過去編4(普通にはなれない)
——どこにいても、俺は”普通”にはなれない。
その現実を、涼介は小学校の終わり頃には受け入れていた。
学校では、周囲の人間関係が壊れていく。
家では、家族の形が変わっていく。
どう頑張っても、どこにも「普通の居場所」がなかった。
そんなある日、母親が言った。
「このまま普通の学校に行かせても、涼介を守れない。」
「……は?」
思わず涼介が聞き返すと、母は真剣な表情で続けた。
「涼介には、“特別な場所”が必要なの。」
「特別な場所?」
「普通の学校にいても、涼介は苦しいだけでしょう? だったら、もっと”涼介らしく”いられる場所に行くべきよ。」
母の目は、どこか”確信”に満ちていた。
そして、その直後——まるでそれを裏付けるように、芸能事務所からスカウトの話が舞い込んだ。
「この子は芸能界に行くべき人間なんだわ。」
母は、それを”運命”のように受け止めた。
涼介が何か言う前に、母はもう決めていたのだ。
「あなたもそう思うでしょう?」
「……別に。」
ーーどこにいたって、俺も俺の周りも変わらない。それなら、“特別な場所”に行くというのも、悪くないのかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと考えた。
だが、父は違った。
「これ以上、あの子をおかしくする気か!!」
母の言葉を聞いた父は、テーブルを強く叩いて叫んだ。
「芸能界だと? そんな場所に行ったら、余計にーー」
「だったら、どうすればいいの!? 普通の学校に行かせたって、涼介は苦しむだけよ!!」
「だからって、そんな——」
「あなたは何もわかってない!!」
「何もわかってないのはお前の方だろ!!」
夫婦の言い争いは、今までで一番激しいものだった。
「……もういいよ。」
その声が、二人の口論を止めた。
涼介が、静かに言ったのだ。
「俺、行くよ。芸能界。」
「涼介……」
「どこにいたって、何も変わらないなら——いっそ、人前に出る方がマシかもしれない。」
それは、夢でも希望でもなかった。
ただの、諦めの選択だった。
“普通”を捨てることでしか、自分は生きられないのだと。
その夜、涼介はベッドに寝転がりながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
——俺は、普通にはなれない。
もう、とっくに分かっていたことだった。
友達はできても、壊れる。
家族も、変わってしまう。
どこに行っても、俺がいるだけで人間関係が狂っていく。
ーーなら、“普通”を目指すのは、もうやめよう。
その日から、涼介は”普通の人生”を諦めた。
“特別な場所”で生きることを選んだのではない。
“普通の居場所”がなかっただけ。
諦めの気持ちを抱きながら、涼介は芸能界へと足を踏み入れることになった。
☆
その日の夜、家にいると呼び鈴が鳴ったので、涼介は玄関のドアを開けた。
健斗だった。
ランドセルを背負ったまま、玄関前に突っ立っている。
「お前、何してんの?」
涼介が怪訝そうに尋ねると、健斗はじっとこちらを見据えたまま、ぽつりと聞いた。
「お前、芸能界に行くのか?」
涼介は驚いた顔をした。
「……なんで知ってる?」
「クラスのやつらが言ってた。涼介が芸能事務所に入るって。」
ああ、と涼介は気だるげに頷く。
「まあね。」
それだけ答えると、健斗は少し眉をひそめた。
「……なんで?」
「なんでって……親に言われたから。俺がここにいても、どうせ普通には生きられないし。」
涼介は自嘲気味に笑った。
「……そっか。」
健斗はそれ以上、何も聞かなかった。
それでも、何か言いたそうな顔をしていた。
だけど、涼介が何も言わないから、結局、健斗も黙ったままだった。
玄関先に立つ二人の間に、冷たい風が吹き抜けていった。
しばらく、二人は並んで歩いた。
コンビニの前を通り過ぎ、いつもの公園に入る。
夜の公園は静かで、どこか落ち着く空気があった。
ブランコに腰を下ろした涼介が、ふと口を開いた。
「なあ、健斗。」
「ん?」
「俺、芸能界に行ったら……変わるかな。」
「芸能界なんか俺は分からないけど、変わるんじゃね?」
「……だよな。」
「でも、変わったとしても、涼介は涼介だろ。」
「……そうかな。」
「そうだよ。」
健斗は何の迷いもなく、あっさりと言い切った。
涼介はしばらく黙っていたが、小さく笑った。
「……健斗は、ほんと変わらないよな。」
「俺が変わったら、お前つまんねーだろ。」
「……かもな。」
気づけば、夜の空に星が瞬いていた。
冷たい風が吹いて、涼介は小さく息を吐いた。
「なあ、健斗。」
「ん?」
「俺さ、これから先、どうなるんだろうな。」
ふと零した言葉に、健斗はポケットに突っ込んでいた手を抜き、後頭部を掻きながら言った。
「そんなの、誰にも分かんねーよ。でもさーー」
健斗はふっと夜空を見上げる。
「生きてりゃ、何か良いことあるさ。」
それは、いつも健斗が言う言葉だった。
涼介は目を伏せ、ふっと笑った。
「お前って、ほんと楽観的だよな。」
「お前が悲観的すぎんだよ。」
健斗は飄々と言うと、ブランコから立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ帰るか。」
涼介も立ち上がり、二人は並んで歩いた。
家の前まで来たところで、涼介は足を止めた。
「……じゃあな。」
「ああ。」
健斗は振り向き、少しだけ笑った。
「行ってこいよ。」
「……うん。」
涼介はその言葉を噛みしめるように頷いた。
たったそれだけのやりとりだったが、何よりも力強く感じた。
翌日、涼介は芸能界へと足を踏み入れた。
そして、その世界がどれほど狂った場所なのかを知ることになる。
だが———
「生きてりゃ何か良いことあるさ」
どれだけ周囲が変わろうとも、涼介の心の片隅には、あの夜の健斗の言葉が残り続けていた。