ、外せるだけの力をもてばいい。そんな俺だから知ってる。羽鳥の目線が野口に向けられ、野口の目線が羽鳥を追うのを。目が合う瞬間には、互いに目線を外すんだ。
『もし本当の相手に気付いたら、それがたったの五分でも、君は幸せだと思うよ』
自分のことを言ってら。野口が彼女を好きになって、それ以上に彼女はお前が好きなんだ。馬鹿馬鹿しくて可笑しくて、もう黙ってるしかないだろ。
「着いたよ、ここだ」
「……まったく視線は感じないな」
俺たちは岩場を抜けてブロックの敷かれた邸内を歩いていた。湿った空気に、霧がかった塀を越えると、予想よりずっと大きいあの建物が目前にあらわれた。
大小さまざまな四角いブロックで組まれた建物だった。見たところ監視者も人の気配もしなかった。上部から崩壊しているように見える。
野口は言った。「入口を探そう」
足元のブロックが崩れ落ちた。俺は焦り、目を細め暗闇を見たが、何も見あたらなかった。建物の周りはゴツゴツした灰色のキューブだらけだ。
「イトりん」青ざめた顔があった。「まずいよ、四角いキューブが動いてる、囲まれてる」
「何だって!?」
「……僕らを捕まえようとしてる」
灰色のキューブは上下左右に複雑に動きだし、壁をかたち作っていった。塞がれた空間が狭まると息が詰まりそうな緊張感が走った。
ジリジリと集まりながら蠢く地面に、血の気がひく。視線は複数感じるが、それがどこからくるモノなのか見当もつかない。
普通の進化では手の届かない領域の生物、それが海洋生命体。俺は自分ではなく、相手に注意を向けるよう身構えた。
「キューブかっ。分かったぞ、野口。このひとつひとつから、無数の視線を感じる!」
足元に集中して、固定観念板を発動する。左手に五メートル跳び、後方に十二メートル。左右に身体を揺らしながらフェイントをかける。
キューブの裏をついて道が開かれていく。今のこの時まで、完全に見られていたのが悔しかった。一瞬に稲妻のような足跡が、残った。
後からくる雷鳴。キューブどもは警戒し、離れていく。緊急避難で集めた視線を使い果たしてしまっていた。
「い、イトりん」
「……のっ、野口!」
灰色のキューブは野口を包みこんでいた。立体映像でなく、実際に身体がキューブに取り込まれているのが見えた。
「お、おい、うそだろ」
「イトりん……逃げて……逃げてっ」
「野口いいっ!」
吸い込まれるように、野口の身体はキューブに入っていく。足掻いても無駄だった。スパイクを撃とうにもガス欠になっていた。
「……」
海洋生命体。発展した技術により食糧難はなく、エネルギー問題もない。しかしその技術を兵器として応用しようとした者たちが現れる。
「……」
敵対する有肢菌類のため、免疫学はより進歩していた。すでに細菌兵器はほとんど役に立たなくなっていた。
「……」
彼らが新たに目をつけたのは全く新しい機能を備えた兵器の開発だった。恐竜や巨大な猛獣だけならまだ弱点はあっただろう。
彼らは自らに改造を加え、さまざまな科学を組み合わせて強力な兵器と化していった。そしてついにたどり着いた形態は――彼らは進化の果てに、肉体を放棄した。
「の、野口いいいいいーーっ!!」
野口の顔がキューブに取り込まれて、残っていた片足も完全に消えてしまった。その塊は、興味を失ったというように、また巨大な四角い建物へと姿を変えていった。
「何だってんだ! 生命体じゃねーのかよっ、ちくしょう。おい……おい……野口ぃ」
『イトりん、もう視線なんか怖くなくなったみたいだね』
いつかのお前の台詞。キューブからも野口からも、視線が感じられない。どこからも、誰からも……。
『矛盾といえば矛盾なんだけどさ、怖かったはずの視線……あの不安の渦に飲み込まれた俺を救い出したのも、お前らの温かい眼差しだったんだよな』
「くそおおおっ!!」俺は叫ぶしかなかった。




