逃亡者
三日後――パトカーのサイレンが微かに聞こえる。それも、一台や二台じゃない……僕を探している。白いスニーカーは黒くほつれ、ゴム底がパカパカと音をたてていた。
聴覚が鋭くなって、すっかりサイレンの種類が聞き分けられるようになった。消防車・パトカーは何処の地区のものか、救急車はどの病院かまで言い当てられる。だから、どうしたって話しだけれど。
山城がどうなったかは、分からないまま。逃げ回っているだけで既に二日経っていた。
僕はただ一人、新都心の北地区に広がるこの大繁華街から出ることができず、ずっとフラフラとしていた。そして一人で行動したことを、今更ながら激しく後悔していた。
何も出来ず途方に暮れていた。視力と聴力の強化により、まわりを見渡せば街中が改造された人間と有肢菌類の擬態した警察官だらけ。
擬態している有肢菌類はひと目見れば分かる。注意深く心臓の鼓動を聞き分けると、意識を操作されている人間の区別も出来た。
問題は有肢菌類の兵隊だった。改造された人間は自分と同類であるが故に、判別するのが難しい。当然、注意深く見れば分かる。だが連中を凝視すれば、恐らく僕のほうが先に連中に見つかってしまうだろう。
だがこのままじゃ、すぐに見つかって連中に殺される。見通しのいい高台に向かい強化された視力で表参道を見渡した。
目の前、五百メートルに二人組の武装した警察官が立っている。心拍数を聞こうと試してみるが距離が離れすぎていて不可能だった。あわてて僕は迷路のような薄暗い路地裏に入る。
社員通用口と書いてある鉄扉の前には警備員が立っていた。警察官でなかった事にホッとしたが、こちらをじっと見ている。
僕は脇の下にじっと汗を掻いた。自然を装い裏道から大きな喫茶店に入った……しばらくここでやり過ごそう。
これだけ人がいれば連中だって僕を見つけるのは厄介なはずだ。僕は一番安いアイスコーヒーを頼んで空いている席を探した。
女子高生三人が、旅行の計画を話し込んでいる。喫煙室には煙草を吹かしながらスマートフォンでゲームをしているサラリーマン。
電話で話している女性にヘッドフォンを着けている大学生が一人。電話中の女の声。短めのスカートをはいているが、年齢は二十代半ば位の女性が電話の相手と揉めている。
僕は、その女性に集中した。厚化粧でごまかしている寝不足気味のまぶた。濃い色の口紅……その化粧品も決して高級品ではない。
フェラガモの腕時計とアクセサリーは高級品だが、バッグは良く出来た模造品……本物を見たことがあるから分かる。
見た事のないブランド物のブラウスとハイヒールは本物らしく、よく手入れがしてある。ブリーチされた巻き髪は胸まで伸びていて傷んだ毛先は、まとまっていない。
目と口は大きく、輪郭と鼻は小さく男にモテそうな顔をしていた。
もっと自然にしていた方が、この人は魅力的に見えるのに。目を閉じて聴覚に集中すると電話の向こうからは男の声が漏れている。
『涼子……ホント申し訳ない、急な仕事入っちゃったんだから仕方ねーだろぉ。今度埋め合わせするから』
「信じらんない、彼女の誕生日をすっぽかすなんてあり得ないでしょ。あたしだって予定開けていたんだからね」
『悪かったよ、そんなに怒るんじゃねーよ、じゃまたな……』
「まっ!」
『ツー、ツー……』
彼女は微かに奥歯をきしませて携帯をカバンに放り込んだ。 喫茶店の入り口付近に二人組の足音がせまっている。
先に見えた警察官だろうか。僕はストレスで脇腹が痛くなった。あわてて入り口に背に向けたまま、その女性の向かいに座った。
「あの、こんにちは」
額には冷や汗が吹き出していたが、僕は構わずはなし始めた。有肢菌類は無駄な情報を嫌うし、雑談もしない。こうすることが、連中の目を逸らすには必要だと感じた。
「いきなりすみません。先輩の彼女さんですよね。人違いだったらすみません、涼子さんで間違いないですか?」
「え、ええ」煙草をくわえたまま返事をした。ニコチンとカフェインは連中の嫌いな匂いだから、この空間は目くらましになるはずだ。
「そ、そうだけど?」
「ああ、良かった。実は先輩が急に涼子さんに会ってこいなんて言いまして」
藪から棒に僕は一方的に話した。まだ二人組の足音は止まったままだ。口からデマカセでも何でもいい。ここで、なんとかやり過ごせば、少しは逃げきる算段がつく。
「それで?」
「え……ええと、たしか今日は涼子さんの誕生日なんですよね」
彼女は煙草の煙を吐き出すと言った。ほんの一秒か二秒、返事を待たないとならなかった。
「……そうよ」
「な、何でも涼子さんの好きそうな物を買ってプレゼントして来いなんて言われて、困っちゃいますよ。僕にわかるわけ無いのに」
「………」
彼女は僕の顔をじっと覗き込んだ。またもや流れる僅かな時間が、とても長く感じる。ウソがばれたのかもしれないと不安が過ぎる。
「あっははは! 何それ、何のつもりよ!? 彼にお金でも渡されたって訳かな」
「はは……そうです。そうなんです」
言葉を繋ぐ。繋がなくちゃならない。会話していれば、連中は僕の存在に気付かない。
「涼子さんは今、どんなものが欲しいんですか。そんなに高級なものでは困りますけど。やっぱり、ブランド物は間違いないんですか?」
「う~ん、そうね。ところで君は何者? あいつの部下なの」
「はい、先輩にはいつもお世話になっています。仕事を教えてもらうばっかりで、えっと十七才です」
「私が今日いくつになるか知ってる?」
二十六歳ってところで、ほぼ間違いないだろう。僕が本気で強化した視覚を使えば年齢当てなど容易いに違いない。
彼女の着ている服の合成繊維の混合率でも答えられる自信はあった。でも、僕はとぼけたフリをした。
「見た感じ、僕と同じ位か少し上ですね」
「ぷっ! 全然はずれよ。あんたとは一回りも違うわよ、同世代だと思われて話されても困るのよね。ちょっと電話しておく」
女性は若く見られれば見られるほど喜ぶと聞いていたけど、少し若く言い過ぎたのかもしれない。かえって気を悪くしたみたいだ。
「す、すみません。本当は知っていたんです。ニ十六歳って。でも、そんなふうに見えないから、つい。いえ、そんなふうっていうのは悪い意味じゃなくて、その……」
僕は焦っていた。だから、携帯を取りだそうとする涼子さんの手を出来るだけ優しく遮って止めた。
「ま、待ってください。今日は先輩に電話もメールもしないで下さい、クビになってしまいます。まだ採用されてないけど」
「クビ……ですって?」
汚い手に触れられて、嫌な印象を持っただろうか。涼子さんという女性は不満そうな目つきでじっと僕を睨んだ。
「電話も出来ないほど忙しいとは思えないけど。大事な仕事でも任されているの?」
「そういう仕事です、これ以上ないくらい」
二人組の離れていく足音がする。ゆっくりと僕は後ろを振り向いた。その二人組の後ろ姿は、ただのサラリーマンのようだった。同じような身長に同じ濃紺のスーツを着ている。
目視した先を聴覚強化で追う。考えすぎだったか……ただのサラリーマンかもしれない。
だが――次の瞬間その二人は人間では絶対に聞き取れない周波数で話し始めた。
『くそっ……見失ったようだな。この辺に潜伏しているはずだが』
『一人でいるはずだ。カップルや未成年の入れない場所は無視していいだろ』
『まだ近くにいるだろう、探せ』
「……」
やはり連中の追っ手だった。かなり危ないところだった。僕は手のひらにべっとりと汗をかいていた。聴覚強化によって、自分の心臓の鼓動音がドラムのように叩かれている。
心音で見つかってしまうのではないか。シャツの胸元を掴んで息を吸い込み、ゆっくりと深呼吸した。
「……」
「どうかしたの? 顔色が悪いみたい」
ゆっくりと僕の顔から足元まで、なめまわすように見られた。薄汚れたみすぼらしい姿を。
「いえ、ちょっと用事を思い出しまして」震えた情けない声だった。
「もう、行きます。先輩によろしく――」
「は? 何言ってんのよ」
ふくみ笑いのまじったような冷たい表情。難破船から放り出された難民のような姿の僕は、場違いな所に居ることが恥ずかしくなった。
「待ちなさいよ。あいつから現金預かっているでしょ。幾ら持っているのよ」
「も、持っていません、落としました。では、これで失礼します」席を立とうとする僕の手を彼女は握った。
「それで急に顔色が悪くなったのね。心配しないでいいのよ、チクったりしないから。その靴、シャツも汚れてる。右手は怪我? それにあなた、ろくに食べてないんじゃないの」
「すいません……すいません……すみません……すみません」
僕は恐怖に震えてクビを振った。優しい声だった。誰も頼れず何処にも行けない、彼女はそんな僕の腕を掴んで放さなかった。
「ちょっと来なさい」




