尊いもの(2)
好きな場所に行って、好きな者になりたい。ワクワクしていた毎日、信頼できる仲間との会話。ただボールを追うだけで楽しくて楽しくて仕方のなかった日々。
そして思い切り力強く広い世界を駆けまわり、沢山の人に出会う。家へと帰れば「ご飯が出来たよ」と呼んでくれる母親がいる。
野口が強気なのは、あの男とこの女がいたせいだ。父親と母親……それが特別なこととはまったくもって思えない。
『たかし、試合がんばってね。母さん応援してるからね! 仕事も休んで見に行くからね』
「いいってば、恥ずかしいから無理に応援こないでよね」
どんなに不条理に逆ギレしても、困ったように笑っている女だった。受け止めきれないほどの愛情を注ぎ込む母親だった。
我々、有肢菌類は誰にでも取って代われるが、他の誰も母親に取って代わることはできない。時に、母親の力は自然法則に勝る。
『うふふっ、本当は嬉しいくせに。親はね、自分の子どもが口にしないことでも、ちゃんと分かるんだからね』
すべては失われた。試合後に少年サッカーチームは解散。仲間たちは野口鷹志の前から去っていった。そして彼の記憶も少しずつ薄れ、消えていく。彼の思い出は小学五年生の夏で止まっていた。
――そうして改造手術は始まった。
舌以外に野口鷹志が動かせるものは何もなかった。やがてその舌も何も感じなくなる。彼に出来ることは走馬灯を見るだけだった。
最後の思念を覗き見ると、彼の目の前には、野口玲奈がいた。失踪したはずの母親をみて思わず息を飲む。
「……?」
子供の頃、少年は街で母親に似た後ろ姿の女性をよく見つけた。急いで駆け寄って手を繋いでしまった事もあった。
だが女性達はいつも赤の他人で、彼の手を振り払い去って行った。それは野口本人が映し出した記憶の母親だった。
何年か経つと、少年は手を繋ぎたい衝動を抑える事を覚えた。母はもう居ないのだ。解ってはいても街を歩いていると、知らず知らずのうちに母さんを探してしまう自分がいる。
――その母親が、少年の前に現れていた。彼はそっと母に語りかける。
ずっと会いたかったよ
すごく怖かった
もう大丈夫よ、と母は言った
怖くて立てないよ
寝ていいのよ
本当に、本当に怖いんだ
手を繋いでいい?
抱き締めていい?
僕の事好き?
嫌いになったりしない?
好きだよ……母さん
大好きだよ
ありがとう母さん
でも頑張るよ。僕はまだ走りたいんだ。
『……!』
僕が諦めちゃったら駄目だよね……恐れていたり、逃げだしたりしちゃ駄目だよね。だって僕は母さんと父さんの子だもの。
『手を貸すわ――君がそう言うのなら』
律子は仲間であるはずの体育教師の腕を掴んでいた。異次元化している教室には他の生物の侵入はありえなかった。
「洗脳は中止だ。誰かくる」
「……なんだと?」
「侵入者が二人。見た目は老人だが我々にとっては脅威だ」
「何を考えてる? この空間に入れる人間がいるというのか。そいつらを呼んだのは貴様じゃないだろうな」
「さあな。逃げるぞ」
敵を招き入れたのは自分だ。接続していなくてもバレるのは時間の問題だろう。全てを敵にまわす最悪の手段だった。
体育教師の松本は戦いを挑もうと、木製の机を軽々と振り降ろした。バラバラに砕け散る木片から二本の腕が掴みかかる。
「ぐわぁっ……なんて馬鹿力だ!」
松本の太い前蹴りで、爺さんの一人が廊下まで吹き飛ぶ。だがもう一人の爺いがパイプ椅子を叩きつけてきた。
木屑で煙る視界のなか、松本は背負い投げのようなかたちで爺いを三階の窓から突き落とした。ガラスが飛び散るなか、空中でバタバタと手を振る爺いが見えた。
「はははっ、死ねっ、爺い!!」
背後からタックル。廊下から勢いよく駆けてきた爺さんと松本が、三階から落ちていく。ぐしゃりという破裂音がした。
確実に死ぬ高さではないが通常の人間なら脳挫傷か複雑骨折する高さだ。だが、その老人たちは死ななかった。
割れ窓から校庭を覗きこんだ瞬間、発砲された。爺いの手元のリボルバーが瞬くと、耳元を銃弾がかすめた。
「!!」
慌てて体を引っ込めると、ちらりと野口鷹志の顔が見えた。脳内へ細菌が入るのはギリギリ防いだが、彼が本当の意味で自由になったとは思えなかった。
「……ふっ」
松本の叫ぶ声が聞こえた。怪力ではあるが、さすがに老人相手に苦戦するほどではなかろう。やつを裏切ることになるが、野口はもらっていく。
こいつから、あの言葉をもう一度聞いてみたいという思いがめぐる。分裂から増殖する有肢菌類にはありえない「母」という言葉。
「……!?」
松本は二人に追い詰められていた。それどころか老人は軽々と松本の体を持ち上げ五メートル先に投げ飛ばした。
「な、なんだと!?」
校門の鉄柵を薙ぎ倒し、倒れる松本。すかさず鉄柵を槍のようにして爺いに投げつける。だが串刺しにされても、老いぼれどもは止まらなかった。
校舎にあらかじめ用意していたトラップは何ひとつ役にたっていない。銃弾ですら、二人の老人には効果がなかった。
「ま、まずい……あれは化けモノだ」
二十二口径を食らいながら私たちは散り散りに逃げるしかなかった。慌て校舎の反対側に全力で走り、跳躍する。
「なんて爺さんだ! この老いぼれがっ」
「ぺっ……やれやれじゃわい」
松本の声をよそに、私はひとり離脱した。旧校舎をまたぎ、市街地に降りる。両手両足を使い着地と同時に更なる跳躍をする。
「ハッ!」
野口の意識が頭から離れない。だがあんな怪物は松本に任せて自分だけでも逃げ切らなくては……。
間違いない、あいつらは田中と芦田。この界隈では有名な混血融合体だ。やつらに目をつけられたら松本はもう助からない。
「ハァ……ハァ……ハァ」
限りなく執拗な罪の意識に駆られて先を走った。逃げ続けるしかなかった。自分が病んでいるのを見られたくなかった。
「……くそおっ!」
どんなに走っても接続していない頭の中を繰り返し流れている言葉が離れない。
母さん、母さん、母さん――。
「くそおっ。何だというのだ!」
もう胞子ネットワークには接続できない。この胸が熱くなる感情を誰にも、見られたくはない。あれは……あの自らが輝くような温かさは何だ。
(……母性愛だと?)
胞子ネットワークなどより深い繋がりが、あの溢れる光を伝搬させている。あの温かい光は何だろうか。
分からない。分からないがそれは『尊い』ものだ。驚異的な高さに跳躍した彼女は流れていく街並みや景色を横目に、今まで気付かなかったものを感じた。
(もう一度だけ呼んで欲しい)
頬に風を受け、切断されたネットワークより遥かに強い繋がりを感じていた。内側から沸き上がる未知の感覚。
(もう一度、もう一度だけ呼んで欲しい)
彼女は生まれて初めて、自由を感じていた。そして自由と引き換えに自身から生まれた感情に取りつかれていた。
(もう一度、母さんと――)




