過去編2(転校生)
涼介の年齢が上がるにつれ、その違和感は更に加速していった。
「ねえ涼介くん、この消しゴム、もらっていい?」
ある日、クラスの女子がニコニコしながら言った。
彼女の手には、涼介の筆箱から抜き取られた消しゴムが握られていた。
「え……?」
「だって、涼介くんが使ってたやつだもん。欲しくなっちゃって。」
悪びれた様子はない。
むしろ、少しも悪いことをしているという自覚すらないようだった。
「それ、返してよ。」
涼介がそう言うと、彼女は少し拗ねた顔をしたが、素直に返してくれた。
けれど、問題はそこではなかった。
「ねえ、涼介くんのハンカチもかわいいね。」
「体育のときに使ってたタオル、いい匂いだったよ!」
気づけば、何人かの女子たちが、涼介の持ち物に異常な興味を示すようになっていた。
いつの間にか、教科書の隅に書き込んでいたメモがなくなっていることがある。
ぞくり、とした。
(やっぱり、変だ……)
胸の奥がざわつく。
「涼介くんのもの、ちょっとくらい持っててもいいでしょ?」
「そんな怖い顔しないでよ、だって、好きなんだもん。」
——“怖い”。
それは、涼介が周りの人間に対して、生まれて初めて感じた感情だった。
☆
「篠宮、お前……調子に乗るなよ。」
突然、怒鳴られた。
新しく担任となった40代男性教師の瀬川。
厳しいが公平な教師として知られていた。
その瀬川が、ことあるごとに涼介を目の敵にするようになった。
「授業態度が気に入らない。」
「成績が良くても、そんなものは自慢にはならない。」
些細なことで怒られ、他の生徒たちとは違う扱いをされる。
なぜか、明らかに嫌悪の目を向けられていた。
(俺、何かした……?)
当然、何もしていない。
「先生、そんなに怒らなくても……」
「先生、篠宮くんは悪くないと思います!」
すると、今度は女子生徒たちが涼介を庇うようになった。
「篠宮くんばっかり責めるなんて、ひどいです!」
「先生、嫉妬してるんですか?」
男子生徒 vs 女子生徒。
教師 vs 教師。
涼介を中心に、学校のバランスが少しずつ、少しずつ歪んでいった。
もはや、逃げ場はなかった。
「俺がいるだけで、みんなが変になっていく——」
涼介は、10歳にして確信した。
ーこの力は、間違いなく”異常”だ。
ーそして、“逃げられない呪い”のようなものなのだ。
しかし、それが分かっても、涼介は学校へ行かなければならなかった。
☆
涼介が小学5年生の春、転校生がやってきた。
「瀬戸健斗です。よろしく!」
そう言って前に立ったのは、日に焼けた肌に短く刈り込まれた黒髪の少年だった。
どこか田舎っぽさを感じさせる素朴な雰囲気で、涼介とは正反対のタイプだったが、彼の表情にはどこか親しみやすさがあった。
その日から健斗はクラスの人気者になった。
明るくて、誰とでもすぐに打ち解ける性格。
運動神経も抜群で、昼休みにはいつも校庭でサッカーをしていた。
涼介とは、最初はそれほど親しいわけではなかった。
しかし、ある日の放課後、二人は偶然にも同じ帰り道を歩くことになった。
「お前、あんま友達と遊ばねえのな。」
健斗が気さくに声をかける。
涼介は少し戸惑いながらも、「別に、そんな気分じゃないだけ」と返した。
「ふーん。でも、お前何かボンボンっぽいよな。なんか、家とかピカピカしてそう。」
「……普通だよ。」
「そうか? ま、いいけどな。」
健斗はそれ以上深く詮索せず、適当な話題に切り替えた。
涼介は少し驚いた。
父は大手金融機関の課長で、母は家名が良い所出の地方の専業主婦。
周りの子は、彼の家のことを聞くと「頭良さそう」「お金持ってそう」と決まりきった反応をするものだった。
けれど健斗は、まるでどうでもいいことのように流した。
ーーそれが、妙に心地よかった。
そんなある日、涼介はまた学校で健斗と帰り道が一緒になった。
「お前んち、なんかあんのか?」
突然の問いかけに、涼介は一瞬言葉を失った。
「……なんで?」
「いや、最近やけに元気ねえし。家に帰る時も暗い顔してるし。」
軽く言う健斗の声に、涼介は少し苛立ちを覚えた。
「何? 俺の家が変だって言いたいの?」
「いや、そうじゃねえよ。」
健斗は困ったように笑った。
「俺んちはオヤジ一人だし、母ちゃんはいねえ。でも、オヤジは厳しいけど、それなりに優しいし、まあ楽しくやってる。」
「……。」
「でも、お前は違うだろ? 母ちゃんも父ちゃんもいるのに、なんか寂しそうじゃん。」
その言葉に、涼介はギュッと唇を噛んだ。
「俺のことなんて、何も知らないくせに。」
健斗は何気なく言った。
「知らねえよ。でも、お前、母ちゃんいるんだろ? だったら、まだマシじゃねえか。」
涼介は目を見開いた。
「母ちゃんがいるだけ、良い?」
「そうだろ。俺には母ちゃんの記憶なんてほとんどねえしな。」
健斗はひどくあっさりと言った。
ーーまるで、自分が母親を亡くしていることなんて、どうでもいいことのように。
「……悲しくなかったの?」
「そりゃあ、悲しかったさ。でも、悲しんでても何も変わんねえだろ? だったら、前向くしかないじゃん?」
健斗は笑った。
「生きてりゃ、何か良いことあるさ。」
その言葉は、妙に力強かった。
涼介は何も言えず、ただ俯いた。
自分は、家族がそろっているのに、健斗よりずっと満たされていない。
それが、何だかひどく悔しかった。