11. 工場のピーター
不味い紅茶を一応飲み干してすぐ、三人は初日の工場回りに出かけた。一つ目の工場は馬車で5分ほどの場所にあった。歩いても大した時間はかからないだろうが、道中所々にうずくまる浮浪者の姿を見れば、子爵がわざわざ馬車移動するのも納得できた。
工場に入れば、工場長らしい初老の男が揉み手をしながらジュール子爵を迎えた。興味本位でフェルがちらりとノエルを見れば、伯爵家嫡男の優男は、今ははっきり顔をしかめていた。機械が動く轟音、逃げようもなく鼻につく煙の臭い。工場の中の事務所のような場所に通されて、子爵が工場長から近況を色々と報告される横で、ノエルが重そうな咳払いをした。
フェルはジャケットの内ポケットに忍ばせていた携帯用の光量計をちらりと見た。黄色だ──つまり、使える『光』は豊富にあるわけではないが、皆無でもない。
事務所を出て、工場長の案内で工場内を見て回る。といっても労働者が実際に機械を動かしている場所には下りず、一階上の回廊から眺めるだけだ。労働者の必死そうな、汚れた顔を遠目に見て、フェルは眉根を寄せて目を細めた。
「おおむね問題ないようだ。リクルートだけだな」
一つ目の工場を出るところで、ジュール子爵はそう独り言を言った。フェルとノエルは黙って目を合わせた。
二つ目の工場は、そこからもう5分ほど馬車を走らせたところにあった。これも状況は似たようなもので、製品の種類が違うからか臭いは少々異なったが、環境がひどいという点では同じだった。
「魔法使いは常駐しているのですか」
同じように工場長との打ち合わせを終えて工場内の見回りに出るところで、フェルはジュール子爵に尋ねた。自分でも臭いがたまらないのだろう、子爵は顔をしかめながら頷いた。
「ほぼ二つに一人置いていますから、日によっている場所は違いますが。ああほら、彼がここの」
ジュール子爵はちょうど通りすがった青年を示した。痩せぎすの顔に鋭い目、王都の下町ならどこにでもいそうなその青年に、しかし、フェルははっきり見覚えがあった。
「二か月ほど前から雇っているんです。ほらご挨拶しろ、王都の魔法使い様と騎士様だぞ」
青年は一瞬怯えた目をし、それからきっと口を結んで、フェルとノエルを睨みつけるようにじっと眺めて、ほんのわずかな会釈をした。ジュール子爵から肩を小突かれ、嫌々口を開いて言った。
「ピーターです、ピーター・ダウエル」
彼の口から出た予想通りの名に、フェルはにんまりと微笑んだ。予想外の反応をされて怯むピーターの手を取り、フェルはしっかり握手した。
「フェリックス・シモンズだ。よろしく、ピーター」
その茶色の目をじっと見て、フェルは彼の心を読んだ。
──なんだこいつ、妙な魔法使いだな。それにしてもこの、脳みそを触られるような感じ、どこかで……
そこまで読んで、フェルは読心魔法をやめ、あっさり握手を解いた。ピーターは目を大きくし、それから一応ノエルとも握手した。ピーターの怪訝な目線を感じながら、フェルは、これから取るべき動きを急いで頭の中で組み立てた。
*
その日の夜は簡単な会食をということで、ジュール子爵邸のダイニングで食事会が開かれた。
といっても出席者はジュール子爵本人と、彼の老いた母、それから数人の兄弟のみである。フェルが孤児の出だと明言しているせいで、未だ身分を明かしていないノエルも同類だと思われているらしい。魔法師団と騎士団ということで一応気は遣われているものの、家族の食事に同席させてもらっていると表現した方が適切だ。
ささやかな食事会の後は、今回泊まるベッドルームに案内された。フェルとノエルが与えられたのは、居間を共有する二つの客間である。他の部屋に通じるドアに鍵をかけたところで、ノエルが大きなため息をついた。はは、と思わず笑うフェルに、ノエルは咎めるような目を向けた。
「笑いごとじゃない」
「失礼、でも後悔してるだろ? こんなに汚いとは思わなかったって」
否定せず、ノエルは小さなソファにぐったりと座った。騎士団の人間ならばさすがに体力はあるはずだが、体力だけの問題ではない疲労が見える。
「フェルは、慣れているのか……? こんな環境に……」
実に怪訝な顔で、ノエルは言った。孤児の出という作り話がここにきて効いていそうだ、と内心愉快な気持ちになりながら、フェルは懐から小さなブローチを取り出した。テーブルに転がされたそれをノエルが不思議そうに眺めている間に、フェルは鞄から、手のひらほどの大きさの、ブローチと同じ模様が描かれた小さな絨毯を出して広げた。
「これは……魔法陣?」
「備えあれば憂いなし、さ」
虹色の糸で刺繍された魔法陣をフェルがひと撫ですると、それはすぐに淡く紫色の光を発した。
二重円の魔法陣から、垂直に光の柱が立ち上がった。風が起こり、光の柱に吸い込まれるように空気が集まった。光の柱に下から入った風が天井近くで吹き散らされ、また部屋の隅に下りていった。そうして風が部屋中を二巡ほどしたところで、光の柱は見えなくなり、魔法陣の刺繍の淡い光と、穏やかな風だけが残された。
上出来だ。
満足して、フェルはノエルに振り向いた。ノエルは目を丸くして、恐る恐る、穏やかに風を吹き上げ続ける魔法陣を覗き込んだ。
「魔法を使ったのか……?」
「こんなの練習みたいなものだよ、ついでに部屋もましになったろ」
言われて初めて、部屋の空気が綺麗になっていることにノエルも気づいたらしい。フェルは自分の寝室の扉を開け放し、簡単な風の魔法を使って、寝室のまだ汚い空気を居間の方に送った。再び汚れた空気を吸ってしまったノエルが一瞬顔をしかめ、それから、フェルがいとも簡単に魔法を使ったことの方に驚きの表情を向けた。
「何を驚いてる。魔法使いなんだ、魔法を使うのは当たり前だ」
キャビネットにもたれかかり、優雅に腕を組んで、フェルはにやりと笑った。ノエルが驚いているのが実に愉快だった。
ほら見ろ、あんたの元婚約者は可愛らしく淑やかな女性ではなかったが、思う存分魔法を使えるようになっているぞ! といっても、目の前の魔法使いの男が自分の元婚約者だとは、ノエルは露ほども思っていないのだろうが。
「そのブローチは貸して差し上げるよ。同じ魔法だ、着けてれば街を歩いてても幾分かましになるはずだ。勝手についてきたとはいえ、伯爵様に出張先で倒れられちゃ困る」
茶化して言えば、ノエルは思い切り眉根を寄せた。いい気味だ、と肩をすくめて、フェルはさっさと自室に向かった。
「おやすみノエル、良い夢を」
ひらりと手を挙げ、返事も待たずに扉を閉める。しっかり鍵をかけ、ふう、と肩の力を抜く。
ぎゅっと握った拳を解いて、じっと手のひらを見る。雪の演習場で、サムから聞いた噂話を思い出す。
本当はフェリシアのことを愛してた?
それは結構、大いに結構。しかしフェリシアは死んだのだ。私はフェリックス・シモンズ、偉大な魔法使いになる男だ。
「勝手に幽霊を愛していろ。私は、この道を生きていく」
独り言は、いやに大きい時計の音に消えていく。
ピーター・ダウエルって誰だっけという方は「水の都の魔法使い」の19あたりをご参照ください。




