尊いもの
有肢菌類とは、人類よりはるか昔から地球に存在した知的生命体である。何故、その存在は認知されずに現代まできたのだろうか。有肢菌類は影で人類を利用してきたからだ――都合のいいように。
彼らは、巨大なネットワークを持っている。スマホやパソコンのような電子機器を使わない進化の過程で手に入れた自然界のインターネット。つまり胞子ネットワークである。
テレパシーと呼んでもいい。個体同士で《《相互接続》》出来てしまうから、一人の情報はたちまち全員に流れてしまうという訳だ。
人類が電子ネットワークを開発したのは模倣に過ぎない。一部の人間は彼らの記憶にしばし接触し、これをアカシックレコードや神のお告げとして利用し、繁殖繁栄してきたのである。
「下等生物が……」
腕組みした女教師、仙田律子は口に出していた。我が子のためや愛する人のための自己犠牲。そのような感情に価値はない。
カマキリを例にしてもメスはオスを食べることで栄養を確保し、より丈夫な卵を産もうと行動する。いわば本能なのだ。
生き残る確率の高い遺伝子を持った生物が次の世代に生き残っていく。あらゆる生物個体は『利己的遺伝子』の乗り物である。
人間は種のためでも自己のためでもなく、遺伝子を次の世代に引き継ぐために生きている。全てはそう出来ている。
「僕は平気です……だから言わないでください。きっと心配するから」
「……ギリ」
タイトスカートの女教師は奥歯を噛んだ。相互接続の遮断を選んだのはそれからだった。このできの悪い生徒は悪質ないじめにあっていたが、親には言うなと教師を諌めた。
「構わないけど裸足で帰宅したり、うずくまって通学路で座るのだけは止めてもらえる?」
「はい、気をつけます。あの、ありがとうございます。父さんに黙っていてくれて」
「……帰ってよろしい」
たかが十七歳の子供。その考えが理解出来ない自分が歯痒かった。生徒指導室から出るときに接続を断ったのは、そんな自分を見透かされたくなかったからかもしれない。
「野口くん、ちょっと待ちなさい」
解らなければ調べればいい。彼女は制服を着た少年の頭部に僅かに触れた。不可視の胞子線毛により彼と直接繋がるために。
律子は知っていた。菌類学者だった彼の母親は《《我々》》に近づき過ぎ、消されたのだ。だから残された父親と息子も腑抜けに改造されている。
常人ならそうとう不自由な肉体。精神は蝕まれ自殺や犯罪に手を染めるレベル。
その野口鷹志も今日、この教室で完全に洗脳される。我々の傀儡として生まれ変わるための改造手術が施されるのだ。
改造間際に彼の記憶にアクセスしてみるか。それはほんの些細な好奇心だった。
※
八年前。
心地よい風をうけサッカーボールを追って走っている。周りには笑い声と歓声が聞こえる。少年サッカーチームの試合のようだ。
『頑張れ、頑張れ、頑張れ。負けるな、頑張れ、頑張れ、走れ、走れ、たかし!!』
叫んでいるのは父親だった。母親やクラスメイトも沢山見ている。地区予選の大事な試合のようだった。
信頼できる仲間。夕焼けの色、靴の踵を引きずって帰った夏の思い出。道草をくいながら、夢中で話している十一人の少年たち。
「凄かったね、カネちゃんのシュート」
『おう、あのときは野口のパスからイトりんがチャンス作ったよな』
「凄かった、凄かった!! 中島のドリブルも、前田のスルーパスも、アンディからのロングパス、それをとめた高橋のトラップも……スッゲーって思った」
『ふっ、俺はフィールドの外でも凄いぜ。駄菓子屋の婆さんが、みんなに菓子くれたぜ』
「「やったー!」」
『十日後は地区予選の決勝かぁ。気を抜くなよ。でも一年目の俺たちがこんなにやるとは、他のやつら思ってなかっただろうな』
「このメンバーなら絶対いけるよ!」
僕の仲間たちなら絶対に勝てるよ。だって本当に凄い人たちなんだ。みんな一生懸命練習してるし、僕も頑張らなきゃ。
※
その数時間後に野口鷹志と父親に、神経溶解ウイルスが投与される。肉体と精神は分断され、文字通り腑抜けになったはずだった。
関係者と地域一帯を、名家の従属種により洗脳する。これにより野口は孤立。通常なら気力が萎えて身動きすらとれなくなる状態。
二日後、母親である野口玲奈が失踪。おおかた情報をつかんだ同族が口封じに始末したのだろうが、どういう訳か息子の監視命令だけは撤回されなかった。
さて、十日間後の記憶を再生してみようか。酷いことになっているはずだ。記憶らしい記憶が残っていればの話だが。
※
太陽はギラギラしてるのに風が強くて試合には向かない日だった。グラウンドでチームメイトたちが僕の弁当を汚いと言って取り上げた。
『きったな……』
試合は散々な結果だった。足を引っ張ってしまった僕にとっては最悪の一日だった。あの日に母さんが失踪してから、父さんはずっと家にいて家事をやるようになっていた。
会社には行かなくなった。ずっとトップの成績だったから今はゆっくりして会社に来なくてもいいと言われたそうだ。
朝食で美味しそうなパンを並べるのは僕の役目だ。父さんは瓶詰めのコーヒーを沢山ならべるとコレクションみたいで凄いだろと自慢気だった。
いつでも喫茶店が開けるねと言うと父さんはにっこり笑った。でもインスタントだからお店でだすのは駄目だねと言った。
『ぶははは。何をどうしたら茶色い汁弁当が出きるんだよ。変な匂いもするぞ』
肉体的にも精神的にも僕と父さんがおかしいのは知っていた。だから精一杯に明るく、前向きに生きるようにする。
母さんが帰ってきて、僕らがそんな状態だったら笑われてしまうから。コーヒーがボトルから漏れ出していた。
『みんな、見てみろよ。野口がうんこ弁当たべるらしいぞ』
『食わないほうがいいぞ、野口。お前の為に言ってるんだ。食うなら今日からお前のあだ名は野グソだぞ』
どうして皆が笑ってるのか分からなかった。だから僕は皆にあわせて笑ってみせた。無理にでも笑うことは大事だと父さんも言っていた。
『おい、舐めてんじゃねえぞ。お前いま笑ったろ!!』
胸ぐらを掴まれて僕はたじろいだ。急に怒りだしたチームメイトに血の気が引いて目の前が真っ暗になった。喉はカラカラに乾いて貼り付き何も話せなかった。
『うんこはさ、便所に流さないとな』
フォワードの三人が僕のお弁当を持ってトイレに向かった。僕はそれだけは止めてくださいと叫んだ。でも、駄目だった。
『ぶははは。アハハハハハ』
便座に不格好に刻まれたニンジンが残っていた。流れていくお弁当を見て、僕は涙が止まらなかった。
――ずっとずっと涙が溢れていた。
震える指で、真っ暗な時間から父さんは僕のお弁当を作り始めた。パンを持っていくから大丈夫だよと言っても聞かなかった。
心配するな、ちゃんと応援にも行くから、決勝戦頑張るんだぞと言った。缶詰を開けるのに苦労した指先に、血がついていた。
ごめんなさい、父さん。お弁当食べられなかったんだ。ごめんなさい、ごめんなさい。父さんが一生懸命作ってくれたお弁当。
その夜、父さんは僕の大好物だったコーンスープとステーキを食べきれないほど買ってきた。僕のせいなのに、僕を慰めようとしたんだ。父さんは苦しそうに言った。
『以前は……好きなだけ買い物したら、すごく自由になった気がしたよ。でも……ごめんよ、鷹志。もう、父さんは自由っていうのが何か解らないんだ。何をしても、もう……自由と感じる事はないんだ』
震える指と震える声。缶詰は開けられなかったので、僕らは頭にきて屋根裏部屋に山ほどある缶詰をしまった。
父さんが焼いてくれたステーキは生焼けで美味しくなかったけど、僕らは笑った。順番に肉に豪快に食らいついては交互にゲラゲラと笑いあった。
父さんは仕事をクビになったことや、激しいめまいがすることを僕に話した。今になって思えば父さんも戦っていたんだ。
『灰色になってしまったんだ。人は長い人生で年をとり、少しずつ……本当に少しずつ感動や喜びを失っていくんだ』
父さんは寂しそうだった。テーブルに置かれた手は僅かに震えていた。
『どうでもよくなる、何もかも。そして全てが灰色になってしまったら……もう、生きているとは言えないんだよ。父さんの世界が全て灰色になってしまったら……もう、お前に何もしてやれなくなる。それが堪らないんだ』
「大丈夫だよ!」僕は立ち上がって言った。「まかせて。もっと真面目にやるから、もっと勉強もする。もっと体力もつけるし一生懸命がんばるから」
『……ああ、そうだな』
重い足で走る僕に父さんが叫んでいた。すがるように握った手をぶんぶん振って僕を大声で応援してくれた。
『頑張れ、頑張れ、頑張れ。負けるな、頑張れ、頑張れ、走れ、走れ、たかし!!』
父さんは、母さんが戻る事を信じていた。僕は誰も恨まなくて本当に良かったと思った。何ひとつ上手くいかなくても自分は愛されているのだから。
ただ自由に走りたい。僕が下手くそで、周りのみんなが馬鹿にしたって構うもんか。辛くったって、寂しくたって構うもんか。




