10. ようこそサイラスへ
鏡に映る自分の姿を見て、フェルは気合いを入れ直した。
ジュール子爵のサイラス出張のお供をする日の朝である。今日もどう見ても男だが、念押しするように鏡を睨みつけ、ため息とともに分厚いコートを手に取って部屋を出る。
二泊三日の出張といっても、ただの兵士である自分には大した荷物もない。ジュール子爵のサイラスの屋敷に宿泊させてもらうことになっているので、雪山での数日の訓練で必要になる寝具の類もいらない。
打ち合わせ通り、まずは魔法師団の寮の馬車付き場に向かう。
形だけ見れば気楽な出張である。だが遠く敷地の入口の方からやってくる馬車を見て、フェルはげんなりと目を細め、守衛に悟られない程度にため息をついた。馬車付き場に入ってきて停まった質素な仕立ての馬車から顔を出したのは、ブロンドに青い目、整った甘い顔立ちの青年、ノエル・イーグルトンである。
「ごきげんよう、フェル! 三日間よろしく」
「……ごきげんよう、よろしく」
見覚えのある御者に手伝われるまでもなく、フェルは自力で馬車に乗り込んだ。扉が閉まり、方向転換をして再び走り始める馬車の中で、かすかな香の匂いにすら既視感を覚えてげんなりする。
何が悲しくて、自分を捨てた婚約者の家の馬車に、再び乗らなくてはならないのか!
かといって、御者の顔と香以外にイーグルトン伯爵家らしいものは認識できない。目線を感じて目をやれば、ノエルは妙に上機嫌に微笑んでいる。
「騎士団で手配するのが煩わしかったから、家の馬車で良さそうなのを使うことにしたんだ」
「それはどうも……」
眉間に少しだけ寄った皴を伸ばしながら、フェルは曖昧に礼を述べた。いちおう一通り馬車の中を見回す仕草をして、肩でもすくめておく。良さそうなのをとは、伯爵家の馬車が迎えに来たらさすがのジュール子爵も驚くだろうから、適度にみすぼらしく見えるものを選んだ、ということなのだろう。適当に相槌を返してもいいのだが、ぼろが出ても困るので、それ以上は触れないでおく。
フェリックス・シモンズは孤児の男だ──しかしどうも、魔物には、男だというところの嘘は簡単に見抜けてしまうものらしい。
だがそもそも、魔物というのはそうそういるものではない。使い魔として魔法使いに使役されている魔物はいるが、ごく限られた存在である。イーグルトン伯爵家のような大きな家には必ずお抱え魔法使いがいるものだが、使い魔を持つのはもっとずっと少数の、例えば王宮付き魔法使いのような選ばれた魔法使いだけである。
だから、ノエルやジュール子爵に対して、お付きの魔法使いの使い魔をきっかけにフェルの本当の性別がばれてしまうという可能性はほぼない。その意味では王宮の中の方がよほど危険である。
それにしても、死んだ婚約者をまだ愛しているというこの男、本当に滑稽なほど、フェリックスの正体に気づかないものだ。
「あんた、本当に行くのか? サイラスの環境汚染はかなりのものと聞いているぞ」
今日もノエルの胸元に密かに光る例のブローチを居心地悪く眺めながら、フェルはできるだけ低い声で尋ねた。伯爵家の若い騎士様はきりりとした表情で大きく頷いた。
「言っただろう、できるだけ色々な世界を見たいんだ」
「……熱心なことで」
いつか彼女にも会える気がして、と王宮の夜会の警護の際に聞いた言葉がふと思い出される。その本人は目の前にもういるというのに、憐れな男だ!
馬車が止まって、御者が素早く扉を開ける。そんなに恭しくしない方がいいぞと内心釘を刺しながら、手伝いも借りずに馬車を降り、腕を組んでノエルの隣に並ぶ。ほどなく足音が聞こえてきて、居住まいを正し、屋敷の玄関から姿を現したジュール子爵に会釈をする。
「ごきげんよう、サー」
「やあ、今回は長丁場ですが、よろしく頼みますよ」
いつものような成金子爵の身なりだが、今日は王宮の夜会のような上機嫌さがない。御者に子爵の荷物を預け、馬車に乗り込み、走り出してからも、子爵の口から漏れるのは憂鬱なため息である。
「ジュール様はサイラスのお生まれでいらっしゃるので?」
念のためフェルが尋ねると、ジュール子爵は汗を拭う仕草をして、困ったような目を向けた。生まれ故郷に向かう道中の表情には見えなかった。
「ええ、元は地主をしていたのを、新しい産業機械に目をつけたのが父でね。父がすぐに肺を悪くしたもので、私が後を継いだわけだ。その頃私はまだ若かったから、そりゃあもう必死に働きましたよ」
王都中央駅までは馬車に乗ってしまえばすぐだ。馬車を降り、列車に乗ってからも、ひとたび始まったジュール子爵の昔話は飽きることなく延々と続いた。
「では今は、20の工場を運営されていて」
「21だよ」
「失礼。21の工場を運営されていて、10人の魔法使いを雇っていると」
「そう、これでも手厚いほうですよ。最近は工場の機械の性能も上がっていてね、メンテナンスにそれほど手間がかからない。労働者だけはいくらいても足りないが」
長々とした話から重要情報だけを整理して頭の中で俯瞰して、フェルはひとつ頷いた。魔法使いをそれだけ雇えるのは、なるほど確かに大したものだ。王都の都市部にだって工場はあるが、それだけ工場の数を増やして荒稼ぎできるのは、地方の地主ならではのビジネスだろう。
ノエルはずっと上品な相槌を打つばかりで、何を考えているのかよく分からない。だがフェルからすれば、今回の自分の目論見を邪魔されるのでなければそれでいい。
二時間半ほど列車が走り、止まったのはポートカルスという宿場町である。サイラスまでは、ここから馬車に乗り換えてさらに二時間ほどかかる。ポートカルスのレストランで昼食をとり、ジュール子爵の屋敷の馬車が迎えに来ていたのに乗り込む。
馬車の窓から見えたのは、しばらくは、実にのどかな田舎の景色だった。
朝からずっと気が張っているフェルは、どこか懐かしいその景色にふとため息をついた。幼い頃、豪商だった実家の父に連れられてあちこち旅行に行った時には、こういう景色もしばしば見たものだ。ラザフォード家の養子になってからは、屋敷の外に出るだけの機会すら、滅多に与えられなかった。
馬車に乗ってからは、ジュール子爵は大人しかった。
のどかな景色を眺めていたフェルは、サイラスが近づいてきたところで顔をしかめた。ちらりと盗み見れば、ノエルも近い表情をしていた。
明らかに空気が悪い。サイラスの街の方向が、空気の色が変わって見えるほどに淀んでいる。
その淀んだ空気の中に馬車が突っ込んでいく頃、ノエルが小さく咳をした。ジュール子爵はというと、悟ったような遠い目をしている。フェルは目を細め、馬車の窓から、街の様子をよく観察した。
薄汚れた灰色の低い壁が、街を緩く囲んでいる。街の中心部の方向に、その壁より遥か高くまでにょきにょきと伸びる工場の群れが見える。天を突くような煙突からは灰色の煙がもくもくと出続け、曇り空に炭を塗るように陰鬱に広がっている。
街の門をくぐってからジュール子爵の屋敷まで進む短い間にも、道端にうずくまる人が何人も見えた。まだ昼間なのに、空は暗い。煤と繊維が混じったような嫌な臭いがどこに行ってもずっと立ち込めている。馬車を降り、ジュール子爵の屋敷の玄関をくぐるまでの間に、ノエルがもうひとつ咳をした。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
屋敷に入れば、執事を筆頭に使用人たちが恭しくジュール子爵を迎えた。屋内に入ってしまえば空気は若干ましで、ノエルがほっとしたようなため息をついたのを、フェルは半目になって見上げた。
田舎風の豪邸だが、大物の調度には王都風のものも多い。すぐに応接間に通されて、紅茶と紅茶菓子を供される。予想はしたが、紅茶が不味い。これだけ環境が悪ければ良い水もないだろう、とフェルが諦めの息を吐いた横で、ノエルが駄目出しのように咳き込んだ。気まずそうな咳払いに二人が顔を上げると、大きな体を上等なソファにうずめたジュール子爵が、肩をすくめて言った。
「ようこそ、サイラスへ」
フェルとノエルは顔を見合わせた。愛想笑いを浮かべるのは、フェルの方が早かった。




