工場編2(瀬戸健斗)
翌日から、工場内の空気はさらに重たくなっていった。
女性従業員たちの間では、麻衣への敵意が一層強まり、同時に透への独占欲や執着が表面化しつつあった。
誰も公然と透にアプローチすることはなかったが、彼を巡る緊張感はもはや隠しようがなかった。
ある日、麻衣は作業中に足を滑らせ、大きな音を立てて倒れてしまった。
周囲が駆け寄る中、一歩早く透が彼女を助け起こした。
「大丈夫か?」
透の手に支えられ、麻衣は小さく頷いたが、視線は彼に集中したままだった。
「なんで透さんがいつもあの子ばかり助けるの?」
女性従業員の一人が、小声ながらもはっきりとそう呟いた。
その言葉がきっかけとなり、その場にいた人々の間でささやき声が広がり始める。
「特別扱いしてるんじゃない?」
「やっぱり麻衣が狙ってるんだ。」
麻衣はその場に居づらくなり、そそくさと作業場を後にした。
透は何も言わなかったが、周囲の冷たい視線を受け止めながら、内心では自分の存在がこの場を歪ませていることに気づいていた。
☆
瀬戸健斗は高校卒業後、地元に残り、工場経営を手伝う形で家業を継いでいた。
現場の責任者として従業員をまとめる姿は堂々としており、彼のリーダーシップを頼りにする者も多かった。
だが、ふとした瞬間に、健斗は昔のことを思い出すことがあった。
ーーアイツ、今頃どうしてるんだろうな。
取引先との打ち合わせを終えたその日。
健斗は、取引先の事務所からそれ程離れてない、ふと立ち寄った店でコーヒーを注文した。
落ち着いた雰囲気の店内に、豆の香ばしい匂いが漂う。
カウンター席に腰を下ろし、コーヒーが運ばれてくるのを待っていたが、ふと背後のテーブルから聞こえてくる会話に耳が留まった。
「……最近、透くんの周りヤバいよね?」
「うーん……正直、あんまり大丈夫な感じじゃないよね。」
「工場の男の人たち、寄ってたかって透くんへの当たりが酷すぎるよ。」
「でも、本人は気にしてないって言ってるし……。」
「気にしてないわけないじゃん! あれ完全に嫌がらせだよ!」
その名前を聞いた瞬間、健斗は眉をひそめた。
“透”——?
どこか引っかかる名前だった。
「……でも、透くん、あんまり言い返したりしないんだよね。なんていうか、達観してるっていうか、諦めてるっていうか……。」
「確かに。ちょっと不思議な人だよね。」
「それにさ……麻衣も最近、ちょっと心配なんだよね。」
「え?」
「透くんと一緒にいることが多いせいか、麻衣も工場内でめちゃくちゃ浮いてるじゃん。前はもっと周りと話してたのに、最近は私としか喋ってないし……。」
「……それは……。」
「透くんのこと気にしてるのかもしれないけどさ、麻衣自身もちゃんとしないと。私が言うのもなんだけどさ、ちょっと今のままだとヤバいよ。」
その言葉を聞きながら、健斗は静かに立ち上がった。
「悪い、ちょっといいか?」
突然話しかけられ、2人の女性は驚いたように顔を上げた。
「え……?」
「さっきの話、少し聞こえたんだけど、その“透”って人の名前、もう一度聞いてもいいか?」
怪訝そうな表情を浮かべながらも、一人の女性が答えた。
「……折原透、だけど。」
その瞬間、健斗の脳裏に古い記憶が蘇った。
(折原透……? いや、待て。)
“透”という名前に聞き覚えがあるだけでなく、その姓も、かつて”アイツ”が使っていた偽名「篠原透」と酷似している。
偶然にしては出来すぎている——そう直感した健斗は、眉をひそめた。
「そいつ、どんな奴?」
無意識に低くなる声。
「え?」
「その折原透ってやつ、どんな奴かな?」
二人の女性は戸惑いながら顔を見合わせ、一人が答えた。
「……なんていうか、すごく落ち着いてるけど、どこか寂しそうな人。自分のことをほとんど話さないし、過去のことも詳しく言わない。でも——」
「でも?」
「妙に目を引くのよね……。周りの人は何かと彼に影響されるというか……。」
健斗は、その言葉を聞いて確信に至った。
(間違いない……そいつは、涼介……篠宮涼介だ!)
強く握った拳をゆっくりと緩め、健斗は深く息をついた。
「……そっか。ありがとう。その透ってやつ、どこにいる?」
健斗が真剣な顔で問うと、女性たちは少し驚いたように視線を交わした。
「えっと……たぶん、今はウチの会社の工場の方にいると思う。」
健斗はふと彼女達の服を見て、◯×工業のマークを見た。
(◯×工業ならここからすぐ近くだな…)
健斗は頷き、一歩踏み出そうとしたその時——
「待って。」
もう一人の女性が、慌てたように健斗の袖を掴んだ。
「透くんに……何かするつもり?」
「いや、そうじゃねぇ。ただ、ちょっと昔の知り合いかもしれねぇんだ。」
そう答えながら、健斗は改めて目の前の女性を見た。
茶色の髪を肩口で結び、優しさの中に気の強そうな瞳を持った彼女。
だが、その奥には、単なる興味や疑念ではなく、確かに庇おうとする意思があった。
「……本当に?」
「本当だ。だから、話を聞かせてくれ。涼…透は工場でどんな感じだったんだ?」
健斗の問いに、女性——麻衣は少し考えるように視線を落とした。
「……いつも一人で、寂しそうだった。」
その答えを聞いた瞬間、健斗の胸にチクリと痛みが走る。
(やっぱり……お前、どこに行ってもそうなのかよ。待ってろよ、涼介——。)
健斗は倉庫へ向かおうとしたが、ふと何かに気づいた様に足を止め、振り返った。
「そういや……俺、まだ名乗ってなかったな。」
麻衣が少し戸惑ったように瞬きをする。
「俺は瀬戸健斗。」
そして、真剣な目で続けた。
「良かったら、君の名前を教えてくれないか?」
ただの礼儀なのか、それとも何か別の意図があるのか——麻衣は一瞬だけ迷った。
だが、彼の目には打算も軽薄さもない。
ナンパではないと、すぐに分かった。
「……山口麻衣。」
そう名乗ると、健斗は軽く頷き、「そうか、ありがとう。」と短く返すと、再び工場へと向かって歩き出した。
麻衣はそんな彼の背中を見つめながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。