洗脳手術
賢者さまと呼ばれる怪物は、僕を飲み込んだ……言葉の通り、僕は丸呑みされてヤツの腹の中に沈んだのだ。深い闇の中に。幻覚か、悪い夢を見せられていたのかもしれない。
ボコボコ……。
ボコボコ……。
だが僕は……運よくワインボトルの破片を握りしめていた。ザックリと手のひらが裂かれ、血が吹き出すと僕の意識は痛みで引き戻された。
「マット、いるなら返事をしろ。いったい、ここはどこなんだ」
『……意識を取り戻したか、野口。全く酷い有り様だ。記憶置換なんて単純なもんじゃない。億万の神経細胞の大部分は視神経と運動システムに関係している。はっきり言って手が回らない、お前の自我はお前で守ってくれ』
「……どういうことだ?」
『とにかく洗脳されないように、頑張ってくれ。頭の中でやりたいことを、やり続けるんだ。本当にやりたいことを』
ズキ、ズキと痛む出血がリズムを産んだのか、僕は洗脳される寸前に意識を取り戻すことが出来た。あるいは他の防衛システムが機能したのかもしれない。
「や、やりたいことって!?」
『何でも構わん、得意なことでも楽しみにしてることでも、サスティナブルなことなら何でもいいんだ。頼んだぞ』
「わ、分かっ……」
指す棚振る仕事っていうのは、在庫の管理か何かだろうか。やってやる。仕事をやりたいと言ったのは誰かに必要にされたいからだ。
《《何か》》が僕の身体と頭の中に入ってきて僕自身をひっ掻き回していた。得体のしれない、とにかく悪い情報の山が、頭にインストールされていくような感覚が押し寄せる。
ゴボ……ゴボ……。
ゴボ……ゴボ……。
横長のバーがどんどん右に侵攻してくるイメージだ。右枠いっぱいになったら「インストールが終了しました」と言われて、古いほうの僕の意識は終了してしまうだろう。
一度取り戻した意識を失わないよう、大量に入荷してくるダンボール箱を振り分けて、積んでいく作業が始まった。
人はふつう、脳に入った情報を認識するため自動的に検品するシステムが付いている。だが、この情報は入ってきても開けてはいけないやつだ。
迷惑メールと同じで、開けてしまうと即座にウイルスに感染して頭の中がぶっ壊れる。つまり危険物を振り分けて管理すればいいんだ。
間違えて開けないように、細心の注意をしながら、テンポよくコンテナに移し替えよう。そう、僕は灰色の作業着を着ていた。
ビーッ、ビーッ、ビーッ。
降りてくる荷物を別の場所に並べ続けるイメージ。そしてインストールのバーは、少しずつ左側の枠へと引き戻されていく感覚。
どういうわけか、就職したての仕事に就いていた。僕は夢を見ていたのだろうか。あるいは自分の作り出したイメージの世界なのか。
ビーッ、ビーッ、ビーッ。
一息ついて考えている暇は無かった。ニtトラックが配送センターにバックで乗り付けていた。ダンボール箱が次から次へと送り込まれてくる。
『バックします。バックします』
各々の箱は、十キロくらいだろうが、その物量は凄まじく大作業なのがわかる。夕暮れの荷受け場から外を覗いてみる。
「オーライ、オーライ!」
トラックは地平線の彼方まで何百台も並んでた。大量入荷、大量出荷、大量消費の在庫の山、終わりのない肉体労働が始まった。
「お疲れ様です、ここに降ろして……誰もいないのか。自分で荷降ろしもするのか」
単純な荷物の上げ下げだが、腕と足は鉛のように重く感じる。すぐに頭が朦朧としてきた。現実なのか、空想なのか分からなくなる。
「誰もいないのかな。社長や先輩はどこかで見ているだろうか?」
たった一人でもサボるような真似はせず、この仕事をやりとげてみせる。頼むから、見ていてください。一生懸命、働きたいんです。
作業はまるまる一日、二十四時間かかっても終わらなかった。腹がなっても、口が乾いても休まずに止まらずに働く。
将来の夢も、自分に何が出来るかも、僕は知らない。ただ一生懸命に働きたいって気持ちはうそじゃないはずだ。だから、諦めない。
荷受け場に時計が付いていなくて良かったと思う。時間を意識したら、とっくに心が折れてしまっていたに違いない。
暗く灰色の荷受け場で、独り延々と作業を続けるが、他の部署がどんな仕事をしているのかも全く分からない。社長や先輩は何をしているのだろうか。
僕は、まだまだ働けると信じていた。絶対に手は抜かないし、休まないし体調管理も万全で、具合が悪くなったりもしない。
たしか配送伝票があったはずだ。送り状だったかな。ダンボールの品番を覚えれば在庫管理がしやすくなる。
一覧表を作って家で覚えてこよう。何度もノートに書いていれば大抵のことは覚えられるんだ。社長が完璧に品番を覚えた僕をみたら、天才だって思うかもしれない。
『効率よく出来てるじゃないか』
「はい、すぐ覚えてしまうんですよ」
ふらついてなんかいませんよ。まだまだ頑張るから、クビだなんて言わないでください。僕を試しているんですね。
『休みたかったら、休んでいいよ。代わりは幾らでもいるからね。アルバイトの人たちは安くてよく働くから』
「いいえ、全然疲れてません。ここは僕がやっておきますから大丈夫ですよ」
見張りなんていりませんよ。同じ給料でよく働く、いい社員だと思いませんか。明日からも来ていいですよね。
『ミスはしてないだろうね。あとからクレームを貰うのはこっちなんでね』
「大丈夫です。覚えることはノートに箇条書きにしておきます。そういうのに使う手帳を父さんに貰ったんです。そうです、たしかスケジュール帳でした」
日付は古くなっていたけど、余白の沢山ある手帳が家にあったはずだ。あれを使ってちゃんと仕事を覚えよう。ミスはしないぞ。
給料を貰ったら、父さんに何か買って帰りたいです。あと残りのお金には手をつけないで、貯めてからプレゼントも買いたいです。
『誰に買うんだい? 何を買うんだい』
「実は、羽鳥さんていう隣のクラスの女の子なんですけど、正式にお礼がしたいんです」
『正式なお礼なら、デパートで菓子折りを買わないといけないな。高いやつだ』
「はい、高いやつです」
もう、いつまでこうしているか分からない。でも、諦めたり腐ったりしないっていうのは、むかしに母さんと約束したことだ。
百二十台位のトラックを空にしてまわした。もうベテランの領域だと感じていた。それにしても疲れた。目が霞んで、腕があがらない。
『慣れてきたら、他の仕事がしたいのか。まさか、くだらない仕事だと思ってるのか?』
「い、いえ……すみません。単純労働だからって、適当にやったりしませんよ」
簡単な仕事だからってバカにしたりしない。だってアインシュタインや、ビルゲイツからしたら、部長の仕事だって社長の仕事だって、単調な肉体労働かもしれない。
「いえっ、バカにしているんじゃないんです。僕は仕事に単純も、複雑もないと思うんです」
一生懸命やるのに簡単だろうが難しかろうが、それは関係ないんだ。だから肉体労働だって、単純作業だって、僕にとっては大事な、大切な仕事だってことだ。
『まあ、実際にくだらない仕事だがな』
「……も、もしくだらない仕事だというなら、僕にやらせてください。何かひとつでも僕に任せてみてください。ぜったい、一生懸命やりますから」
そしていつか、僕が必要だって思ってくれたら、そんな嬉しいことはない。頑張るのが僕の最大のウリになると思うんだ。
「僕も、会社の一員になれますよね? だって僕がいなかったら、作業が大変じゃないですか。他の人に任せるなんて言わないですよね」
他の人だったら諦めることを、僕は絶対にあきらめませんよ。会社には、毎朝一番早く来るつもりですから。
僕は運動神経がゼロでのろまだけど、その分早く始めれば大丈夫だと思います。もうすぐ終わりが見えてきました。
――身体がぶるっと震えた。
気を抜いたら意識が飛んでしまうような、不穏な感覚。僕は足を止めそうになったが、もぎ取るように空気を吸い取り、肺をいっぱいにして集中力を保ち、仕事に挑み続けた。
最後のパッケージを積み込む作業が終わります……やっと終わった。体感では三日か四日のぶっ通しの作業だった。




