川のように
カラス、なぜ鳴くの。
カラスは山に可愛い七つの子があるからよ。夕焼け空に響く鳴き声は悲しげで、固く繋いだ手を離さないで欲しいと願った。
「お母さん、七人も兄弟がいたら毎日楽しいだろうね。おそ松くんみたいに」
「アハハ、烏は兄弟じゃないわよ」
「えーっ、もしかして七歳って意味?」
「……うーん」
母さんは首をかしげた。カラスは七羽も一度に雛を育てない。七歳のカラスは大人だから少し変な歌だと教えてくれた。
「でもずっと一緒にいたら、家族だよね。そうじゃなくても、仲間だよね」
「ふふふ、鷹志は友だちがいっぱいいるもんね。パパやママが居なくても仲間がいれば寂しくないかな?」
「やだーっ、ずっと川の字で寝る。たぶん大人になっても川の字で寝るからね」
「アハハハハ!」
死ぬときが来たら、父さんと母さんの間で手を繋いで、寝ながら死ぬんだと思っていた。そんな日がきても、いつか来たとしても、一緒にいられると信じていた。
※
二十五階、オープンラウンジの暗がりから飛び出す五匹の従属種は、さまざまな姿をしていた。鬼みたいな赤い肌のサラリーマンに、カッパみたいに嘴のある女子高生。
乱れた長い髪を口に入れたメガネの男。ふたりの警官は、頭を低く蛇のようにウネリながら走ってくる。
跳びあがる一人に三日月弾を射ちながら左手に走り、観葉植物を掴んで投げつけた。
地べたをはう二匹には左右で二発の叫喚波動だ。中指を弾くと水風船のように破裂して床が真っ黒に染まった。
まっすぐ向かってくる二匹は……もう向かってはこない。極細にした不可視の蜘蛛糸が横一文字に肉体を切り裂いていた。
「……ふぅ」
『視認できるカラスは七匹。外から階層を移動するのは危険すぎる。親カラスは恐らく高みの見物をしているだろう』
「マット、あの歌の謎が解けたよ。七つの子があるっていうやつは、あれだったんだ」
『その情報なんの役にも立たんぞ』
「そ、そうだね。とにかく、脱出方法を、プランBを三秒で教えてくれ」
『……よく聞くんだ』
作戦はこうだった。十キロ先にある海浜公園まで高架線を盾にして走る。海岸線、海水に生息する細菌や微生物、『海洋生命体』は『有肢菌類』とはまた異なる知的生命体だという。
海岸線は自然界の国境地帯。敵対勢力との武力衝突レベルは常に『3』を維持し、境界を保っているらしい。
蜂の巣をつくことで、連中の目をそらす。たどり着いたからといって助かる保証はどこにもないが、生き残る選択肢は他になかった。
割られたガラスが飛び散り、音速を越えた銃弾が耳をかすめた。場所は分からないが発砲されている。警官は拳銃を所持しているのだから当然だった。
ズズ――ン……突如、高層マンションの中心部から爆発音がした。足元がビリビリと揺れる。何が起きたのかと、マットに応えを求めた。
『分からんが、逃げ切ることだけに集中しよう。非常階段から隣のビルまで飛べる。高架下の国道まで進むぞ』
誰かが連中を引き付けてくれているのかもしれない。銃弾に爆弾まで出されたら、逃げ切るのは不可能に近いと感じた。それでもマットは落ち着いた声で指示を出した。
「ハァ……ハァ……」
むき出しの螺旋階段から、隣のビルの屋上テラスへ飛び移った。都心部の街灯は眩しいほどに道を照らしていた。
とっさに、しゃがんで空中をかすめていくカラスを見上げると、目の前の鉄柵が二つに割れて倒れてきた。
まともにくらえば半月刀ごと真っ二つにされていたところだ。あんなのが七匹、いや……親カラスを含めたら八匹もいるのか。
三車線の国道に降りると、右手の高架下の車道をジグザグに進んでいく。深夜だから車や人影は少ないが、少しはカラスの目がごまかせるはずだ。
「ハァ……ハァ……」
二、三ヶ所から銃口が瞬く。膝に激痛が走り、アスファルトに顎からつんのめった。銃撃は止まらない。みだれ射ちだった。
トラックの影に入り、息を整えた。両手からの叫喚波動で荷台ごと吹き飛ばしてぶつける。
逆さになったトラックが荷物をばら蒔きながら宙をまった。今度は三差路から集団が走ってくるのが見えた。
静止しているバイクをつかみ、渾身の力を込めて投げつけた。火花を散らして滑るように転がるバイクが、奴らに向かっていった。
「ハァ……ハァ……ハァ」
息をつく暇もなかった。叫喚波動の影響で、耳鳴りがやまない。全速力で走り適当なビルの窓を蹴破ると、足元に転がってきた手榴弾を掴んで外へ投げ捨てた。
「ハァ……ハァ……」
今のは危なかった。身を隠すことは、もはや不可能、前進するしかない。身体中に小さな切り傷が無数にできていて、シャツは所々が破れ、乾いた血で黒く変色していた。
耳たぶが千切れて血がしたたり落ちていた。鼓膜が破れているのかもしれない。さっきから手榴弾の爆発音も、投げたバイクの音も聞こえない。自分の情けない呼吸だけが聞こえていた。音もなく、爆煙と熱風は肌をヒリヒリと焼き付ける。
「ハァ……ハァ……」
心が折れそうになる。残酷な傷跡を見せつけられて、精神が消耗するのは当然だと思った。それでも恐怖を振り払うように僕は走った。
『なんて数だ。情報を共有しているから、常に攻撃をアップデートしてくる』
蜘蛛糸を使って、地面すれすれを這うように進んだ。膝と肘が焼けるように熱かった。逃げながら、不可視の糸を張り巡らせれば、何秒かは時間が稼げる。
「ハァ……ハァ……」
車やバイクの間を抜けて、狭い脇道に場所をうつす。時間はかかるが、連中は注意深くなっているから、効果がある。
『不可視の糸が効いてきた。下手に情報を共有しているから、連中は同じ動きしか出来ない。ワイヤートラップがあると思い込むんだ』
「ハァ……ハァ……ハァ」
膝に医療的薬指を撃ち込み、出血する膝を押さえつけた。膝から銃弾がポロリと落ち、傷口が閉じていく。大丈夫だ、まだ動ける。まだ……まだ……まだだ。
カラスは空にいながら常に隙を伺っていた。海岸線まで全速力で走り、息ができなくなったら、更に蜘蛛糸を使って進んだ。
「ハァ……ハァ……ハァ」
膝も肘もアスファルトで削りとられ、肉がむき出しになっていた。痛さで涙は止まらないが弱音なんか、はいていられない。
「ハァ……ハァ……」
やっと、ビルの谷間から海岸が見えた。真っ黒な海が遠い先に広がっている。汗が乾いて全身が冷たく感じた。あんなに暑かったのに、今は震えるほど寒い、出血が多すぎたのか。
「目が、霞む。あと少しだってのに」
『野口、銃弾が減ってきたと思わないか。なにやら〈賢者の犬〉どもの様子がおかしい。サンビアンテホテルに向かって――』
朦朧としていた。僕はひとり、とぼとぼと海岸に向かって歩いていた。考えることが、できない。無防備にまっすぐ、海を見ていた。
「うっ……っく」
『はっはは! 胞子ネットにトピックスがあがっている。大規模進行が始まっているらしいぞ。人類が時間旋に侵入して、賢者に戦いを仕掛けているんだ。あの怪物爺いどもが、タナーとアッシュと、他にも何人も、あの金子や高橋まで参加してやがるぜ』
(……よ、良かった)
由紀子おばさんだ。きっと僕の話を聞いて、仲間を集めてくれたんだ。信頼できる仲間、地下組織とか、正義の味方が来たんだ。
ついに、英雄たちが立ち上がった。僕の情報は無駄にはならなかった。嬉しかった、嬉しくて、気持ちが少し緩んだ。
(……本当に、よかった)
涙がポロポロとこぼれ落ちた。あの部屋に吊るされていた子供たち、ソファーに寝かされていた改造人間。何人かはきっと助かるはずだ。
『ばか野郎! おい、駄目だ野口。〈賢者の犬〉が去ってもカラスどもがいるんだぞ。忘れたのかっ!!』
バサバサと鳥たちが集まる音がした。そして真上から一際大きなカラスが舞い降り、僕の前に立ちはだかった。
『野口っ、しっかりしろ。親玉のカラスが降りてくる。今すぐ立ち上がってくれ――』
「……」
肘からは骨が飛び出していた。膝の皿が割れていて、真っ直ぐに歩けない。僕は砂浜に、その膝をついた。
真っ黒なカラスがキラキラした星の空を飛びかっていた。カァーカァーと鳴きながら、旋回して僕を見ている。
僕は砂浜に膝をついたまま、前にも後ろにも倒れなかった。全身の血が抜けて動けないんだと思った。なんでそんなに鳴くんだろう。
死ぬときは川の字になって、父さんと母さんの間で、眠るように死ぬと思っていた。こんな場所で、たった一人で死ぬのは……とても寂しいと思った。
「……」
霞んだ目に人影が見えた。男の人が右に、左には女の人だ。そうか、川の字みたいだね。父さんと母さんだと思った。やっぱり来てくれたんだね。
「……っ!」
いや、なんか必至に喋ってるみたいだ。ごめんよ、耳はよく聞こえないんだ。揺さぶられて僕は目を疑った。二人は、その二人は、イトりんと……羽鳥さんだった。
「聞こえてんのか、死なせねぇぞ、野口!」
二人は僕の左右に立ち尽くしていた。目の前の怪物、『カラス天狗』を前に堂々と。少しも臆することなく、まっすぐに――。




