スパイク
数時間前、高層マンションの中心部で大きな爆発があった。
パラパラと、壁からコンクリートの屑が落ち視界が悪くなった。同時に入り口ドアと窓から、四、五匹の猿人が飛び込んでくる。
全身は毛むくじゃらで上着は着ていないようだった。あるいは着ていた服は、破れて脱ぎ捨てているのだろうか。
入り口に三発、窓に二発撃ってから立ち上がり、中庭へ飛び出した。ゴリラのような大男が壁をぶち破って追ってくる。
「観念動力!」
その声は明菜お婆さん。掛け声と共にゴリラの頭部は切り刻まれ、巨体はばたりと地面に倒れた。
彼女は空中に浮かんだまま、じっと彼を見ている。ダボダボの黒いワンピースを着た、いかにも魔女という老婆である。
「舞ちゃんの彼氏、ちょっと早すぎたかもしれないね。どうせ、へばって使い物にならないんじゃないかしら?」
「か、彼氏とかそういうのじゃありません。でも、どうしても来るって聞かなくて」
時間が欲しかったのは承知のうえ、何事も実践での経験が一番だと思った。彼の実力をかっていた訳ではない。
周りに細い体つきの猿人が五匹……六匹、待ち構えているが、すでに明菜お婆さんの術で動きは封じられている。空間固定魔法は時間旋と相性がいい。
「イイイイイイ―――――――」
「イイイイイイイイ――」
奇声をあげると二階からも、子供のような猿人の群れが飛び降りてきた。七匹……九匹、十二匹。恐ろしく身軽ですばしっこい。
伊藤麟太郎は必至に走りながら、一斉に襲いくる敵に追われていた。目の前の猿人に全体重をかけアゴから突きあげるように掌底を入れる。
ひっくりかえった猿人の上を飛び越えた。その猿人は鋭いツメをたて背後から、彼のふくらはぎを削り取った。
「ぐあっ、痛ってーっ!」
「下手じゃな、回復魔法!」
教会にいたほとんどのお婆さんたちや、田中さんと芦田さん、金子と高橋は都内中心部のサンビアンテホテルへと向かっていた。
野口救出のミッションに参加しているのは私と、この伊藤。あとは聖子お婆ちゃんの戦友だった明菜お婆さんがいるだけだ。
空中を歩いている私たちを横目に伊藤は、マンションの敷地を必死の形相で駆け回っていた。
「この辺にいるのは確かなんだけど」制服のチェックのスカートが風になびく。いるはずの野口は見えず、逆に伊藤がいるのはありえない状況だった。
「聖子ちゃんは、全部知っていたのかもしれないね。シールド魔法、きっと彼に合うように舞ちゃんに教えたのね」
伊藤は他の猿人に背中から羽交い絞めにされ、首を噛まれた。頭に思い切り反動をつけて後頭部で頭突きを喰らわせた。猿人は吹き飛んだが、肩の肉をえぐり取られた。
「ぐううっ、ってえなぁ」
「回復魔法!! 有肢菌類を引き付けてくれるのはいいけど、あれじゃすぐに戦線離脱するかもね」
正面から首を絞めにきた猿人の左目に、オートマチックを二発撃ち込む。装弾数は七発だから、直ぐにマガジンを取りださなければ。
彼がここにいる理由は、時間旋潜入装置、レッドカードを手にいれたことが大きい。どんなに傷を負っても、カードを放棄することで戦線から離脱出来るアイテムである。
「彼に特別な魔法アイテムがあるなら見せて欲しいって言ったら……出してきたのは薄汚れたスパイクだったんです」
「アホなんじゃなーい?」
「はい。でも、普通のシールド魔法やサイクが使えなくても固定観念版だけは使えるって思ったんです、勘ですけど」
腕に噛みついた猿人に肘鉄を入れる。肘の肉が喰われ骨がむき出しになった。真上から飛び掛かってくる猿人にサバイバルナイフを投げた。眉間に受け態勢を崩した猿人を背負いで投げ、道をつくる。
「……よわ」
「……」
少年サッカーに誘われたとき、初めて自分のおこずかいで買ったスパイク。それが伊藤にとっての魔法アイテムだった。
誰も当時の彼が、サッカーを始めるなんて信じなかった。太っていて友達もいない、視線恐怖症で誰とも目を合わせられない少年。
彼は貯金箱を割り、一度も使ったことのない小遣いを全部かき集めてスポーツ用品店へ走った。一緒にいたのは勿論、野口鷹志だった。
マガジンを装填――うまく出来ずに銃を放りだしてしまった。スローモーションのようにオートマチックが空中に舞った。
「くそおおっ!」
明菜お婆さんの回復魔法で出血はすぐに止まるが、なんというスパルタなやり方。すぐに意識も集中力も続かなくなるだろう。
「普通のシールド魔法は、空間に六角形の半透明ボードを産み出して、空間に固定されるから、多少の攻撃は防ぐんだけど。知ってるわよね?」
「ええ、上級者は広くしたり厚くしたり、反射するものもあるって聞きました」
「ふふふっ、それが固定観念だったわ」
「私のお婆ちゃんが教えてくれた術式だと、空間の固定が不完全だったということでしょうか。未完成の術式ですか?」
「いいえ、彼みたいなフットワークがあれば、シールドの使い道は変わってくる。初めから、あの子用なのかもしれないわね」
足を絡ませ、伊藤は倒れた――まだ、野口の姿はどこにも見えない。伊藤が瀕死で倒れても時間旋から弾き出されて、彼の受けた傷は元通りに復旧される。
再度の侵入は出来ないが、無傷で目を覚ますことは実証されている。だから囮になって連中を引き寄せているのだ。
「……た、助けないと」
伊藤は群がる猿人たちに埋め尽くされた。わらわらと集まる従属種らで彼の姿が隠れていた。離脱のタイミングを逃せば、いかにレッドカードがあろうと助かるとは限らない。
「アホが、やっとまともになったわ」
「……!?」
猿人たちは、立ち往生して伊藤を探している。中央にいたはずの彼の姿が、見えていないようだった。彼はすぐ側にいるのに。
「な、何が起きたの?」
「そうね、防御シールドには何種類もあるんだけど、すべてはダメージを減らす術式。彼のやっているのはダメージを全く受けない術式ね」
回避能力。彼はフェイントを磨いてきて、ここまでに昇華させたのだろうか。野口鷹志と彼の間には一体何があったのだろう。
暫くの間――猿人達は辺りの様子を不思議そうに囲み見ていた。その動きは奇妙で不快、猿人たちの目はぐらぐらと泳いでいるように見えた。
「回避だけじゃないわ。見えるはずよ、彼を通して聖子ちゃんの見ていた世界を貴方も見るの。ほら、これからよ」
「……」
あの日、新しいスパイクを履いた伊藤はサッカーチームの面々に囲まれていた。周りの人間の目線に逃げ場はなかった。
すでに後悔していた。腹がぐるぐると鳴り出して、冷たい汗が背中を流れた。心臓は高鳴り、口からこぼれだしそうだった。そして野口鷹志は、彼の前に立つとこう言った。
「じゃあ、儀式をはじめるよ」
「……は? なに、なに、魔法の儀式!?」
「ハハハ、そうだね。魔法の儀式だ」
代わる代わるチームのメンバーが彼の新品のスパイクを踏みつけていった。初めは意味が分からなかったが、痛くはなかった。
「新品のスパイクはね、こうやって仲間に踏んでもらうんだ。革が馴染んで怪我をしなくなるっていう、おまじないだよ」
それは仲間の痛みを受け止める儀式だったからだ。互いを認め、痛みを知り、仲間であると確認するためにスパイクを汚していく儀式。
「お、俺なんかが……仲間になれるかな」
「ハハハ、仲間に決まってるじゃん」
ただの古い慣習だったが、伊藤麟太郎にとっては違った。ひとつひとつの染みが己を強くする名誉の勲章に思えた。
重荷があれば全員で一緒に背負う。全員で手の甲を重ね、一斉にファイトと叫ぶ。このフィールドには仲間がいる。
希望に満ちて輝く、野口の目を覗き込んだ。その時から、その瞬間から……彼を苦しめ続けた視線恐怖症は克服された。
そして円陣が組まれたとき、チームの力は何倍にもなり、勇気と希望は膨れ上がり、世界を照らす光が広がり、掛け声は天高くどこまでも届く気がした。
「舞ちゃん、はじまるよ」
「ええ。こ、これが――」
張りつめた空気に、一陣の風が吹く。
一匹の猿人が、伊藤の身体に触れた。同時に、無数のトゲ針が雷鳴よりすさまじい速さで伊藤の身体から飛び出していた。
「こ……これが、本当のスパイクなのね」
取り囲んでいた猿人たちは串刺しにされ、微塵もなく吹き飛んだ。それが彼の術式だと気付いた時には、もう敵対者の姿はなかった。




