放たれた刺客
『野口。分かってると思うが、しばらくは出歩かないほうがいい』
頭のなかで声が響いた。僕にだけ聞こえる聞き慣れたやつの声だった。
(いや、怪我は本当に治ってるから。って呼ばなきゃ出てこないんじゃなかったっけ?)
『固いこと言うな。俺とセンリツが姿を消して、嗅ぎ回っている犬どもがいる。余計な争いは避けたいだろ。鼻のきく連中だから教えてやってるだけだ』
(えっ!? それって、彼女やカネちゃんたちも狙われるのか)
『さあな、あの女は抜け目がないし、教会にいるなら安全な区域だ。そこにいれば問題はないだろうが』
「誰も巻き込むわけにはいかないよ!」
『あ、ああ。そうだな』
(……)
その考えがヒントになった。運動神経ゼロの時代、生徒たちは僕を無視するように洗脳されていたのだと知った。
ひとりだけ、不可解なやつがいる。山城祐介、彼は少年サッカー時代の親友だった。当時の僕は、キャプテンのあいつに救いを求めた。
母さんが失踪して、父さんにも頼れないと感じた僕は、何度も山城に相談しようと試みたんだ。だが真っ先に殴られて、イビられた。
「よう兄弟」
外国かぶれのヘラヘラした嫌みな態度。そう言って僕に絡み、頭をこずいたり、足をかけたりして笑っていた。もう親友でも仲間でもなかった。
あいつのせいで、中学時代は最悪の仕打ちを受けた。日課のようにいじられて、クラスの笑い者になった。
「よう兄弟、親睦を深めてやろうってのに、その面はなんだよ」
馴れ馴れしい仕草で腕をまわして、腹部や尻にパンチを浴びせる。僕が挑戦的な目を向ければ、すぐに跪かせた。
だが高校に入ると、誰からも無視されるようになった。エスカレーター式の教銘高校に進学し、今まで絡んでいた生徒たちなのに。
不可解なのは、虐めの中心人物だった山城を操っていた人物。それは松本でも仙田律子でもないという事実だった。
「よう兄弟。賢者さまって知ってるか? あの人に従っとけば、何でも好き放題にできるんだぜ。女の子にもモテるしな」
改造したモデルガンを持ち歩いたり、何人かの不良を従えて遊びまわっているようだった。もとから金持ちのボンボンだったけど。
「ぎゃはははは。弱いな、お前! ほらほら、逃げないと頭を撃ち抜かれるぜ」
まるであいつの意思で、全校生徒の行動が決まっていたかのような流れ。山城を操っていた奴、そいつは誰なのか、そいつの目的は一体何なのか。
山城は自分で間違いなく言ってた。洗脳された人間というのは馬鹿なのかもしれない。操っていたのは賢者さま……目的は賢者さまに逆らう者を探しだし、そいつのもとへ連れていくこと。
長い時間、長いスパンで考えないと見逃してしまうような流れが、奴を中心に渦巻いている。これは不安をかきたてる発想だった。
高校に入学して松本と仙田律子が監視役を勤める前、山城祐介が僕の監視役だったという考えだ。長すぎる改造手術の期間に、担当者が入れ替わったとしたら、全てのつじつまがあう。
まったく。テレビのヒーローが改造されるのは、おおかた第一話のはじめの十分か十五分だっていうのに、僕は何なんだ。
八年もかけて改造されている。それも松本に言わせれば、まだ完成していないという。こんな馬鹿な話があっていいのだろうか。
午後三時。着替えを済まし、スニーカーを履いた僕は新都心の中心地にあるサンビアンテ・ホテルに向かっていた。
電車は二回乗り換えて、移動には一時間かかっていた。制服を着てくればよかったかもしれない。
アヒルのキャラクターシャツにチノパン姿。自分が酷くダサくてみすぼらしく思えた。田舎者まるだしに見えるし、そもそも高級なホテルに入れるのか分からない服装だ。
おしゃれな洋服が欲しい。せめて父さんのシャツを着てくれば良かった。道すがら、僕の中の悪魔と会話をした。有肢菌類の元体育教師、松本と。
(……マット。聞いているか?)
『ほう、もう松本とは呼ばないのか?』
呼ばない。教師時代のずんぐりした体躯とあの悪い目付きは思い出したくもない。それに僕はこいつに命令される立場じゃない。今度はこっちが利用する番だ。
(ああ、これからは短くマットって呼ぶよ。いいかい、賢者さまに用事があるんだ。ちゃんと案内してくれよ)
『……冷静になって考え直したらどうだ。自分のいってることがいかに馬鹿げているか分かるんじゃないか。あれほど自分から殺ろうなんて思うなと言われただろう、爺さん二人に。それとエンパスの女にも』
(これは、僕の問題なんだ。母さんが失踪したのも、お前が僕に目をつけたのも遡れば賢者さまが始まりなんだよ。って、賢者さまっていうのは何者なんだ。マットの上司なのか?)
『賢者さま、後藤銀次郎、通称シルバーバック。名家のひとりで有肢菌類でも最強の種族。戦うもなにも、レベルが違いすぎて相手にもされないだろうな』
(でも……止めないのには理由があるんだろ? 素直に場所も案内してくれてるし)
『するどいねぇ。名家のDNAが手に入ったら貴様の完成が近づくのは間違いないからな。すぐには殺されないだろう、俺の指示にしたがえばだが』
(どういうことだ?)
『捕まって、改造手術をされるってことだ。洗脳されるといったほうがいいかもしれん』
(ま、またかよっ!)
『ふっ、まあ俺がいれば洗脳はない。逃げきれる保証はないが、うまくすりゃあ、名家の持っている進化の特殊素材が手にはいるわけだ』
「……あいかわらず勝手だな。犬どもを放ったのがそいつなら、止めさせる。その賢者さまが話の分かる人ならいいけど」
『は? おめでたいにも程があるな。人じゃあ、ないんだよ。人類は一万年に渡って連中と悠久の戦いをしてきたんだぞ。その間、まともに交渉が成立した例は一度もない』
(は、話せば分かるかもしれないじゃないか)
『そりゃ〈大量絶滅〉後に生き残った人類が半世紀かけて飛躍的に対話能力を発展させた場合には可能だろうが、今のお前には無理だろうな』
(……そ、そんなに待てないよ)
『ふう。まあ、貴様の意思の固さは俺様が一番しってる。いいじゃないか、単独行動。お前だけなら逃げきれる可能性は充分あるさ』
――お前だけならな
※
「ハア……ハア……ハア……ハア……」
伊藤はバスのドアが開くと歩道にすべり出た。どう逃げるかわからないようすで、ただ立っていた。だが信号が赤から青にかわると、後ろを振り返らずに横断歩道に向かって走った。
私は他の通行人たちと一緒にあとから、ゆっくりと歩道を渡った。黒い影のような犬が引き綱を離したような勢いで、通りすぎていく。
「な、なんだ?」
「きゃ、なにか通ったわ」
信号がまた赤にかわると、私はすぐに向きを変え林道を左手に走り出した。街道を外れ、人気のない森林公園の林道を駆け抜ける。あの疾走する黒い犬はジャーマンシェパードに似た大型犬だった。
「かんべんしてくれっ」伊藤は並走してくる黒犬をみて息を乱していた。「やっぱり、お目当ては俺だっていうのか!」
せり上がった筋肉。からだの作りを変化させ、追跡に特化させているのだろう。ジャーマンシェパードは、教会からずっと走り続けているにも関わらず、今にも伊藤に襲いかかろうとしていた。
半円に広がる林道を見渡す高台へと向かう。木々をすり抜け、走るのは容易ではないが、伊藤は身を低く構え走っていく。
ジグザグに動き、木々に身をかくし、黒犬の視線から逃れるように。サッカーで身に付けたフェイントの動きだった。
伊藤が囮になって、私が待ち伏せをする作戦。知能の低い雑魚なら、不意打ちに出来る。跡形もなく消しとばしてやる。
(私には気づいていない。ここから、仕留める)
たしか、松本と対峙したときも伊藤は不可解な動きをみせた。スタンガンをパスしたり、野口の横に突然あらわれたり、視線を外すことにだけ特化した能力があるようだ。
私と同じ情動感応者の才能。有肢菌類と戦える能力者、感染者の金子や高橋より、即戦力になるとは思わなかった。
(才能あるよ……ってことかしら)
ちゃんと育てれば三級能力者位にはなれるかもしれない。高台にある時計は二時半を指していた。時は刻一刻と流れている。
(もう少し。あと二メートル)
私は両手をかざし、観念動力を発動する瞬間、目を疑った。時計の針は止まったまま動いていなかった。




