賢者さま
僕は、新都心サンビアンテホテルのカジノ『イオス』に向かっていた。マットの話だと、奴はVIPルームにいるという。
高級カジノ付きホテルは、さながら神殿を思わせた。雄大な門をくぐると左右に英雄たちの彫像が立ち並び、大祭壇のようなロビーへと続いている。
クラシックなアームチェアとテーブル、ピカピカに磨き上げられた床の先にはフロントが構えており、大勢のお客やコンシェルジュで溢れていた。
フロントで「カジノの支配人と会いたい」と言った。制服を着た大男は、すぐに特別フロアに行くよう指示してくれた。
「左手をまっすぐ。エレベーターでどうぞ」
「……」
拒否されると思っていた。変装して潜入する計画や、ビルの地下から潜り込む計画は無駄になった。
取り合ってくれないと思っていた。凶悪なラスボスに会うためにドナルド○ックのTシャツを着て電車を乗り継ぎ、やってくる勇者なんて僕くらいだろう。
少しは警戒するべきだった。ラッキーくらいしか考えなかったのは大きな誤算だった。
真っ赤でフカフカの絨毯を歩くと円形のドームのような大部屋にでる。繁華街側の壁はすべてガラス張りで、夜景と酒が楽しめる空間。
(まるで……異世界。金持ちのくるところだ)
天井にはシャンデリアがいくつもぶら下がっている。矢印の向こうには、VIPルームの文字があった。
入り口付近に男が二人、一人の女と談笑していた。わざわざ見えるところでキスや、ボディタッチをしている。
その女の目玉は半分ほど飛び出して、口からはヨダレが散っていた。無意識に、その女から目を逸らしたが見られているような気分が付きまとう。
ぐったりと薬で眠らされたように、椅子にうなだれている半裸の女性も見えた。僕は頭がくらくらして顔が赤らむのを感じた。
どういう訳か警備している人間も警戒している人間も一人も居なかった。うまくいきすぎて怖くなった僕は脳内でマットに呼び掛けた。
(あの人たちは……)
『野口、通信リンクは常に開いておけよ。あいつらは……慌てて動く必要はない。あいつらが何者かは知っているはずだろ?』
僕の研ぎ澄まされた聴覚は、周囲の人間の動きと心拍音をとらえていた。出来るだけゆっくり動いて、周りの視線を集めないよう自然と振るまっていれば、それだけいい。
この人たちにとって僕はまったく興味の対象ではないのだから。更に奥に進むとカジノの雰囲気とは違い、真っ暗で静かな部屋へと辿り着く。
『その先にいるぞ。相手はひとり、妙な動きはするなよ。そのままゆっくり前だけを見て歩くんだ。よそ見をするな』
(あれが……賢者さまか)
そこは、急激に気温が下がっていて僕の奥歯は、カチカチと鳴った。あまりの寒さに吐く息は蒸気と化していた。
暗闇に目を凝らすと、裸にされた女が二人、ソファにうなだれていた。心拍数を数えてみると、何か不自然だ。
「……!」
ハッとする――分かる、この女の人たちは、僕と同じように改造された人間だ。僕の場合は辛うじて改造は失敗に終わったわけだが、自分と同じような改造人間は感覚で分かる。
この人たちは、命令があるまで、このまま眠っているのだろうか。見れば僕とたいして年齢もかわらない女性たちだ。
(な、なにも知らずに連れさられたのか。まだ子供じゃないか)
『……さあな』
天井で暗闇に揺れる幾つものシャンデリアがキイキイと鳴き声をたてている。違う、吊るされているのはシャンデリアなんかじゃない。血の気がひいていき、頭がくらくらする。
人間の死体だ。いや、生きたまま吊るされているかもしれないが、暗くて見えない。そのシルエットは大人じゃないようだ。
(くっ、お前らに善悪の意識はないのか!!)
『善悪っていうのは宗教上の概念だろ。俺にいえるのは異なる善が沢山あって、その歪みが争いを生んでるってことぐらいだな。だから、見るなと言ったろうが』
「……くっ!」
体は冷えきっていたが、握っていた手には汗が滲んでいた。僕は覚悟を決めた。ぼんやりと生きてきたツケが回ってきたと思った。
ワインボトルを逆さに持って映画のワンシーンのようにテーブルに打ち付けた。ボトルは景気よく大きな音をたてて、うまい具合にナイフのような武器になった。上手くいったので少しだけ勇気が湧いた。
僕は暗闇に立つ男に対してまっすぐと背筋を伸ばした。男は首をかしげて無言のまま、じっとしている。ゆっくりと話し始めた男の声はくぐもっていたが、頭に直接響くようだった。
「たまに、勘の良い人間がここにくる。改造するにはもってこいの素晴らしい素材だ」
僕は情けない人間だと思う。自分が以前とは違うことに過信があったのかもしれない。こいつに怒りと吐き気が沸き上がるのを止めることが出来ない。
「あんたが、賢者だな。松本を殺したのは僕だ。他の人は関係ない。この犯罪行為を黙っていて欲しいなら、手を退くんだ!」
「……?」
ここまできても単純な頭しか持ち合わせていない僕。いったい誰に黙っていてほしいのか聞いてみたいもんだ。
正義は勝つとか、正しい行為や努力は必ず報われるとか、そんな単純で幼稚な幻想が生み出した発言だと思う。それでも信じたいんだ。
小学生が言いつけてやるってのと同レベルの文句だ。でも、それが僕だ、僕なんだ。ずっと馬鹿にされたりイビられたりしたけど、曲げずに生きてきたのは僕が、僕だからだ。
馬鹿にするならしろ。笑いたければ笑うがいい。もし、僕の母さんや僕の友だちに手を出してみろ、絶対に許さない。
だが、冷たく無機質な目の前の男は肯定的に受け止めた。「いいだろう、じき死ぬが」
「……う、うう」
「!!」
うめき声がした。足元は暗闇に近かったが、それが山城祐介だとわかった。なんでこいつがここにいるんだ。疫病神なのか。
「私の部下が消えたのが」男は足元の山城を見ていた。「……そいつの仕業とは到底思えなかった」
服は粘膜のような液体におおわれ、錆びた匂いがした。山城は虫の息だった。
「ただの人間だったよ」
「お、お前は賢者の部下じゃなかったのか?」
「……う、うう」
「ふふっ。どうして君はここに来たと思う? 用があるのは私の方だとは思わなかったかな。ただボンヤリと生きていれば良かったのに、君は自らここに来た。何故かな? 自分が洗脳も改造もされていないと信じられるのかい」
「な、何を言っているんだ! 僕は僕だっ! あんたはまともな人間じゃない」
「あははは、そうとも。人間のはずがない、私は有肢菌類の王だ」
両手を広げながら歩みよる男の顔が、うっすらと見える。身体の大きさや、形は自由自在なのか、既に人の形ではなくなっている。
(やってやる、怖くなんかないぞ。このガラス瓶に注意を向けて、怯んだ隙に渾身の蹴りをいれてやる。全身全霊をかけた一撃を……)
『落ちつけ、野口。まだだ、まだはやい。チャンスを待つんだ』
「う、うわああああーっ!!」
賢者さまの正体は、人間を洗脳する特別な能力を持った怪物。そいつは馬鹿げた、めちゃくちゃな生き物だった。
一言でいえば、オオカミの頭を持ったゴリラか。エジプトのパピルスにでてくる犬の顔をした人間に似ている。こいつの身体は、体毛も眼も血のように真っ赤で、顔は猛獣そのものだった。
人食い獣……そう思った。オオカミが口を開くと、その牙はサメのように三列か四列あった。僕は恐怖に震えて一歩も動くことが出来なかった。
――いきなり何者かに後頭部を殴られた。
僕は両膝をついて倒れ、何人かの男達に囲まれていた。薄れていく意識の中で周りにいる男たちを見た。
そこに、人間の姿はなかった。そこにいたのは――異形の姿をした生物。人間の服を着た猿人、警察官の恰好をしたオオカミ男、ゴブリンや悪魔といった、いつか見た地獄絵図そのものの光景だった。




