アリの道
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
かの魯迅の「故郷」は国語で習った人も多いだろう。その最後の文章だ。
希望に対する期待、祈りなどの解釈をされることが多いけれど、私は現在だと、これが違う意味のフレーズに思えてきている。
作品そのものと切り離したうえで、この部分だけを見た場合、と前置いておくが。
実際、多くの人が踏みしめた道は、生える草たちもなくなっていき、自然と土がむき出しになっていく。
危難が待ち受けていると分かる場所からは、身を遠ざける。植物ながらの生きる知恵なのだろう。
そのおかげで、私たち他の生命体は、何者かの気配を感じ取れる材料とできる。
道を作るほど、頻繁に通る輩がいるのだ、と。
そいつが目立つ形ならいいけど、うまいことカモフラージュされているなら、気づかないことも多いかもしれない。
そして、知らないうちに道をつぶされることは、いつも使う誰かにとって面白いことじゃない……。
僕の昔の話なんだけど、聞いてみないか?
最初は車の故障かと思ったんだ。
ある日の夜明け前に、消防車のサイレンらしきものを聞いて目を覚ました。
緊急車両は、緊急の事態においてサイレンを鳴らさないわけにはいかない、と聞く。
音量はおさえめではあったものの、確かに鼓膜を揺らしていたんだ。
その音が、急に途絶えた。
音が聞こえていたのは、かなり近場だったから、このあたりで誰かが救急車の用になることがあったのだろうか。
そっと窓から、音のしたあたりを見やってみるのだけど、救急車の赤いランプをつけた車体は見当たらない。
そして、もう一点。気になるのは音の消え方だ。
サイレンを消しただけなら、車のエンジン音やタイヤのこすれる音など、車の存在相応の気配が残るはずなのに、それがない。
瞬く間に取り戻された沈黙は、再び破られる様子を見せず、この場にうずくまり続けていた。
救急車が、突然消えた。
そのようにしか私には思えなかったよ。実際、家の人も聞いていたようだから、私の幻聴などでもないだろう。
音のなくなったあたりは、ちょうど当時の私の通学路にもあたる。最後に救急車が足をとめたと思しき、アパート前の道路まで来てみたが、建物には別段おかしい様子もなし。
入居者が搬送されたにしても、あの突然の気配の消失には結びつかない。
救急車はどこへいなくなったのか……。
「あー、あんなとこに、ありんこがいる!」
そう声をあげたのは、近くの横断歩道で信号待ちをしていた男子児童の何名か。
赤信号が横断を許さず、さりとて通ることを許可された方角の車たちもほとんど通らない。
その中で彼らは、その場でかがんで横断歩道を構成する縞模様。車道の分離線の延長線上にある一本へ、目を向けていた。
彼らの言う通り、白線の上をアリがあるいている。
しかし、その密度が以上だ。
一列といわず、何列も。それこそ白線一本をまるまる埋め尽くさんとする勢いで、身を連ねているんだ。
その列は横断歩道を通り抜け、分離線のところまで伸びている。よくよく見ると、私の立つアパート前の道路前の線にも、彼らは到達しようとしていた。
先頭こそ、競い合うかのように波を打っているが、その押しつぶし具合は、ほぼインクのごとし。
無事な部分など一切残さぬとばかり、彼らは私の前で線をたっぷり黒く塗り、それでも満足しない様子で、どんどんと先へ進んでいく。
彼らがどのようなフェロモンにひかれ、こうして列をなすのかは分からない。
けれども、彼らは私の前を横切ってなお、線を隠し続けていく。
――道だ。
それを見た私の印象は、こうだった。
人も車も、あえて意識するか、あるいはずさんな動かし方によってくらいしか、足を踏み入れないあの領域。
それはアリたちにとっては、立派な道になっているんだ。
よくよく見てみれば、彼らは白線よりもずれたアスファルト部分には、みじんもはみ出していない。
彼らはきっちり、自分のテリトリーを把握して、守っているわけだ。
軍隊を思わせる行進は何メートルも続き、ようやく尾っぽが途切れて、白線が再び顔を見せ始めたときには、彼らの先頭がずっと先へ進んでいる。
妙なものを見たな……と、このときはそれで終わるつもりでいた。
けれども、その日の放課後。くだんの横断歩道へ差し掛かったとき。
赤信号で止められた私の前方、左から右へ爆走していく車が一台だけあった。
相当急いでいたのだろう。かなたに聞こえていたエンジン音は、車体と一緒にたちまち大きくなってきたし、その運転も左右へ身体を振りぎみだ。
速度が速くなると、ちょっとしたハンドル操作も車の動きに影響が出やすいというが、そのためだろうか?
のんきに考えている間に、車は青信号に許されるまま、私の目前を通り過ぎるや、中央の分離線にタイヤを乗っけてしまう。
今朝に、アリたちの闊歩していた、あの線の上にだ。
次の瞬間。
線に乗せた側のタイヤが、がくんと沈んだような気がした。
パンクか? と思ったが、速度が緩む様子はない。かといって、音を立てて引きずる様子もない。
車全体が、あっという間にアスファルトの下へ沈んで行ってしまったんだ。
やわらかい砂に足を取られるまま、底へ引き込まれてしまったかのような、刹那のできごと。
車そのものはおろか、音さえも消えたこの空間。
先まで、勢いよく先を急ぐ車があったなどと、あれを見ていた人しか信じはしないだろう。
アリたちが、無数に通って作った道。
そこはアリ以外のものが通ろうとするのを、よしとしないときがあるのだろう。




