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助けて欲しい

 生まれてはじめて浴びるような気持ちのいいシャワーだった。彼女に連れてこられたのは高層マンション、タウンハウスというらしい。


「由紀子おばちゃん。ひさしぶりで申し訳ないんだけど、入れて貰える?」


『もちろんよ、さあ入って』


 彼女は派遣社員の仕事の他にもうひとつアルバイトをもっていた。叔母にあたる親戚で、還暦をすぎた小説家のハウスキーパーである。


 有名な女流作家だというが、僕はしらなかった。玄関にたつのは、ゆったりした生地のワンピースを着た女性。丸く纏めた白髪の女性だった。気品のある、いい匂いがする人だ。


 都内の高層マンションには執筆用の書斎と広いリビング、二つの寝室があった。その一室を自由に使わせてもらって、在学中はほとんどそこから通学していたという。


「まず、脱いでちょうだい」


「は、はい。あ、あの、僕みたいな怪しい人間を疑りもしないで、入れてくれるんですか?」


「あら、まだ若いのに人に頼るのが苦手なのね。助けが必要だってことくらい、見ればわかるわ。老眼鏡がいるけど」


 タオルで体を拭い、白いガウンを羽織り、スリッパを引っかけてリビングに向かった。モダンで大きなキッチンと銀色の冷蔵庫が見えた。


 テレビドラマや映画でみるような機能的な設備、ワインクーラー。不思議と家具だけは古めかしくてアンティークな雰囲気だった。


隙間すきまっていうお店よ」玄関先でおばさんの声がする。「すぐそこの角にあるじゃないの」


「ああ、ギャップね、わざと言ってない? じゃあちょっと行ってくるわ」


「気をつけてね……」


 由紀子おばさんは僕をソファーに座らせるとギラギラした包丁を取り出した。目があうとパチリとウインクをして大きな冷蔵庫から食材を引っ張りだす。


「あの、手伝いましょうか」


「ふふっ、作りたいのよ。ずいぶん昔になるけど貧しくて小さなアパートに暮らしてたころ、同じアパートに二人組の男性がいてね。私が作った料理を沢山食べてくれたわ」


「……」


「聞くところによると」野菜を切りながら言った。「追われてるのね。その連中は一匹や二匹じゃない。だから仲間を助けるために、あなたは囮になった」


「まあ、そうです」


「《《まあ》》は、いらないのよ。ビルの谷間、凄い距離を移動して、車の下とか排水溝とか下水道の中まで、みじめに這いずり回ったわね」


「……は、はい。惨めかどうかは分かりませんけど」

 

「助けてって言うのよ。誰かのため、世界中の人々のために戦ってるのに、誰も助けないし興味もない。本当は助けてほしいんでしょ」


「それは……やっぱり分かりません」


 温かい眼差しが僕を見ていた。サラダとパンはすぐにテーブルに置かれた。パスタからはトマトとハーブの香り。野菜スープに、肉料理が火にかけられている。


「さあ食べて。沢山あるから」


 僕はゆっくりとサラダから箸をつけた。一口ずつ味わって食べようと思った。でも途中から我慢出来なくなって、ガツガツと食べた。


「雑談ばっかりしていたわ、小さなボロアパートで。ずっと騙されていたのよ、わたし」


 おばさんは僕をみて高校時代を懐かしんでいるようだ。共に青春を過ごした年上の男性が二人。パソコンを買ってもらい、小説を書き続けていたのは彼らの影響らしい。


「全部、嘘だったのよ。二人は誰も見ない私の小説サイトを利用して、裏の仲間たちと連絡をとりあっていたの。隠れ蓑だったのよ」


「……ひどいですね」


 信じられない話だった。多分、僕の馬鹿げた話にあわせて彼女も不思議な思い出を語ってくれたのだと思う。もし二人に当て込み僕を恨んでいるならお門違いなのに。


「全部、嘘だったのよ。でもひとつも恨んじゃいないわ」今度は声を絞って、囁くように言った。


「貧乏なふりまでしていたの。家族が失くなったときも、私が大病を患ったときも、大金が振り込まれていたわ。三年前に、旦那が死んだときもよ」

 

 大量の料理を次々と平らげる僕を、幸せそうに眺めていた。おばさんは何が言いたいのだろうか。ただ、優しくて温かい言葉に僕は忘れていた感情を取り戻していた。


「恨んでないっていうのは、違うわね。私はもう一度ふたりに会いたいの。なんで黙って行ってしまったのか、許せないのよ」


 誰かに頼るという感覚。誰かに話を聞いてもらう喜び。人を信じること。何年も人に相談することがなかったから、忘れていたんだ。

 

「お金なんてもう要らないのに。私はね、ふたりが辛いときに、頼って欲しかったのよ。誰よりも信じられる仲間になりたかったの」


 腹が膨れてきて、やっと彼女が待っている言葉が分かった。僕がずっと心の中で叫んでいた言葉も分かった。


「君とそっくりよ。まあ、そうかな、分からない、たぶんそうだ、きっと君が思ったとおりだ、そんな言葉はいらない。私が聞きたいのはそんな台詞じゃないわ」


 かってに涙が溢れだしていた。こんなに優しくされて、湯気のたつ温かい料理をご馳走してくれて、こんなに汚い僕をかくまってくれる人に対して、緩んでしまったんだ。


「……た、助けて、僕は傷付いてる」


「そうよ。正直になりなさい」


 由紀子おばさんは僕を抱きしめてくれた。彼女のきれいなワンピースに僕の涙がついてしまった。それでも涙が止まらなかった。


「ぐすっ、ぐすっ、ありがとう、ありがとうございます、ぼぐ、だすけてって、うぐっ、いう資格が、ふうっ、無いから、ぐすっ」


「いいのよ。あなたはまだ子供なんだから、大人を頼っていいのよ」


「…………」


「……」


 

 

 涼子さんは両脇に買い物袋をぶら下げて、部屋にあらわれた。ボタンダウンの青いシャツを出して、僕に合わせてくれた。


「サイズは合いそうね」


「か、必ずお金は返します。こんなにしてもらって、本当にありがとうございます」


「お金は結構よ。でもひとつだけ条件があるわ。あのドナ○ドダックのダサいシャツを、捨てさせてもらいたくて」


「……は、はいっ」


 日が沈もうという時間に、由紀子おばさんはマンションから出ていった。二日ぶりの食事で僕は眠気に襲われていた。


 おばさんは山城祐介を探しに行ったのだ。僕と違って頼れる人に頼ると言っていた。地下組織の幹部が『ペンギン』というのは冗談かもしれないけど。


 涼子さんがシャワーを浴びている。僕はソファーでひとり。由紀子おばさんは、僕が泣きじゃくったことを内緒にしてくれた。

 

 ――僕は、あのことを思い出していた。しっかりと受け止める必要があった。二日前のホテルでの出来事を。







 

 

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