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過去編9(引退申出)

涼介の引退申出は、当然ながら事務所に大きな衝撃を与えた。


「お前、何を言ってるのか分かってるのか?」


社長は机を叩き、眉間に深い皺を寄せた。

「今すぐ決めるな。まずは静養だ。時間をかけて考えろ。」


事務所は最初、涼介の申し出を一蹴した。

彼はトップスターであり、莫大な利益を生み出す存在だった。

引退など認められるはずがない。


社長とマネージャーは、必死に説得した。

「静養から戻ってきてからでも、休みを増やしてもいい。スケジュールを調整する。無理に仕事を詰め込まなくてもいいんだ。」

「しばらく海外で過ごすのはどう? 留学ってことにすれば、世間の目を誤魔化せる。」

涼介を引き止めるために、あらゆる選択肢が提示された。


「もう無理なんだ。」

涼介の声は静かだったが、決意に満ちていた。

「これ以上、俺は続けられない。」


社長室の空気が重く沈む。


デスクの向こうで、社長は苛立たしげに舌打ちし、握った拳をデスクに叩きつけた。

「……何がそこまでお前を追い詰めた?」


涼介は視線を伏せ、低く息を吐く。

「……俺の力ですよ。」


静かに呟くその声に、社長の表情が強張った。


「これ以上、俺がいたら……誰もまともじゃいられなくなる。」


共演者が次々と彼に執着し、スタッフの間でも異様な空気が広がる。


「……社長、気づいてましたよね。」

涼介の言葉に、社長は沈黙した。


ーー気づいていないわけがなかった。


彼の異常な人気は、単なる魅力や演技力の問題ではない。

彼に触れた人間は、何かに取り憑かれたように彼を求め、時に破滅へと向かっていく。


社長は何度も、それを見てきた。

だからこそ、事務所は動いていた。


過去に彼と共演し、精神を病んだ女優たち。

突然キャリアを捨て、彼を追い続けるようになったタレントたち。

嫉妬に狂い、彼を潰そうと躍起になった俳優たち。


すべてを“処理”してきた。

だが、それももう限界だった。


共演NG。

この言葉が、業界内で彼を取り巻く状況を端的に表していた。


事務所が水面下で動いても、噂は止められなかった。


ーー篠宮涼介と関わると、おかしくなる。


それは、都市伝説のように語られながら、確実に現実になりつつあった。


無論、全員がそうなったわけではない。

涼介の影響は、人によって強弱があった。

強く影響される者は、異常なほど執着し、彼を求め、やがて壊れていく。

しかし、影響が弱い者は、多少の興味を惹かれる程度で済み、問題なく接することもできた。


同じ現場にいた共演者やスタッフも全員が異常になったわけではなかった。

「確かに魅力は感じるけど、別にそこまでのめり込むほどじゃない」と言う者も中にはいた。


問題は……影響を受けやすい者の割合が、受けにくい人間に比べて圧倒的に高いことだった。

受けにくい者の数が、あまりにも少なすぎた。


テレビ局側も、慎重になり始めた。

最初のうちは「数字が取れるなら」と彼を起用していたが、あまりにも事故が多すぎた。


ードラマのヒロインが撮影中に精神不安定になり、降板。

ーバラエティ番組で共演した女性タレントが、放送終了後に彼を探し回り、仕事を放棄。

ー共演した男性俳優が、不可解な暴力事件を起こし、表舞台から姿を消す。


それも、一度や二度ではない。


ーー篠宮涼介と共演すると何かがおかしくなる。

そんな噂が、まるで感染するように広がっていった。


「……数字は取れるが、正直、使いづらい。」

ある制作関係者が漏らした言葉を、社長は苦々しく思い出した。


涼介の影響を受けにくい者だけをキャスティングすればいいのか?

だが、それが簡単にできるなら、とっくにやっている。

誰がどの程度の影響を受けるのかは、事前には分からない。


何より、影響を受けるかどうかに関係なく、


『彼と仕事をすると、何かが起こる。』


それが業界の共通認識になりつつあった。


それでも、事務所は看板である涼介を簡単に手放すことはできなかった。

彼が出演するだけで、その作品は成功し、莫大な利益を生み出す。


だが、このままでは、いずれ破綻する。


「……西村の件も、関係してるんだろ?」

社長の低い声に、涼介は静かに目を閉じた。

「ええ。」


大手芸能紙の記者、西村。

彼は、執拗に涼介のスキャンダルを追い続けていた。


いや、スキャンダルではない——涼介そのものを暴こうとしていた。


「彼だけじゃない。他のマスコミも気付き始めてます。俺の周りの異常な出来事が、偶然なんかじゃないって。」


西村は、過去の共演者やスタッフに片っ端から取材し、証言を集めている。

「篠宮涼介と関わった人間は、なぜかみんなおかしくなる」ーーその法則性を見抜きかけていた。


そして、事務所が長年行ってきたスキャンダル潰しや情報操作を察知し、逆にそれをスクープしようとしている。


『篠宮涼介の異常な現象は、事務所ぐるみで隠蔽されていた』


それが、西村が書こうとしている記事の核心だった。


「俺がいれば、また誰かが壊れる。事務所も、俺を守りきれなくなる。……だから、俺は辞めます。」


社長は、何も言わなかった。

ただ、深く息を吐き、天井を仰ぐ。


口に出さなかったが、これまで何度も考えたことだった。

ーーいつか、涼介を守りきれなくなる日が来るのでは、と。


「……本気なんだな。」

「はい。」

「お前がいなくなったら、どうなるか分かってるか?」


「……俺がいなくなれば、少なくとも、もう誰も傷つくことはないから……。」

静かにそう答える涼介の表情は、どこか穏やかだった。


「……本当に、それでいいんだな?」

再度念押しした社長の声は低く、重かった。


涼介はゆっくりと頷く。

「はい。」


しばらくの沈黙の後、社長は深く息を吐き、目を閉じた。

「……分かった。」


その瞬間、涼介の芸能生活は終わりを迎えた。

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