エピローグ 愚かな母の最後 後編
やはりアレックスにはショックが大きすぎた。
母が正気に戻ったのは2日前だ。
分かっていれば王都にアレックスを呼ぶ事はしなかった。
だがこうなっては、どうしようも無い。
「どうする?」
「...ヒューズ様は、この事を?」
「今、父上は辺境の地に居る。
こちらに向かっているが、正気に戻ったのは2日前だから知らないだろう」
「そうですか...」
テーブルに両肘をつき、真剣な表情のアレックス。
最後に1目だけ会うつもりだったのだろう。
やはり母と会うのは止めた方が良いかもしれない。
「無理はするな、お前が幸せに暮らしている事が分かっただけで私は充分だ」
「ハロルド様...」
まだ私の名前を様つけで呼ぶアレックスに、悲しさがこみ上げてくる。
「兄弟でしょ?」
「え?」
「マリア...」
隣に座っていた妻がアレックスに言った。
まさかの一言に私だけでなく、アレックスとサリーも固まった。
「主人とアレックスは兄弟なんでしょ?
様で呼ぶのはおかしいわ」
「...そんな畏れおおい」
「そんなに気を遣わないで、子供達はすっかり仲良しなんだから」
「それは...」
「申し訳ございません」
益々萎縮するアレックス達に、私は我慢出来なくなった。
「アレックス」
「はい」
「私は1度もお前を他人と思った事は無いぞ」
「は、はい」
「母の過ちは母の罪だ、お前にどうこう出来る物じゃ無かっただろ」
「そうですが...」
まだダメか、どうしたら分かって貰えるんだ。
「言ったろ、お前は俺の弟だと。
父親は違うが、同じ母から産まれたのだ。
それで充分じゃないか」
思わず俺と言ってしまった。
だが、自然と口から出てしまった。
「アレックス」
マリアは私の肩に手を置いて、アレックスを見た。
「私達はみんな同じ平民よ、そんな気を遣わないで。ね、サリー」
成る程、さすがはマリアだ。
「はい義姉様!」
「お...おい」
サリーの聡明さは一年間見て来たから良く知っている。
顔は笑顔だが、緊張で足元が震えてて、リスみたいだ。
「さあアレックス」
「あ、兄上...」
「違うな」
「違う?」
さっきまでなら、充分だった。
しかし、今は違うのだ!
「に...兄さん」
「そうだアレックス!!」
本当はアランドと呼びたいが、今はこれで良い。
私はアレックスと抱き合った。
やっとアレックスと和解出来たと実感したのだった。
「行くかアレックス」
「ああ、兄さん」
私とアレックスは屋敷を出る。
家族は待機して貰う。
母はまだ未決囚、罪人未満の扱いだ。
子供達には気持の良い思い出になりそうもない。
「ご苦労様」
「ハロルド様」
「どうだね」
「今は薬で寝ておられます」
「ありがとう」
部屋の前で常駐している医師に現状を確認する。
私の後でアレックスもカルテを見ていた。
「アレックス君だ、私の昔からの知り合いでね」
「宜しく」
医師にアレックスを紹介する。
弟だと言えないのが、もどかしい。
母が現在居るのは王立医院の特別室。
私が私費で作らせたのだ。
母を好奇の目から逃がす為に。
「悪いがみんな出てくれないか、少し三人にさせてくれ。
それと、しばらく部屋に近づかない様に」
「分かりました」
医師は病室内スタッフを全て部屋から出す。
誰も居なくなったのを確認してから私達は部屋に入った。
ベッドに眠る母。
身体は痩せ細り、目も落ち窪んで、顔色も血の気が無い。
身形だけは綺麗にさせていたが、もう死相があらわになっていた。
「思ったより、大丈夫なもんだな」
アレックスが母の頬を撫でる。
死を間近にした人を沢山見て来たからだろう。
だが、眠っていたからこそだ。
「正気に戻った時は?」
「ああ、私を父上と間違っていたよ」
「そうだな、兄さんはよく似てるから」
アレックスは寂しそうに笑った。
父上にアレックスは似る筈が無いのだから。
「今57だったかな...」
「58歳だよ、よく生きた物だ」
発狂から30年、一体母は何を思い生きて来たのだろう?
「兄さんが息子だと?」
「ああ、ごめんなさいと謝っていたな」
「...そうなんだ」
謝るばかりで、会話にならなかった。
本当は少しくらい親子らしい話も...いや、話す事なんか無い。
向こうも気づいたら30年経って、死の床だった訳だし。
「ん?」
「どうした?」
「今、瞼が動いた」
「なんだって?」
鎮痛剤はさっき投与したと書いてあった。
まだ目覚めるには早いが。
「ハ...ハ...」
濁った目でアレックスを見る母だが、ハラウムに顔の似たアレックスを見て、また錯乱しないだろうか?
「ハ...ハロルドなの?」
そうだった、母の視力はもう殆ど失われていたんだ。
そんな事すら忘れていたなんて...いや今アレックスを私だと?
「アレックス、どうやら母はお前を私だと思っているようだ」
小声でアレックスの耳元に囁いた
「まさか?」
アレックスも驚くが、幼い日、私達は声がそっくりだった。
よく母は私とアレックスを間違えていたんだ。
今もそうなのかもしれない。
「母さん、どうですか?」
アレックスは声を落ち着け話し掛けるが、私は母にそんな口調で喋ったりはしない。
「ああ何か...随..ぶん...身体...が楽に」
身体が楽?
ひょっとして母は?急いで母の脈を取った。
「ああ...」
予想が当たった。
もう母の脈は殆ど無く、死が間近に迫っていた。
「待って」
強心剤を取りに行こうとする私の腕をアレックスが握った。
「もう逝かせてやろうよ」
「良いのか?」
「ああ」
小さな声で呟くアレックス。
だがまだ会話らしい会話も、してないじゃないか。
「ありがとう、母さん」
アレックスはポケットから一枚のハンカチを取り出した。
古そうなハンカチには、綺麗な刺繍が施こされていた。
「こ...れ...は?」
「貴女の...父上のハンカチです」
「え...?」
アレックスはどうしてそんな物を?
それに父上とはまさか私の?
「あ...ああ...」
ハンカチを指でなぞっていた母の目から涙が溢れ落ちる。
「ア...ランド...アランド...なの?」
問いにアレックスは何も言わず、じっと母を見つめている。
「...ご...ごめ...んなさ...い、か...母...さんは」
「アレック...」
まだ何も言わないアレックスを見ると、その両目から滂沱の涙が流れていた。
「もう良いよ...」
アレックスが母の手を握る。
そっと、優しく...
「ア..ラ...ンド、ハ...ロ...ル..ド...わた...し..の子...ど....」
「母さん、やっぱり...まだ私は...貴女を...」
アレックスは何かを呟いていたが、途中で私の方に振り返った。
「...逝ったか」
「ああ」
そっと母の腕を離し、その両手を組ませる。
アレックスの涙は止まっていた。
「帰ろうか」
「そうだね兄さん」
病室を出た私達は医師に母の死を伝え、自宅へ向かう。
不思議な程、気持ちは穏やかだった。