正しい選択
「……起きたか、ハッシー。どんなだ」
金子と高橋のふたりは、教会でそのまま寝込んでしまった。まる一日たっていて、日付は日曜になっていた。
暫くはベッドの脇にある経口補水液にすら、手がだせないほど弱っていた。木造二階の窓からは、荘園が見渡せて白いカーテンがかすかに揺れている。並べられたベッドから高橋の声がした。
「熱っぽいし、吐き気がする。何度か便所に行ったけど下痢が収まらない。悪寒がするのに、妙な脂汗がひっきりなしに出やがる」
「……だいぶ良くなったな」
「あ、ああ。カネちゃんは?」
「おお、さっき鏡を見たけど頬が痩けて、目の下にくまが出来てた。唇は紫色してるし、髪の毛も抜けたし、血尿が出やがった」
「……かなり良くなったな」
「あ、ああ、そうだな」
更に一夜明けると、体調は嘘のように良くなっていた。夜中に一度、頭の禿げた神父が訪れ針を射していった。たったの一度だけで治るのなら初めからそうしてもらいたかった。
「気味の悪い神父だ。だいたいこの教会はおかしいことだらけだ。祭壇に祀ってある三角錐の宝珠、樹輪の宝珠っていうらしいぜ」
「ハッシーも気付いたか、あれはキリストじゃない」
「……それは見ればわかる」
「起きたなら準備してちょうだい。神父さまが荘園でお待ちよ」
入り口のドアの向こうは暗かったが、それが修道女麗子だと分かった。しわくちゃになった制服のまま、ふたりは教会の裏手にある荘園に出た。緑の広がる広い敷地に、黒い修道服姿の小男が薄笑いを浮かべて立っている。死の宣告でもされそうな雰囲気だ。
「おはようございます。金子殿、そして高橋殿、手前はこの教会と樹輪の宝珠を預かっております神父、ラルフと申します」
「どう見ても日本人のくせにラルフっていったのか?」
「ぷっ、ニックネームかなんかだろ」
「はてさて、ご用意させて頂きましたるは、お二方に馴染み深いフットボール用のボールでございます。しばしこれを使って手前と遊んでは頂けませんでしょうか。体を動かしながら、今後の方針を決めねばなりませぬ」
目の前に転がってくるサッカーボールをハッシーが器用にリフティングする。爪先から膝、肩から頭、額に乗せるとボールは張り付いたように制止した。
「……体調なら万全です、神父さま。これは何かのテストですかね」
キーパー用のグローブを付けているのが見えた。背後にある木々の幅はちょうどゴールと同じ距離だ。シュートを決めろというわけか。
「察しがよろしいようで。では、手前を抜くことなど容易いでしょうね。二人がかりで構いませぬ。思い切り撃ってごらんなさい」
「はは、どうなっても知らねーぞ」
二人は目を合わせてうなずいた。金子が振りかぶった右足にあわせて高橋がボールをだした。その瞬間、金子の足元でサッカーボールは粉々になって破裂した。
「い、いったい、どうなってるんだ!?」
「あなた方はただ眼で見るだけで、観察ということをしませぬ。見るのと観察するのとでは大違いでございます。さすれば実体験してもらい説明する方法しかありませぬ。手前の話しを聞いていただけますかな?」
「は、はい」
神父の話とは信用できるものではなかった。ボールが体に張り付き、簡単に破壊できるという不思議な体験がなければ。
樹輪の宝珠を祀った教会内でのみ、この神父はタイムリープが可能だという。彼だけが使える信じがたい能力で、この区域の安全が保たれているらしい。
金子、高橋は強力な特殊細菌に感染し、生死をさまよった。神父は三度、ワクチンを投与したが生き残る可能性は恐ろしく低かった。
最終的にとった手段は、同じ感染者から作成した培養液により細胞を定着させる方法。その結果得られたものがこの能力である。
「信じられない……」高橋は眼鏡を吊り上げて言った。
「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となりましょう。シャーロックホームズの台詞でございます」
「す、すごいじゃねぇか。これであの松本みたいな連中と渡り合えるってことか。野口と同じくらい破壊力があるみたいだぜ」
「いいえ、彼の場合は少し特別です。生体制御能力や観念能力など未知の能力は多岐に渡り、まったく新たな能力を得たと考えられます。あなた方のような感染者は単なる強化型と呼ばれております」
「は、はは。でもこれってラッキーだよな。肉体が強化されたんだったら、プロのサッカー選手だって夢じゃない」
「それも良いでしょう。ですが、あなた方は今後目立たず能力をひた隠し、ひっそりと生きていかなくてはなりません。有肢菌類の猛威は消えてはおりません」
複雑な内容だった。それは連中の使う『時間旋』という空間を歪める能力についてだ。一般人では影響を受けない異空間、それをこの先は目の当たりにすることになるのだ。
「じゃあ、つまり有肢菌類っていう怪人から狙われ続けるってことか?」
「ええ、逃げかたや隠れる方法は教えましょう。そこで選んでいただきたいのです。我々や野口鷹志くんと二度と関わらないという正しい選択を」
「……」
「正しい選択っていうのは……」金子は金髪をかきあげていう。「精進料理みたいなことかな。あの菜っぱの粥と味のしない汁と、漬け物だけの味気のない飯みたいな」
「さて……例えれば、そのような物かもしれませぬ。健康的で正しい判断とは存じます」
「ごめんだね。そういう選択肢もあるってことは分かる。でも、俺はシロップたっぷりのパンケーキや油ギトギトのラーメンやハンバーガーがいいんだ。駄菓子や炭酸みたいにワクワクするやつが好きなんだ」
「おい、カネちゃん。飛躍してるけど、ちゃんと分かって言ってるのか?」
「大騒ぎしすぎなんだよ、二度と戻れないだけだろ。ハッシー、お前は野口と関わらない人生が美味しいと思うか? 味気ない無糖のシリアルみたいな生活で満足できるのか」
「……」
金子とは長い付き合いの幼馴染みだ。駄菓子屋でよく買い物をして遅くまで校庭や広場で時間を過ごしていた。
高橋は思い出していた。共働きの両親は余計な小遣いをくれなかった。貧しかったわけじゃなく、買い食いを許さなかったのだ。だから、いつも指を咥えて駄菓子を眺めていた。
駄菓子屋の婆さんは、みかねて菓子をくれた。一度や二度じゃなかった。金子や山城はいつも小遣いを持っていたが、俺と野口は金を持っていなかった。
サッカーで汚れたユニフォームを見て、俺たちが貧乏人だと思っていたようだ。最低なことに、俺は婆さんを見下していた。
金がないといえば、いくらでも菓子をくれる婆さんを利用していた。騙されているとか、ボケているといって笑っていた。
本当は家に食い物なんかなかった。おやつなんか、あるわけもない。ただ腹が減って減って仕方なかっただけだった。
ある日、野口がレトルトパックのうなぎを持ってきた。いつもご馳走してくれる駄菓子屋の婆さんに、たまにはご馳走してやろうと言ったのだ。馬鹿馬鹿しいと思ったが付き合った。
「安いやつじゃないか。ウマイのか?」
「うん、ウマイよ。グラグラ煮たらご飯に乗せるだけだから、僕らにも作れるんだ」
金子は知らないが、野口とふたりで婆さんの部屋にあがった。六畳一間で身寄りのない婆さんは、嬉しそうにニコニコ笑っていた。
野口がコンロをかりて鍋に水をはった。盛り付けた飯に鰻をのせると、仏壇の線香の匂いが、鰻の匂いにかわった。
「どうぞ、食べてください」と野口は言った。あいつは俺の胸のつかえも取ってくれた。本当は婆さんに、ちゃんとお礼がしたかった。
「まあ、美味しい。あなたたち、今度は婆さんが何か作ってやるけ、いつでも遊びにおいでよ。お腹すいたら、言うんだよ」
「……これ」
俺は家から持ってきた山椒の瓶を出した。美味しいと言われるまで、恥ずかしくてポケットからだせなかった。
「あらあら、ありがとうね。息子が先に逝っちまって、あんたらを見ると思い出すもんで。真っ黒になって遊んで、腹を空かせとってね。だから、あんたらの腹空かした顔みたら、ほっておけねくてね……うめえよ。息子に食わしてもらってるみてぇで、本当にうめえよ」
駄菓子屋には行かなくなった。婆さんはあの後、死んじまって店が無くなったからだ。俺が婆さんにしてやれたのは鰻に山椒をかけてやっただけだった。
数日後の帰り道、金子はコンビニで買ってきた駄菓子を、俺と野口に手渡した。
「あの駄菓子屋、好きだったのにな」
「ああ……大好きだった」
婆さんのくれた駄菓子の味は、濃かったり、甘すぎたり、しょっぱすぎたりして、健康的にはとても良いとは言えなかった。
――だが、そいつは最高に美味かった。




