2. 木刀試合
新人たちは思わず顔を見合わせた。魔法師団なのに、最初の訓練が魔法ではなく肉弾戦だとは、一体どういうことだろう。
「魔法は使ってもいいんですか?」
トビーが手を挙げて尋ねると、アドルフは頷いた。
「もちろんいいぞ。木刀を魔法で飛ばしてもいい。俺はしないがな」
「少しでも朱をつけられたらいいんですか? 場所は?」
「場所は問わない。服の裾でも喉首でも」
木刀についた朱をアドルフにつけるだけならば、たいして難しくもなさそうだ。まず前に出たのはトビーで、差し出されたインク壺に木の短剣の先をとっぷり浸し、あらかじめ引かれていた開始線に立って自信満々に微笑んだ。
先輩隊員の合図で、アドルフとトビーの木刀試合が始まった。
始まったと思った時にはもう終わっていた。威勢よく走り出したトビーは、一瞬前にはまだ数歩先にいたはずのアドルフがもう懐にいて、おろしたての制服の腹に赤々と線がつけられたのを、地面に転がりながら驚きの目で見た。
他の新人たちは息を呑んだ。何が起きたのか分からない。──それ以上に、どうやらアドルフは少しも魔法を使っていない。
「次々いくぞ、次は誰だ」
息も切らさず、アドルフは先端に朱のついた木の短剣を器用に弄びながら言った。次いで開始線に立ったのはハワードで、構えからして、彼が剣術の心得を持つことは伝わった。貴族の嫡子なら、多少の差はあれど剣術を嗜むものだ。
しかしまたしても、勝負は一瞬だった。トビーのように地面に転がされはしなかったものの、腕に長々と朱の線を引かれたハワードは、何の汚れもないアドルフの服を見て目を白黒させた。
カロイェート師団以外の師団の新人も、次々とアドルフに挑戦しては、みな見事に負けていった。朱のインクの飛沫さえ微塵も浴びずに、アドルフは涼しい顔で新人たちをいなしていった。
「全然だめだな、根性のある奴はいないのか」
もう半分以上の新人が赤く汚れをつけられた頃、ぐるりと演習場を見回したアドルフと、フェリックスの目が合った。フェリックスは手を上げて、木の短剣をインクに浸して開始線に立った。
深呼吸して、まっすぐアドルフの目を見る。
──フェリックスが男のふりをして魔法師団に入ることができたのは、王宮付き魔法使いのアランが斡旋し、入隊試験に向けて色々と入れ知恵をしてくれたからである。
アランはフェリックスの持つ才能に関して、あれこれと正しく指南した。その中のひとつが、シモンズ先生から教わった、心を読む魔法に関してだ。
いいかい、フェル、君のその変わった魔法はもっと器用に活かすべきだ。相手が強く思うことだけ読んでいるのでは、もったいない。
フェリックスが睨む先で、アドルフがふんと顎を上げる。その目の奥から、フェリックスは読み取る。彼が己の手足を、体を、どういう風に動かそうとしているのかを。
先輩隊員の合図で、アドルフとフェリックスの木刀試合が始まる。
勝負は、またしても一瞬だった。勢い余って地面に転がったフェリックスの脇腹には赤く長い線がつき──アドルフは、しかし、木刀を持つ自分の腕にほんの少しついた朱色を認めて、ふんと鼻を鳴らした。
「合格じゃないが、ましだ」
演習場が一瞬静まり返った。先輩の誰かが拍手して、すぐに拍手が広がった。土まみれになった顔を拭いながら、フェリックスはにやりと笑った。
「だがその妙な魔法は、不快だ。訓練以外で使わないようにしろ、いいな」
釘を刺されて、フェリックスはぎくりとした。──見破られていた。それはそうだ、思えばアランにだってすぐばれたのだ。
何のことかと首を傾げるギャラリーに、アドルフは仏頂面のまま肩をすくめた。そして改めて呼びかけた。
「さて、フェリックス・シモンズを超える男はこの中にいるか? 全員やるまで終わらんぞ」
演習場に再び緊張が走る。
次に手を上げたのは、サミュエル王子殿下だった。アドルフは一瞬黙り、それから言いにくそうに首を振った。
「……殿下はなしだ」
「なぜです、俺も師団の一員だ」
「汚すわけにいかん」
「戦場では汚れたくないなんて言っていられないでしょう」
このおちゃらけた王子様は、何となれば戦場にすら赴くつもりだというのか。トビーとハワードが顔を見合わせているのを横目に見ながら、フェリックスもはらはらする。はらはらするギャラリーをよそに、サミュエルは木刀をインク壺に浸し、すたすた歩いて開始線に立った。
「やらせてください。剣術は一応やっているんです。さあ」
ため息をついて、アドルフも手合わせのために構えた。心なしか緊張した声で、先輩隊員が手合わせ開始の合図をした。
*
「結局、フェルだけだったなあ。アドルフさんにちょっとでもインクつけられたのは……」
その日の夜、寮の食堂で夕食を食べながら、頬杖をついてトビーは言った。隣でハワードも渋い顔をして頷くが、彼らから尊敬の眼差しを向けられるフェリックス自身は、半分以上食事が残っている自分のプレートを見てげっそりしていた。
「この夕食、量が多すぎないか、味もしないし……」
「知らなかったの? 陸軍の寮は、王都の中でも指折りなほど食事が不味いって有名だよ」
肩をすくめるトビーはしかし、すでにぺろりと平らげている。
「あれだけ運動したら、不味くても食べちゃうけどね!」
あの木刀試合の後、早速始まった本格的な訓練は、アドルフが言い渡した通りに魔法を全く使わないものだった。ひたすら体を鍛える訓練ばかりで、正直言ってフェリックスは吐きそうなほど疲れ果てた。
自力で行う回復魔法の練習を、アランが勧めてきた理由が分かった。こんなに訓練がきついとは!
「ところでフェル、アドルフさんが言っていた妙な魔法って何なの?」
トビーから興味津々に尋ねられ、フェリックスはぎくりとした。言うべきか隠すべきか迷うが、どうせアドルフにはもうばれているのだ。師団のメンバーに伝わるのも時間の問題だろうし、それならば、自分から言ってしまった方が印象は良いだろう。
「……心を読む魔法だよ」
「ええ、何それ」
トビーもハワードも驚くのを見ると、魔法学校で習いはしないのだろう。フェリックスとてやり方をシモンズ先生(の手紙)から学んだだけで、名前のついた魔法なのかどうかも知らない。
「ちょっとやってみてよ! 俺が何考えてるか当ててみて」
無邪気に胸を張るトビーに、フェルは困る。不快だ、とアドルフははっきり言った。訓練以外で使うなとも。
「いや、きっと不快だからやめた方がいいよ」
「アドルフさんが言ってたこと? やってみなきゃわからないよ、いいから試してみて」
諦めて、フェリックスはトビーの心を読んだ。食堂のお姉さんで一番胸が大きいのはあの茶髪の人だな!
トビーがにやにやと期待に満ちた眼差しを向ける。フェリックスは顔をしかめる。
「すまんが、女性の胸の大きさには興味がない」
「ええ、フェルすごいな! ね、ハワードもやってもらえよ」
流れでハワードの心も読むことになり、彼の思い浮かべた聖書の一節をすらすら読み上げると、何だおまえ真面目だな、とトビーがハワードの背を叩いた。驚きはしたものの、彼らは不快とは感じなかったらしい。してみるとこの魔法は、使われた側が使われていることを察知するのにもそれなりの能力を必要とするようだ──アドルフや、アランのような魔法使いにはばれても、師団の新人くらいにはばれないようだ。
「しかしカッコ悪かったな、あいつ」
フェリックスの変わった魔法の話題には満足したらしく、頭の後ろで手を組んでトビーが言った。さすがにハワードが周りをきょろきょろして、たしなめた。
言いたいことは分かる。あいつとは、サミュエル王子殿下のことだ。あれだけ堂々と木刀試合を始めた割に、他の新人と変わらぬ瞬殺ぶりでアドルフにやられていた。
「でも本当に、どういう風の吹き回しなんだろうね。その後もちゃんと一緒に訓練やってたし」
「そう、それなんだよな! やっぱ変わったよな、何があったんだろ……まあ、何かはあったんだろうけどさ」
トビーやハワードの話を聞くに、リリアテラ魔法学校時代のサミュエル王子殿下は、それはもう自分勝手な問題児だったらしい。そしてまた、例の箱庭の騒動だって、王宮全体が危険に晒される大事件に発展したのはサミュエル王子殿下の奔放な振舞いのせいだと、魔法使いなら誰でも知っている。
「まあ明日にはもう来ないかもしれないけどね!」
トビーが肩をすくめるのに、ハワードも頷いた。何となく食堂を見回して、フェリックスもため息をついて同意した。魔法師団には上流階級出身者が多いと言っても、陸軍全体で見れば庶民も当然多く、雰囲気はやはり猥雑なものだ。やる気を出したのか知らないが、およそ王子様に似つかわしい世界ではない。
結局完食は叶わず、フェリックスはさっさと自室に戻って休むことにした。ベッドに転がれば今すぐにでも寝てしまいそうなほど疲れていたが、それにしたって回復魔法を使ってからの方がいい。汗がひどいのでシャワーも、など朦朧としながら歩いているところ、寮の廊下で思いがけず金色の髪の青年を見かけ、思わずフェリックスは二度見した。
遊行にでも行くかのような大きな鞄を持って廊下を歩いているのは、噂のサミュエル王子殿下だった。たった二人の侍従とともに、どうやら、寮に住みこむらしい荷物を運んでいるところだった。
「やあフェリックス、今日は随分疲れたね」
そう笑うサミュエルの顔にはさすがに疲れが見えたが、それにしても元気だった。大荷物とサミュエルを見比べてしまうフェリックスに、サミュエルは苦笑した。
「……ここに住むの? こんな狭いところに……」
狭いだけではない、古いとか汚いとか冷たいシャワーしか出ないとか、突っ込みどころはいくらでもあるのだが、王子殿下はむしろ嬉しそうに微笑んだ。
「だって師団に入ったんだ、みんなと同じところに住まないと」
いやに謙虚なその笑みを見て、フェリックスは目を細めた。
サミュエル王子殿下の姿はもちろん、『水の都』の箱庭で会った少年トーマスとは違う。しかし金の髪や紫の瞳や、その微笑みに、なぜか、泣きたくなるほどの懐かしさを感じる。
でも王子殿下は気づかない。そりゃそうだ──水の都のルカと、軍隊の新人の男にしか見えない今の自分では、あまりに違う。
「ああそうだ、フェリックス。同期なんだし、フェルって呼んでもいいかな」
トビーは何の断りも入れずにそう縮めて呼んできたし、それで何の問題もない。わざわざ確認するところにどうしようもない育ちの良さを感じながら、侍従たちの微笑ましい表情に耐えきれず、フェルはぎこちなく微笑んで頷いた。サミュエルは嬉しそうに、
「俺のことも気軽にサムって呼んでくれ。じゃあフェル、おやすみ」
そう軽やかに続けて、フェルの隣の部屋へと入っていった。閉じた扉を見つめ、フェルは顔をしかめて首を振った。
以後、フェリックスのことはフェル、サミュエル王子殿下のことはサムと表記します。




