海洋生命体
静かな波の音がする。聞こえるのは、おだやかな波の音だけだった。とても心がやすらぐリズムだった。
トラップとシュート、馬鹿のひとつ覚え。金子と高橋は馬鹿だった。逃走前後から張っていた有線ネットや、不可視の糸を駆使しても、カジノで得られる情報はそこまでだった。
奴らが上手く立ち回ったのか、三人組に捻り潰されたのかは分からない。たったひとつ分かるのは、終わったということ。
時間旋はもう機能していない。有肢菌類は表だって人類と全面戦争をしようなんて気はない。少なくとも爬植石生物か海洋生命体の協力がない限りは。
気がかりだったのは、金子と高橋のことだけではない。草薙と前田の台詞、まるでアンディや細川とは違う印象を受けた。
まさか有肢菌類にとって……いや野口鷹志にとって本当にヤバい連中が、誰なのか。俺は何かとんでもない誤解、取り返しのつかない間違いを犯しているのではないのだろうか。
※
海浜公園。
冷たい風を肌に感じた。イトりんに抱き締められたままアンディと細川くんは意識を失っていた。三人は肌をくっ付けて泣いているように見えた。
「うっ……うっ……」
ふたりの洗脳は、解除されているはずだ。気絶した二人を砂浜に残し、イトりんがふらふらと立ち上がり僕に手をかした。
「やっと会えたな、野口」
「き、来てくれたんだね。イトりん」
「遅くなっちまったな。あれから何年たったんだか分からないくらいに」
「は、はは……でも、来てくれた」
「ああ、信じないかもしれねぇけど、俺は何も実体が見えてなかった。ずっと世の中を見誤って、自分を身限っていた」
「ううん、信じないよ。イトりんは自分を身限ったりなんかしない。いつだって、自分の限界を決めたりしなかった」
「ああ、くそっ。やっぱ野口だなっ! そうだよ、俺はこの程度じゃねぇ。謝らないぜ、今までのこと。俺はこれからなんだ」
「はは、ははは。いつもの、いつものイトりんだ」
「アハハ、いつものって何年前だよ!」
魔女のお婆さんが羽鳥さんの背後で項垂れていた。彼女の魔力を増幅してくれていたんだ。羽鳥さんは何とか鍵になる糸を見つけて、アンディと細川くんを洗脳の呪縛から引きずりだしてくれた。
時間にすれば一瞬のことだった。でも実際に見てきた時間は、何十時間も何日もあったはずだ。僕には分かっていた。
羽鳥さんは無限の精神世界を見てきた。ようやく、洗脳解除につながる記憶の接触域を探しあてると、次には魔法数列を解除していく術式の候補を絞り込んだ。
鍵を見つけた後も、それでも彼女は確信を持てずにいた。額からは汗が滴り落ちていた。記憶の鍵を刺してからも、セキュリティやファイアーウォールは無数に出現していた。
呪文数列を何度も試していった。まるで総当たり、幾ら魔力があっても洗脳解除は不可能に思えた。でも彼女は、けして引き下がることはしなかった。
(彼女は、なんて……強くて、なんて……素敵な人なんだろう。こんな人が、こんな女性がいるなんて……)
僕と同じ記憶を見ていたと気付いた。僕が自力で見つけたと思っていた仲間との思い出は、羽鳥さんが見せてくれたものだ。
僕はイトりんの手をつかんでゆっくりと歩いていた。ボロボロと涙が勝手に流れていく。それは彼女の回復魔法を受け止めたせいだ。
「……羽鳥さん」
あの魔法を受けたときから、全身に鳥肌がたっていた。大袈裟じゃなく、彼女の無償の愛を感じたからだ。あれは魔法なんてものじゃなく、ヒロイックな自己犠牲なんてものでもない。
《《光》》だった。優しくて温かくて、勇気と希望が湧き出てくる何か。それは彼女自身の生命から湧き出る光だと思った。彼女の心は僕の真っ暗な闇を照らしてくれる。
「……羽鳥さん」
上手くは言えない。僕は彼女を好きになってしまった。恋愛なんかしたことがないし、感情の理由を言葉には出来ない。
「ありがとう、ありがとう、羽鳥さん」
「あ、あれぇ? なんかボロボロだけど洋服はすごくオシャレね。彼女でもいるのかしら」
「あ、ありがとう。その小さな可能性を疑ってくれて」
「ぷっ……ふふふ。いるわけないわよね」
「うん、いるわけないよね」
ただ頬が熱を持って赤くなった。彼女の顔を真っ直ぐに見ていられない。自分が何をしているのか分からなくなった。
「僕……僕は……」
君を知りたい。もっと君をよく知りたいと思った。何が好きで、何が嫌いなのか。どんな夢があって、どこに居たいのか。でも彼女は僕から目をそらしてイトりんを見た。
「あ、明菜婆さんに絞め殺されないよう懸命にやっただけよ。そ、それだけなんだからね」
「は、はい。ぐすっ、お婆さんにもお礼を言わせてくださいっ」
「う、うん。もちろんよ。私は二人を見てくるからじっとしてんのよ」
彼女とイトりんは倒れている二人を見てくれていた。僕は魔女のお婆さんと話した。明菜お婆さんを抱きあげて起こした。
「平気じゃわ。少し、休ませておくれ」そう言ってまた砂浜にへたりこんだ。「波の音がするわ、時間旋は抜かれておるのじゃな」
「ええ、カラス天狗は去りました。アンディと細川くんも無事です。ふたりは羽鳥さんが、見てくれています」
波間に人の気配がした。月明かりに反射した彼らの姿は、角度によって見えなかった。四人いる。二人は男で、二人は女性だった。
「野口くん」お婆さんは焦っているように見えた。「海洋生命体が来たんじゃな。あんた、連中と行くつもりなのかい。他に方法はなかったのかい?」
ボディラインがはっきりとした煌めくウェットスーツは鱗布と呼ばれ、カメレオンのように色調を変える。
「はい。僕を迎え入れてくれるそうです。しかも有肢菌類の脅威が消えたら、いつでも戻っていいそうです」
彼らの姿を見て不安は取り除かれていた。もっと半魚人とかイカ人間みたいな生き物かと思っていたが、見た目はずっと普通だった。
西洋人のような白い肌に、長く美しい銀色の髪。瞳は青みがかった緑色をしていたが、四人とも知的で優しそうな印象だ。
マットは敵の敵は、味方になりうると考えている。いま海洋生命体は、人類を操り生態系を踏みにじる有肢菌類を警戒している。
「舞は……あの娘は間違ったひとを愛してしまったようじゃ」お婆さんは唐突に僕の腕を掴んで目を見開き言った。
「まさか舞とあの彼氏を一緒に連れて行く気かい。奴らは地上生物をすべて一掃しようと思ってるのよ。胸を裂かれて爆弾を埋め込まれる前に、逃げなさい。隙をついて、身を退きなさい」
「な、何ですって? 実は鼓膜がいかれていて、うまく聞き取れないです」
「貴方は強いわ。二人を頼んだわよ」
「!?」
(舞さんは……イトりんを愛していると言ったのかな。舞さんと《《彼氏》》を一緒に……すべて一層の想い、胸を裂かれて……好き…好きなら身を退きなさいってことかな)
「わ、分かりました」僕は慣れている。心に秘めた想いは、僕を強くしてくれるはずだ。それがどんな感情だろうが、必ず。
「必ず二人は無事に、幸せになって貰います。僕の、僕の命にかけて」
「……」
明菜お婆さんは意識を失っていた。海洋生命体の四人は、僕の前に立った。ゆっくりと朝日がさしていくのが見える。
「貴方が、野口鷹志ですね。お迎えにあがりました。龍宮様の城へご案内致します」
「は、はい」
イトりんと、羽鳥さんは僕の横に立っていた。何も言わず、僕と一緒に行こうと頷いた。
「共にいらっしゃいますか。その二人と野口鷹志様でよろしいですか?」
「俺は行くが、羽鳥……お前には悪いが婆さんとアンディたちを見ておいてくれないか」
「……ふん、何の為にここまで来たのよ。一緒に行くに決まってるでしょ。気を失ってる明菜お婆さんには悪いけど、私も一緒に行かせてもらうわ」
波間に蜃気楼が揺れた。マットですら理解不能な海洋生命体の移動手段だった。僕は頭の中でマットに尋ねた。
(この後の計画は?)
『ただ逃げるだけだ。右手に希望を持っているとして、左手に糞を持っている場合、どっちの手が温かいかってなもんさ』
僕は答えなかった。ちっぽけでも眩しい太陽が昇っていた。白んだ空に一面の、水平線の彼方まで広がった海が続いていて、一枚の絵画を見ているみたいだった。




