エピローグ 愚かな母の最後 前編
サリーと結婚して、5年が過ぎた。
新しい赴任先で共に診療所を盛り立て、忙しいながらも充実した日々。
子供にも恵まれ、私は幸せを噛み締めていた。
「あなた、王都から手紙が」
診療所から戻ると、一足先に帰っていた妻が私に一通の封書を差し出した。
王立医院の蝋印が捺された封書。
これを出せる人といえば、
「...兄上からか」
「ハロルド様から?」
「なんだろう?」
食事より先に読んでしまおう。
娘は先に食べたから問題は無いし。
「こ...これは」
手紙はやはり兄上からだった。
相変わらずの流麗な文字、その内容に固まってしまった。
「どうしたの?」
「...母が危ないそうだ」
「母...まさか?」
「そうミッシェルだ。30年前、発狂した私の母だよ」
手紙には数ヶ月前からミッシェルの食欲が落ち、ベッドから身体を起こす事が出来なくなり、最近は食事すら殆ど摂れなくなったと書かれていた。
「どうします?」
「....私は」
答えが出ない。
手紙には来いと書かれておらず、
[王都行きの馬車を手配した、断っても構わない]とあった。
つまり、私に委ねるという事だ。
「私は貴方の決断に従います。
でも後悔だけはしないで」
「サリー...」
後悔か、今の私を救ってくれたのは間違いなくサリーだ。
そして兄上の後押しがあってこその現在がある。
だから...私の決断は...
「一緒に行かないか」
「それって...」
「来て欲しいんだ、王都に」
「分かりました、診療所は何とか応援を頼みます」
「すまない」
こうして私達家族は王都へと向かう事となった。
サリーにとって7年振り、私にとっては27年振りとなる。
「どうしたの?」
馬車の中、4歳になる娘のナンシーが首を傾げた。
「何が?」
「お父さん元気ないよ?」
「そうか?」
そんな顔をしてたかな?
ナンシーは元気一杯だ。
出掛ける事が殆ど無いからな、ましてや家族では初めてだ。
「王都ってどんな所?」
「...そうだな」
どう答えたら良いんだ?
一応8歳までは暮らしていたが、5歳からは半分くらいハミルトン領で過ごしていた。
今となっては、全てが悪夢だ。
「人がね、一杯住んでるの」
「どれくらい?」
「そうね、私達が住んでる町の何十倍よ」
「何十倍って?」
「えーと...沢山よ!」
サリーが娘に答えてくれている。
でもナンシーには難しかったみたいだな。
「王様が住んでるお家があるよ、凄く立派なんだ」
「お姫様も居るの?」
「ああ、王子様も」
「すごーい」
ナンシーの頭にはきっと絵本の世界が想像されているのだろう。
瞳を輝かせ、愛読している絵本を開いた。
王宮に暮らす王子様と貧しい娘が結ばれるお伽噺、ナンシーの大好きな話だ。
馬車は5日を掛け王都に到着した。
門を潜る時は緊張した。
30年前の悪夢、あの時私達は衛兵達に馬車を引き摺り降ろされ...
「大丈夫よ」
「ありがとう」
どうやら顔が強張っていたようだ。
私の膝の上に眠るナンシーを見ながらサリーが手をしっかり握ってくれる。
その気持ちが無性に嬉しかった。
馬車は一軒の邸宅に止まる。
扉が開き、外に出ると1組の家族が門の前で私達家族を迎えてくれた。
「来たか」
「久しぶりです、ハロルド様」
1人の紳士に頭を下げる。
もちろん直ぐに分かった、27年振りに見る兄上の姿。
少年の面影は消え、風格漂うその姿は王立医院の院長としての物だった。
「アレックス...そうだな、久しぶりだ」
「はい」
兄上と呼ばない事がハロルド様には寂しかったのか?
たが、弟のアランドは死んだ事になっている。
それは分かっている事なのだが...私の心にも寂しさが募った。
「お久しぶりです、ハロルド様」
「久しぶりだねサリー、すっかり見違えたよ」
「そ...それは、ありがとうございます」
7年振りに兄上と再会したサリーは少し困っている。
兄上はサリーが立派な医師となり、母として現れた事を言ったと思うのだが。
「初めまして、ハロルドの妻、マリアと申します」
兄上の隣に立つ女性が頭を下げた。
まさに淑女たる姿、彼女が兄上の奥方、マリア様だ。
兄上が結婚をして、子供達に恵まれているのは手紙で知っていた。
「こちらこそ改めまして、アレックスと申します」
「サリーです」
私達も頭を下げる。
元とはいえ、王族に連なるマリア様からの丁寧な挨拶に恐縮を覚えた。
「可愛いわね、名前は?」
「ナンシーです!」
物怖じする事なく、娘は元気に頭を下げた。
「ナンシーちゃんは何歳かな?」
「4歳です!」
元気に片手で4本の指を立てるナンシーにマリア様は微笑んだ。
「ナンシーちゃん、可愛い!」
「本当!!」
マリア様の後ろに控えていた二人の少女がナンシーに近づく。
彼女達が兄上の娘だろう。
「アンナです」
「レイラよ、宜しくね」
「宜しくお願いします!」
ナンシーは元気一杯に頭を下げた。
随分と練習した娘は少し誇らしげに見えた。
「疲れたでしょう、中にどうぞ」
「まあ入ってくれ」
「ありがとうございます」
兄上達の案内で屋敷に入る。
さすがは王立医院院長の住む邸宅は広大で、私達の住む家とは比べ物にならなかった。
「おっきい!」
中に入ったナンシーが驚きの声を上げる。
サリーもその豪華な内装に言葉を失っていた。
「ナンシーちゃん、こっちで遊ぼ」
「お姉ちゃんが絵本読んだげる」
「ありがとう!」
ナンシーはアンナ様達に手を引かれ階段を登って行く。
行儀よくと言い聞かせたから大丈夫だろう。
「さて、アレックス。
行く前に少し良いかな?」
「はい」
娘達を見送った兄上は真剣な表情で私を見た。
行く前に母の現状を教えるつもりだろう。
私達は一階にあるゲストルームに案内された。
「ミッシェル...母はもう殆ど喋る事が出来ない」
「そうですか」
椅子に座ると兄上は母の現状を話始めた。
喋ると言っても、発狂状態は治ってない母だ。
大した事であるまい。
「最後だが...」
兄上は1つ息を吸い込み、私を見つめる。
隣ではマリア様も。
その様子に私達夫婦にも緊張が走る。
「母は正気を取り戻した」
「...今、何を...」
兄上は何を?
いや、ちゃんと聞こえたが、まさか...
「なぜかは分からない、だが母は今正気だ」
「そんな...」
見送れば良い、それだけしか考えて無かった。
突然の事態にどうしたらいいか、言葉が出なかった。