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工場編1(逃避の生活)

地方の小さな町にある金属加工工場。


朝焼けの中、機械の低いうなり声が響く中、作業服を着た折原透おりはらとおるは黙々とライン作業を続けていた。


汗が額を流れ落ちるのを手袋越しに拭いながら、彼は周囲の目を意識していた。

視線を交わさず、言葉も必要最低限で済ませる。


ここに来て半年が経つが、誰とも深く関わらないよう努めてきた。

過去に縛られる自分にとって、それが唯一の防衛策だった。


「透さん、次のパーツお願いします!」

声をかけたのは山口麻衣やまぐちまい


20代前半の彼女は、職場のアイドル的存在で、男性従業員の多くが密かに憧れる存在だ。

しかし、そんな麻衣もまた、この閉鎖的な職場に埋もれた孤独な存在だった。


「……はい。」

短く答えながら、涼介は彼女の差し出したパーツを受け取った。


麻衣の笑顔は明るかったが、その奥には何か見えない影が潜んでいるように感じられた。

麻衣が透に特別な関心を抱いていることは、すでに周囲の一部は気づいていた。

工場内ではそれが小さな噂になり、麻衣に近づくたびに同僚の視線が刺さるようだった。

だが、透自身はその気配に気づいていないふりをしていた。


昼休みの時間、工場の片隅で一人で弁当を食べている涼介の前に、麻衣がやってきた。

「透さん、また一人?」

「ああ。」

「たまにはみんなと一緒に食べたらどうですか?」

麻衣の声には屈託のない明るさがあったが、透は目を合わせようとせず、静かに弁当のふたを閉めた。

「……俺、そういうの慣れてないんだ。」

「そうですか。でも、私には透さんが孤独に見えるんです。」


麻衣の言葉に一瞬、透の手が止まる。


だがすぐに何事もなかったかのように弁当を片付け、立ち上がった。


「……余計な心配しなくていいよ。」

短くそう言い残して、透はその場を去った。


彼の中には、麻衣の言葉が心に突き刺さるような感覚があった。孤独。

その言葉は、彼が逃れようとしても逃れきれない現実を暴き立てるものだった。

だが、それでも自分は誰とも関わるべきではない――そう心に言い聞かせる透だった。


工場内の人間関係は穏やかに見えながらも、水面下では微妙な均衡が崩れかけていた。


透に対して明らかな関心を向ける麻衣。

それを快く思わない女性従業員たちの視線。


そして、彼のかつての正体に気づき始めた数名の噂話。


静かに暮らすことを願う透の「逃避の生活」は、少しずつ音を立てて崩れ始めていた。



⭐︎⭐︎⭐︎


午後の作業が始まると、透はいつものように機械に向かい、流れ作業を淡々とこなしていた。


しかし、その背中に視線を感じることが増えてきた。

最初は偶然かと思った。

だが、休憩時間や作業終了後も続く視線、ささやき声。

透の心の中には、徐々に不安が芽生え始めていた。


「ねえ、聞いた?」

「あの人、どこかで見たことあるんだよね。」

「私も。ほら、昔テレビに出てた…」


名前がはっきりと挙がることはなかったが、噂話は確実に広がりつつあった。


ある日の昼休み、いつものように一人で食事をしている透の元に、同僚の男性たちが近づいてきた。

工場の中で比較的目立たない存在だった彼らだが、その視線はどこか探るようなものだった。


「折原くんさ、どこかで見たことある気がするんだよな。」

突然の言葉に、透は手を止める。


「いや、別に。気のせいじゃないですか。」

冷静を装いながら答えたが、心臓は高鳴っていた。


「そうか? ほら、昔テレビとかに出てたりしない?」

「……そんなことないです。」


透は短く答え、立ち上がるとその場を離れた。


しかし、背中越しに浴びせられる視線がますます強くなるのを感じていた。




一方で、麻衣の周囲でも異変が起きていた。透への関心を隠さない彼女に対して、他の女性従業員たちの態度が明らかに冷たくなりつつあった。


「麻衣ちゃん、最近折原さんとよく話してるよね。」

「やっぱり若いからって調子乗ってるんじゃない?」


そんな声が徐々に広がり、麻衣は工場の中で孤立し始めていた。

それでも彼女は気丈に振る舞い、変わらず透に話しかけ続けていた。


「透さん、今日は少し手伝ってもらえますか?」

麻衣がそう声をかけたとき、周囲の視線が一斉に彼らに集中する。


誰も声に出さないが、嫉妬や敵意が空気に漂っているのを涼介も感じ取っていた。


麻衣が孤立しているのは明らかだった。

だが、自分の存在がその原因であることに気づいていた透は、どうすることもできなかった。


「……俺と関わらない方がいい。」

仕事終わりに帰ろうとする麻衣を呼び止め、透はぽつりとそう言った。


「どうしてですか?」

麻衣は笑顔を見せようとしたが、目は動揺していた。


「君に迷惑をかけるだけだ。」

透の言葉は冷たかったが、その目の奥には深い悲しみが見えた。

麻衣はそれ以上追及することができず、静かにその場を離れた。


その日の夜、透は部屋に戻り、疲れた体をベッドに投げ出した。

「……また、こうなるのか。」


彼は目を閉じ、子供の頃から繰り返してきた人間関係の崩壊の記憶を思い返した。


静かに暮らしたいという願いは、いつも人々の執着や嫉妬、排斥によって打ち砕かれる。






翌日、工場内で小さな騒ぎが起きた。


ある女性従業員が麻衣に対して声を荒げたのだ。


「ねえ、なんでいつもあの人とばっかり話してるの?」

「別にそんなつもりじゃ…」

麻衣が弁解しようとするが、その場の雰囲気は険悪さを増すばかりだった。


周囲の従業員たちは遠巻きに見守りながらも誰も仲裁に入ろうとしない。


透は機械を止めると、意を決して二人の間に入った。


「やめろ。」

低く冷たい声が工場内に響いた。その瞬間、空気が凍りつく。

「関係ない人を巻き込むな。」


その一言で女性従業員たちは何も言えなくなり、麻衣は顔を伏せたまま震えていた。


しかし、この騒ぎは透にとって決定的な事件の序章に過ぎなかった――。

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