〈番外編〉三流小説家より愛をこめて
「アッシュ」白髪の老人が手を伸ばし言った。「椎名由貴子の新作が売ってるぞい」
禿げたもう一人の老人は膝を守るようにバイクから降りた。喉を撫でながらニヤリとしてチェーン付きの財布を出した。
「懐かしいのぉ」
「ああ……彼女の小説も手料理もとても頂けたもんじゃ無かったが、妙に懐かしくなるときがあるわい」
「不器用でも素直な子だったからな。儂らが一夜漬けで書いた報告書を熱心に読んで感想を言ってくれるのが嬉しくてな」
「ははは、小説だと思い込んどったな」
※
新人作家たちはいくらかライバル心を燃やしているように見えたが、今年還暦を迎える椎名由貴子には快く挨拶をした。
会場に知り合いの姿はひとりもなく今後の執筆活動には不安を覚えていた。
「椎名さんですね。作家デビュー、おめでとうございます。年配の方は珍しくて……失礼しました。小説投稿サイト出身ではなかったものですから」
「いいんですよ、本当のことですから」
老婦人は柔和な笑顔を向けてやさしく応えた。ベージュ色のスーツで正装した彼女は首を縦にふる代わりに口角をあげてゆっくりと瞬きをした。
若手の新人たちには既に固定のファンが付いているようで、拍手の大きさが歴然として違っていた。
『あんな婆さんに新人賞あげてどうするんだ?』
『作品は面白いけど、古臭いよな。若者が付いていけない』
『読者がついてないんだろ。だれかが裏で金でもつんでるんじゃないか』
気の抜けたムードと罵声。ヤジは遠い場所の彼女の耳にも入るほどだった。それでもいじけたような素振りはひとつもなく、背筋を伸ばして堂々と立っている姿には気品があった。
初めて小説を書いたのは高校生の頃だった。貧しかった時代の小さなアパートに思いを巡らせる。セーラー服の少女と作業着の二人。
隣には田中さんと芦田さんという二人の若い男性が住んでいた。
彼らは作業着しか持っていなく、部屋には小さなコンロと沢山の文庫本にレポート用紙しか無かった。食事代も切り詰めているように見えた。
共働きで夕飯を任されていた私は度々多めに買った食材を持って二人の部屋を訪れた。不馴れな手つきで食事を作り振る舞っていた。
「悪いね、椎名さん。いつもいつも」
「いいえ。沢山の本、お借りしてるお礼ですから気にしないでください。それに作品を読ませて貰えるから、これくらいはね」
二人ともハンサムだった。優しくて頭も良かったから私は自惚れていたのかもしれない。田中さんは壮大なSF小説を書いていた。
三人で読み合って意見を出し合っているうちに私たちは一緒に冒険しているような気分になった。あるときは雪山を登り、あるときは広大な月の砂漠を歩いたり。
「田中さんと芦田さんって仲がいいですよね。職場まで一緒なんて」
「そうでもない。こいつを称賛しようと思ったことは一度もない」
「はあ?」芦田さんは喉をさすって言った。「ちゃんと僕のファンだっているんだぜ。そのうち信仰にあつい村人たちがお前を火炙りにするのが待ち遠しいよ」
「アハハハハ」
「ふはははは」
芦田さんはファンタジー小説家を目指していた。いま流行の異世界作品にはやくから目を付けていたのだから、センスはあったのかもしれない。
内容としては出来の悪い奇人変人がドタバタしながら悪人を懲らしめる物語だった。私たちは彼の物語にお腹を抱えて笑った。
私が初めて書いていた淡い恋愛小説を褒めてくれたのも二人だった。大きな体をした芦田さんは見た目に反してデリカシーがあった。
「椎名さんの書く情景は詩みたいで本当に素敵だね。僕は大好きだ」
「お前は彼女がいるだろ?」
「小説を褒めただけだろ。それに彼女には振られたよ」
「まったく、振られる前に椎名さんか俺に相談しようと思わなかったのか?」
「今思ってるけど」
「ぷっ……ははは」
二人は情景や描写、心の機微をよく褒めてくれた。過酷な物語を愛した田中先輩は、綺麗で美しいだけの文章には否定的だった。少年漫画をひきあいに派手な展開にするよう私に指示するのが可笑しかった。
「心の痛みっていうか、もっと内面を現実的に書いたほうがいいと思います」
「田中は怖いもの知らずだから、そういうデリケートな描写が下手なんだよ」
「俺だって怖いものはある」
「例えば何ですか?」
「……うーん、君とか」
「プッ、アハハハ!!」
出来の悪い作品でも、二人は真剣に読んで感想をくれた。卒業してアパートを移ってからは二人と会う機会はほとんど無かった。
お祝いに貰ったノートPCは当時にしたら大金だったはずだ。ホームページを作って小説を定期連載するよう勧めたのは田中さんだった。
「こんな高級なもの貰えるわけ無いじゃないですか。だいたいあなた方のほうが必要だと思いますよ。作家志望ですよね」
「金は二人で出しあったから安いものさ。それにただじゃないぞ。条件は君の小説でHPをつくること」
「ええっ!? 最近は趣味でしか書いてないんです。とてもひと様にお見せできるようなレベルじゃないです」
「ペンネームで載せたらいい。実は俺達、仕事でバラバラになっちまうんだ。椎名さんが定期的にHPをアップしてくれたら、そこで意見交換できるだろ?」
「わかりました。いいですけど、いったい私の小説なんて誰が読むんですかね」
「俺が……いやその俺たちと、俺たちの仲間が読むさ。ついでに芦田の詩集も一緒に載せてくれてもいい」
当時はちゃんとした小説投稿サイトはなく、個人のHPに公表するのが主流だった。私はあるころから二人が危険な仕事に就いていることを知った。
あれが最後の電話だった。田中さんからは詳しくは聞けなかったが、戦場カメラマンとか傭兵のような命の危険がある仕事だと思う。
「私にも言えないような仕事なんですか?」
『あ、ああ、少しややこしくてね。君も馬鹿なことしたってことはあるだろ』
「無いです。信じられません」
『とにかく結婚おめでとう。HPで知って驚いたよ。式にはいけないけどブーケは受けとれるかな?』
「無理でしょうね」
『怒ってるのかい。いい式だったってコメント欄にいれとくよ』
「もう馬鹿なコメントは止めてください」
『すまない。雰囲気をよくしようと思って』
「良くなりました?」
『……いいや』
「ぷっ、あはは」
『アハハハハハ』
私のHPは閲覧者も僅かで二人の情報交換のために都合よく利用されるだけだった。長年のコメントを見ていればそれくらいのことは分かっていた。
田中さんのハンドルネームが『タナー』で芦田さんは『アッシュ』。二人でいるときは『サンドイッチ』。本気すぎてむしろ笑える。
信じられないことに、私のHPのコメント欄を使って数知れない仲間たちと重要なやり取りまでしていた。
暗号を解いてみると、有肢菌類から発生した怪人を倒すためロシアの潜水艦を盗む作戦や、火山を利用した水蒸気爆発で敵を一掃する計画が書いてあった。
「……なによ。何なのよ」
そんな冗談みたいな変人たちしか私の小説の読者は居なかった。何の為に私は寝る間も惜しんで毎週のように小説を書き続けていたのか。
認めたくはなかったけど、私はお世辞にも文章が上手いわけではない。将来的に絶対売れそうもない地味なネット小説家のHP。それは絶好の隠れ蓑だったのだ。
人を馬鹿にするのも程があると怒鳴りたかった。騙され裏切られていたことに気付いてしまった。何もかもが信じられないと思った。
考えてみれば不思議なことは沢山あった。両親を無くしたとき、支払われるはずのない賠償金が通帳に振り込まれたこと。
大病を患った私の手術代は保険の適応外のはずだった。それも余分に振り込まれていた。三年前に旦那を癌で失くしたときまで。
私は確信していた。あのふたりがまだ私をうまく騙しているつもりだと。おかげで幸せな人生を手にしたことは自分が一番分かっている。
彼らが何者なのか考えるのはやめよう。せめて二人が面白いと唸るような作品を書いてやろうと思った。
そして……人気が出ると共に二人は去ってしまった。HPを読んでいたとしても足跡は無くなってしまった。
全身全霊で書き始めたのはそれからだった。二人が無事ならそれでいいと思えた。それだけを願って私は書き続けた。
本当は知っていたのに、感謝すらしていたのに二度と連絡がつかなくなって気付くなんて。
それでも日本のどこかの書店で、目に触れることがあったら気付いて欲しい。私はずっと貴方達を愛していたと。あの青春の日々を忘れはしないと。
椎名由貴子作。
冒頭にはこう書かれていた。
――タナーとアッシュに愛をこめて。




