自殺なんかしない
「ち、違うんです。その携帯をすぐに切らないと、奴らにここがバレるんですっ!」
「あ、ああ、それならもう……」
「……?」
赤らめた頬に、見開いた瞳。片手にはスマホがあり、もう片方の手は空を掴むように。涼子さんは静止したままだった。
僕は――マットを呼ぶしかなかった。
「マット!」静止した涼子さんを見つめる。「これは時間旋が使われたってことだよな。返事をしてくれ」
『やっと回線復旧かと思ったら、この状況。ああ、連中に見つかって胞子ネットに指名手配されちまってる』
「くっそ、また賢者の犬どもが来るのか。三秒で脱出プランを教えてくれ」
『ぶっ……そう慌るな。またパニック発作なんてたまったもんじゃない。あの腹からくる冷たい感情は二度とごめんだ。恐怖か絶望か知らないが、いいかげん腹をくくってくれ』
「ああ、すまない。お前は嘘をついてなかった。僕が弱かったんだ」
涼子さんは宙を見つめたまま固まっていた。薄着の彼女を抱えてベッドに運ぶことは少し背徳感があったが、そのほうが安全な気がした。
指名手配と聞いて完全に犯罪者になった気分だった。現実的に考えてこの状態は完全にアウトだ。ここにいれば涼子さんまで危険が及ぶ。
『俺の配慮も足りなかった。疲弊しきっていたお前に多くを求め過ぎた。今後は無駄な殺戮には配慮するとしよう。なんにせよ、あんな感覚を味わうのはこっちだってゴメンだからな』
「うん、ありがとう」
『知っているだろうが、時間旋の中では静止している人間に危害を加えることができない。殺しても旋が抜かれれば、復活すると考えてくれ。建築物や公共施設も同じく、破壊されても元に戻る。ここまではいいな?』
「うん、理屈は分からないけど理解してる」
『車や電化製品、重火器が使えるのは、持ち込んだ者や触れた者の意識が反映されているためだ。更なる別次元や平行世界の話になるので説明はしないが、あるものは利用しろ。どうせ復旧するからな』
「わかった。場合によってはビルを爆破しても問題ないってことだね」
『まあ、そういうことだ。それと、慌てる必要はない。俺がついているし、時間旋の中にいる限り、敵対者も一斉にくるとは限らない』
「はあ?」
『……いま殺しても、三日後に殺しても同じだろ、大抵の実力者はすぐには動かない。従属種で弱らせるのが常套手段なんだ』
「なるほど。この空間に閉じ込めておけば、時間の概念があんまり無くなるってことか。待ってくれ。それじゃあ、ずっと時間旋から出られないってこと?」
『それはない。限界値は百二十時間だ』
涼子さんをそっと肩から下ろしてベッドに寝かせ毛布を掛けた。いつか僕の行く付くところは刑務所か精神病院かもしれない。それでも涼子さんや由紀子おばさんから受けた親切は決して忘れないと思った。
「この人たちの為にも、あいつらを倒す」
『……逃げる、の間違いだよな?』
「うん、言ってみたかっただけだよ。それで僕はどうすればいいんだ」
『ここが高層マンションなのは好都合だった。階層までは特定できないはず。まずは相手の出かたを待つ』
とりあえず洋服だけは着た。涼子さんに別れを告げようと思うと、うっすらと涙が浮かんでしまう。かっこいいシャツに、パンツと靴まで買ってくれた。
他の同世代なら日常的なことかもしれないけど、僕にとっては特別だった。服を選んでもらい、似合うか見てもらえたこと。
家族以外では生まれて初めての経験だった。その家族ですら何年もなかったことだ。あたりまえのことなんか一つもなかった。
薄汚れた僕を心配して、かくまってくれた優しさ、見ず知らずの怪しい僕を信じてくれた勇気、いくらお礼をしても足りない。
「あのね、涼子さん」
「……」
「どうせ聞こえないだろうけど、いうね。悪い連中に追われているんだ。助けてくれたこと、本当に嬉しかったです。でも、巻き込むことはできないから、行きます。お世話になりました。ありがとうございました」
「……」
「そして、ごめんなさい。せっかく僕をかくまってくれたのに危険な目に合わせて」
そう言って、そっと寝室ドアを閉めた。不安を解消してくれようとマットが説明してくれたことは分かった。
この異空間は、連中の領域だ。でもマットの情報があれば、それを逆手にとることが出きるかもしれない。
数分も待たずインターフォンが鳴った。同時にドアをガンガンと叩く音が部屋中に響き渡った。マンションのあちこちで、そんな音がしているようだ。
「警察です。近所からの通報で来ました」
僕には、その警官がホテルにいた〈賢者さまの犬〉だと解っていた。直属の部下、従属種と呼ばれる連中だと。
ガチャ……ガン。
ドアはチェーンでロックされている。真っ黒な――白目の無い瞳孔だけの目が、ドアの隙間からこちらを見ている。背筋に冷や汗が流れ落ちるのがわかった。
「おいおい……見つけちまったぞ。お楽しみ中だったのかい。中身の空っぽのクズ野郎の分際で?」
「教えてくれなくても、忘れてないよ」
警官の格好をした怪物はドアの隙間からにやりと笑った。その細くて長い手が内側のチェーンをまさぐっていた。
派手にドアを壊すことも出来るはずだ。だが蛇のように伸びた手は、指先の力だけで簡単にチェーンを粉砕した。パチンと指を鳴らすような音だけがした。
僕は玄関から一番遠いマンションのベランダで、手すりに足をかけていた。三十階からの目の眩む高さは、落ちれば即死することを意味していた。
「ははは、逃げられると思ってるのか?」
僕はほんの少しだけ落ち着きを取り戻していた。空のパチンコ玉のような星を眺めた。綺麗だった。キラキラとまばたきして、僕を見ているようだった。
ドアは勢いよく開かれた。警官はまるで床を滑るような速さで、まっすぐと僕に飛びかかってきた。
だが、その手は空をきった……僕はマンションから飛び降りた。
「グルルワワワァ!!」
――空中で警官の顔を見ると大きな口を開き、牙を剥き出しにしている。獲物を取り逃がした間抜けな大蛇みたいだ。そいつは手すりに掛けてあった蜘蛛糸に気付いた。
「けっ、命綱を使って逃げるつもりか」
蛇顔の警官が、伸ばした爪を使って器用に蜘蛛糸を切るのが見えた。
残念ながら、そっちのワイヤーはフェイクだ。その位置には罠が仕掛けてある。足元に仕掛けてあった蜘蛛糸が僕の落下の力で蛇顔野郎を縛り付けた。
その身体はマンションから放り出された。腕はガッチリと蜘蛛糸が縛りあげている。もう少し踏ん張ってくれる予定だったが、僕の人生と一緒で予定通りにはいかなかった。
『正直、そういう考えになると思っていたよ。お前に会ったときから、最初にお前の監視役をやったときから』
連中に捕まれば、殺されるだけでは済まない。涼子さんや、由紀子さんや山城や、羽鳥さんも、カネちゃんも捕まる。
賢者は頭の中の情報さえ調べることが出来るのだから。絶対に逃げ切るのが一番の使命、永遠に逃げる方法が一つだけある。
「たった一つだけ、僕の死だ――」転落で高度はより感じられた。風が吹きあがり突風がシャツを引っ張った。
「でも……違うって分かった。僕は自殺なんかしない。由紀子さんや涼子さんに会って分かった。羽鳥さんや山城に会って感じた。もう絶対に死のうなんて考えないっ!」
落下する中で、僕は心地よい風に受け止められた気がした。小指から弾き出した蜘蛛糸を壁に貼りつけ、残りの指で握りこむ。
「うわああああっ!」
伸びきった蜘蛛糸が僕の身体を壁側へと引き戻す。空中を弧をえがくように浮遊すると、すれ違うように落下していく蛇頭が見えた。
『ひゅう……お前は苦難を恐れない、自ら死のうとも考えない。そうだろ、変わり者で、諦めが悪くて、正直で、まっすぐで、だからそう考えると思っていた。お前が犬顔やら蛇頭に捕まるはずがない』
見つかると同時に階層を降り、隙があればその場で仕留める作戦。僕は目の前に顔を出した警官を親指から引き出した半月刀で斬りつけた。
「!!」
血が吹き出すが、致命傷にならないと分かると、ぐいと引っ張り出してビルの谷間に放り出した。三つ下のラウンジに飛び降りると、更に二匹の警官が向かってくる。
「「グルワアアアアー……」」
両手の人差し指を向け、三日月弾を発射する。一匹は左目、もう一匹は眉間にヒットした。バランスを崩しながら向かってくる二匹をまとめて外へと放り出す。
『……』
「はあ……はあ……はあ……やったよ、やった。一瞬のうちに四匹倒した!!」
『死なないっていう決意をしたばかりだが、少し難しくなってきた。恨むなら、俺を恨んでくれ。事情が変わったようだ』
「な、なんだよマット。作戦どおり、こうやって一匹づつ倒せば絶対に大丈夫だよ」
『……一匹も死んでない。見ろ、カラスが捕まえていやがる』
「なっ、何だって!?」
『俺のミスだ。他の名家が俺たちに興味を持ったようだ』
「想定外の新手か。誰のせいでもない、マットのせいじゃないだろ。諦めてたまるか」
『いや、俺がうかつだった。最初から見られていた。覚えていないか。お前が数学のテストを受けていたときから、カラスがいた』
「そ、そう……だったっけ!?」




