プロローグ 私の先生
ここ小さな町の診療所。
医師が1人と看護師が私を含めて交代で2人、本当に小さい。
しかし、こんな診療所でも患者はひっきりなしにやって来る。
「助けて下さい!」
真っ青な顔をした女の人、その腕に5歳位の子供を抱えていた。
おそらく親子だろう。
「どうなさいました?」
あと少しで今日の診療時間が終わる筈だったのに、昨日も深夜の急患で先生は殆ど寝てない、身体が心配だ。
「痛い...母さん...痛いよ...」
子供はお腹を押さえ呻いている。
酷い汗、よほど痛いのだろう。
「お入り下さい」
「は...はい」
先生が診察室に親子を呼ぶ。
私も親子と一緒に診察室へと入った。
「いつからですか?」
「昼からです、てっきり下痢かなんかと...」
「そうですか...」
慌てる事なく、先生は子供の診察を始めた。
大抵の子供はうまく自分の状態を説明する事なんか出来ない。
お母さんから子供の詳しい状態を聞きながら、カルテに書き込んで行く。
その動きに澱みは無かった。
一通りの診察が終わり、先生は顎に手をやる。
不謹慎だけど、金髪碧眼で鼻筋も通った先生は物凄く絵になる。
医師より俳優、いや貴族様の方がしっくり来る程。
「サリー、この薬を」
先生って何歳だろ?
見たところ30歳は過ぎてるよね?
32、3歳?私が21歳だから...
「サリー?」
「は...はい分かりました!」
いけない、見惚れていた。
動揺を隠し、先生から紙を受け取り、指示された薬を壁際に置かれた薬棚から取り出した。
『下剤ね』
男の子の原因はお腹にあると先生は考えたのか。
水と一緒に薬をお母さんへ手渡した。
「アアア!」
数分後、薬を飲んだ男の子が泣き叫ぶ。
その間に先生は検査道具の用意をしていた。
私は男の子をベッドから降ろし、別室へ運ぶ。
そして床に置いたオマルに男の子の排泄物を溜めた。
「ゆっくり、無理しないでね」
排泄が終わった男の子を再びベッドに運び寝かせる。
先生は排泄物を検査室へ持って行った。
「あの...大丈夫でしょうか」
「大丈夫ですよ、先生を信じて下さい」
真っ青の顔をしたお母さんが不安そうに息子の手を握りしめている。
お腹の中を空っぽにしてスッキリしたのか、男の子の表情が少しだけ和らいで来た。
ふと見た母親の着ている衣服の所々が破れている事に気づいた。
男の子もだ。
一見では分からないが、所々を繕ったシャツ、スボンも色々な生地を繋ぎ合わせ、パッチワークみたいになっている。
丁寧な修理、男の子に対する母親の愛情を強く感じさせた。
「お待たせしました」
両手を拭きながら検査室から出てくる先生。
表情から悲壮感は感じられない。
これは私だけが分かる秘密。
だって、私は先生が好きだから...
「む...息子はどんな病気なんですか?」
「回虫です」
なるほど回虫か。
先生があの表情だから、重症じゃないって事ね。
「回虫?」
「息子さんのお腹の中に入った虫の卵から生まれたのが回虫ですよ、排泄物の中に白い紐みたいなのがありまして」
「あの、そんなのは昔から...私も子供の頃から」
「...それは違う種類の虫です」
「違う種類?」
先生は困った顔、ご婦人が自分のうんちの話をするなんてね。
「お腹の中に寄生虫が居るのは珍しくありません。
でもお母さんが見たのは息子さんと違う虫なんですよ」
先生に代わりに説明をしてあげる。
衛生の良くないこの地区では当たり前の寄生虫。
お母さんに難しい説明をしても分からないだろうし。
「それで、息子は治るのでしょうか?」
「ええ、薬を出します。
大丈夫ですよ、私の診た所、息子さんの症状は薬で治りますから」
「良かったですね」
本当に良かった。
回虫を放置しては命を落とす危険は十分にある。
重症になれば手術をしなければいけないし、薬で治る程度なら完治も早い。
「では薬を出しますね、それと食べ物は絶対火を通してから食べて下さい、あとは...」
先生からの注意点を書き留める。
最後に患者さんへ渡すの。
難しい言葉は使わない、この町は識字率が低い、絵も書き添えておいた。
「...先生治療代なんですが」
不安そうに母親が鞄を開け、お金を取り出した。
薄汚れた銅貨ばかり、とてもじゃないが足りない。
でも安心して、
「お金は要りません」
ほらね。
「いや、でも...」
「そのお金で、子供さんに栄養のある物を食べさせて下さい」
「あ...ありがとうございます!!」
「いいえ」
先生の目が細くなる。
マスクの下はきっと笑顔なんだろう。
見たいな~、先生の笑顔。
親子は何度も頭を下げながら出ていく。
扉が閉まり、先生は少しバツの悪そうな顔をした。
「先生って子供の患者さんに本当、弱いですね」
「すまないサリー、また町長さんに補填を頼む」
「分かりました」
先生の給料は今月既に補填で無くなってしまった。
そうなると無料で薬は出せないので町長のポケットマネーを頼るしかない。
町長は私の父だから嫌とは言わせない。
この診療所の経営者でもある父。
三年前、町の人達から診療所を作って欲しいと要望があり、父は王国に医師の手配を頼んで、先生が5年の契約でやって来た。
以前から医学に興味があった私が先生を手伝う様になったのは自然の流れ。
決して一目惚れとか、ずっと側に居たいとか、将来は2人で診療所を切り盛りしたいとか思った訳では無い。
「あと、薬の注文も頼む」
「王都にですね。分かりました、明日の朝、貰いに来ます」
「ありがとう」
午前中は医学校がある。
だけど、朝一番なら間に合う。
ついでに朝食も差し入れしよう。
ほっといたら食べない人だから。
しかし王都に直接薬の手配を頼むなんて凄い。
私の通う医学校でも間に問屋を挟むのに。
お陰で診療所の薬は最新で、とても安く仕入れが出来るのだ。
翌朝、私は早起きして作ったサンドイッチと温かいコーヒーを手に診療所へと向かう。
先生は診療所の二階に住んでいる。
「おはようございます」
診療所の裏口から中に入る。
早すぎたかな?返事が無い。
「...先生」
薄暗い中、階段を登る。
さすがに先生の住む部屋に入る度胸は無い。
だから入り口付近に朝食を置いておこう。
「おはようサリー、朝食ありがとう」
先生が二階から降りて来た。
口にパンクズが付いて、男前が台無しだよ。
「どうでした?」
「美味しかったよ、サリーは良い医師で、良い奥さんにもなれるよ」
「あ...え?良い奥さんですか」
「そ...そんな意味じゃ」
先生の顔が真っ赤に変わる。
そんな私も顔が赤くなってしまうのを感じていた。
それから私は強く先生を意識する様になってしまった。
先生をずっと目で追ってしまう。
視線に気づいた先生も顔を下に向け照れているのが堪らなく嬉しかった。
「サリー、ちょっと」
「はい先生」
そんなある日、私は医学校で担当の教諭に呼ばれた。
「王都の医学校から1年間の留学生募集の通知が来てね、君を推薦したいと思うんだが」
「本当ですか?」
夢の様な話。
医学を学ぶ者にとってサルマン王立医学校といえば、憧れの的、世界最高峰の教育機関だ。
「是非お願いします!」
先生と離れるのは辛いが、1年間だ。
先生の任期はまだ2年ある、私が戻っても1年は一緒に過ごせる。
そして立派な医師になって先生に結婚を申し込むんだ!
私の胸は希望に満ちていた。
私の留学を両親を始め、先生もとても喜んでくれた。
そして私は王立医学校に留学した。
憧れの留学生活。
学ぶ事は山の様にある。
私は必死で勉強を続けた。
早く、早くアレックス先生の助けに。
そう呟きながら。
「君がサリーかい?」
「は...はい!!」
自習室で勉強する私に声を掛けたのはハロルド先生。
彼を知らない医師は世界中にいない。
サルマン王立医学校始まって以来の秀才、そして王立医院の副院長を現在は務めている。
私と同じく平民、まさに雲の上の人物だ。
「君はアレックス先生の」
「はい!アレックス先生のお手伝いをさせて頂いておりました!!」
ハロルド先生はアレックス先生を知っておられたのか。もしかして、
「アレックス先生はこの学校で」
「いいや、彼は地方の医学校だよ。
18歳で医学の道に入って24歳から医師になった筈だ」
「そうでしたか、よくアレックス先生の事をご存知ですね」
なぜハロルド先生はアレックス先生の過去を詳しく知っているのだろ?
「彼とは古い知り合いでね、元気にしてたかな?」
「もちろんです!」
ハロルド先生に私はアレックス先生の素晴らしさを熱く語った。
彼がいかに地方医療に貢献し、慕われているかを。
「ありがとう、またアレックスの事を教えてくれ」
「はい!」
こうして私はアレックス先生の事をハロルド先生に時折話す様になった。
しかしハロルド先生はアレックス先生の過去は殆ど語られない。
私はアレックス先生の過去を全く知らないのに今さら気づいた。
素晴らしい1年はあっという間に終わりを告げた。
アレックス先生から手紙は来なかったが、家族からの手紙でアレックス先生の事はしっていた。
多忙極まる生活、私が居ないせいだから、不満を言ったらダメと分かっていた。
「お世話になりました」
「元気で」
医学校の正門前でハロルド先生とお別れ。
ここから馬車で1ヶ月、やっとアレックス先生に会える!
「あ、ちょっと」
「なんでしょう?」
ハロルド先生が呼び止めた。
その表情は何か思い詰めた様に見える。
「もし...アレックスに何かあったら直ぐ僕に教えてくれ。力になるよ」
「...はあ、分かりました」
よく分からないが、とにかく了承する。
何かって?
そんな事は直ぐ忘れて、私は1年振りの故郷に戻って来た。
「ただいま先生!」
期待に胸を膨らませ診療所の扉を開けると、そこにアレックス先生の姿は無く、1人の女性が立っていた。
「サリーさんですか?」
「...はい」
「アレックス先生の後任、マリナと申します」
「後任?」
「はい、アレックス先生は一身上の都合で先月診療所を辞められ、私が急遽後任に」
「...はあ」
何も耳に入らなかった。
自宅に帰り、両親に尋ねるが、諦めなさいと言うばかり。
絶望のまま1ヶ月後、医学校を卒業し、私は医師となったが、再び診療所へと足は向かわなかった。
「そうだ...ハロルド先生に」
私はハロルド先生に手紙を書いた。
アレックス先生が消えてしまった事。
医師としての気力が湧かない事。
アレックス先生を愛していた事...
手紙の返事は半年後だった。
そこに書かれていたのは、ある町の住所、
そして短く、[アレックスには手紙を送りました。後は貴方達次第です。]そう書かれていた。
ハロルド先生とアレックス先生の関係。
余計な詮索は止めた。
もう何があっても悩まない。
拒絶されても、構わない。
私は両親にアレックスを探すと言って家を出た。
意外にも反対はされず、父から一言。
『いつかここに帰って来るように』
それだけだった。
馬車が着いたのは小さな山小屋。
旅の途中、ここでアレックス先生は旅人の為の診療所に赴任したと開いたと聞いていた。
「失礼します」
「...どうぞ」
返って来たのは懐かしいアレックス先生の声。
扉を開けた私はそのままアレックス先生の胸に飛び込んだ。
「もう離さないから!」
震えるアレックス先生の腕はやがて私を抱き締めた。