闇堕ちした私の婚約者
曇天の空。雫がポタリポタリと草原を濡らす。昼間なのに夜の様に暗い。風が止み、鉄臭い匂いが辺りに漂う。目の前の青年が私をまっすぐ見つめる。血塗られた剣が私を斬りつけようと掲げられる。
目の前の青年は私の婚約者だった。私は王女。彼は隣国の王子。両国は私と彼の結婚で1つになる筈だった。だが、両国の和平の儀式を執り行われる際に、彼の父である隣国の王が破棄した。儀式は争いの場となり、戦争にまで発展した。
彼の父と母は儀式の場で討たれ亡くなった。彼の妹は捕らえられ、我が国に監禁されている。彼は行方をくらました。私は彼が居なくて安心した。彼は父を亡くした事で、隣国の王となっていた。だから、我が国の騎士達が生かしておく筈がなかった。
長い年月が経った。彼の国は我が国の属国となっていた。敗戦国になった彼の国に我が国の国民はこぞって酷い扱いをした。虐めという表現が可愛らしく聴こえる程酷い扱いだった。私は悲しんだが、裏切ったのだから当然だと心の片隅で思った。それがいけなかった。見て見ぬふりをしていたから、今私は彼に殺されようとしている。彼は静かに私に問いかけた。
「……憎いんだ。何もかもが。君もその国民も、俺の父でさえ……本当にこの感情は俺のものなのか? 酷く怠い」
彼の顔が歪んだ。だが、剣は掲げたままだ。
「ねぇ。何故。裏切ったと思った? 俺の父がそんな事をするのか? 出立する時に見送る俺の頭を笑いながらぐしゃぐしゃにしたんだ。裏切る人間があんな幸せな笑みを浮かべれると思うのか?」
彼は被害者何だと思う。彼の父のせいで命を狙われている。私は彼は助けたかった。だが、もう無理だ。彼は我が国の騎士達を殺し過ぎた。
しかし、状況はどうやら私の方が死にそうだ。『戦争のない平和な国を作ろう』と私と彼は幼い頃から夢見ていた。ところが、その戦争の当事者になるとは思ってもいなかった。
私だって父を亡くした。今は叔父様が国王になり、私の母を王妃に迎えている。私だって被害者だ。
「貴方のお父様を良い人だと思っていたけど、どうやら違った様ね。息子である貴方がそれを今証明しているでしょう?」
彼は目を瞑った。
「……確かにそうだ。俺たちはどうやら、戦わないといけない運命のようだ。……もう終わらせよう」
目を開くと彼は哀しそうに私に剣を振り落とした。
しぬ!
痛みを覚悟して目を閉じる。……だが暫くしても痛みが襲ってこない。恐る恐る目を開くと、叔父が血だらけで倒れていた。
彼は無感情に「何故かばった?」と叔父に問う。
叔父は虫の息だった。私を庇ったの?
「姪を恨むな。全て儂の所為だ。儂が姪の母に惚れて、欲しくなったから、お前の父を利用させてもらった。……今思うと自分が自分でない様で恐ろしい。……お前のその状態がそれに思えて仕方ない。目を覚ませ。正気を取り戻せ。儂の様になるぞ」
私は信じられない気持ちだった。裏切ったのは彼の父ではなく、叔父だった。そして、彼の状態とは一体?
「叔父様が仕組んだのですか!?」
彼は忌々しげに叔父にとどめを刺した。
「ぐっ!?」
「叔父様!?」
「欲に目が眩んだお前と一緒にするな。俺は冷静だ。お前たちを滅ぼす。それが俺の使命だ」
彼は憎悪がこもった目で事切れた叔父を見下ろす。
「嘘よっ!? 貴方はそんな人じゃない! 平和な時代を望んでいた!」
「……ならば、俺はもう死んでるという事だ。平和なんてこの世界にない。あるのは、増悪のみだ。愚かだ。人間なんて滅んだ方がいいんだ!」
苦しそうに叫ぶ彼。私はもう、彼が彼ではないと悟った。彼は私の首に手を掛けた。
「……せめて俺の手で死んでくれ」
こんな彼をもう見たくない!
私は覚悟を決めた。
「死ぬのは貴方よっ!!」
私は袖に隠したナイフで彼の頸動脈を断ち切った。彼は驚いて私を凝視すると笑顔になった。
「愛してるよ」
「っ!?」
幼い頃となんら変わらない笑顔だった。
そして、彼は倒れた。もう動く事は無かった。
「私だって……」
愛してるわよ。
雨の中、私は暫く彼の遺体を呆然と見ていた。やがて、我が国の騎士が私の元へと来た。
「……王女殿下。御指示を」
母は既に亡くなっており、先程叔父が亡くなった。実質、私がこの国のトップだ。そして、隣国の王も死んだ。彼の身内は妹のみ。妹は我が国で監禁状態だ。我が国と隣国の運命は私に託された。
「……この戦争はもう終わりました。隣国の王女を解放します。そして、隣国の独立を支援します。争いのない時代を作りましょう」
彼は私に望みを託した。私は一生をかけて彼の望みを叶える。彼が死んでも私が生きている限り彼の想いは消させはしない。
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俺の父と母はこの国の者達に裏切り者として殺された。
父と母が裏切る? そんな事は天変地異が起きない限り有り得ないだろう。そう思える程、父と母は優しいし、平和を望んでいた。
だから、だからこそ、その記憶が蘇った今、この国の者達が憎かった。
何故、裏切ったと思った? 誰が、俺の両親を罠に嵌めた?
憎悪の念が身体から溢れんばかりに膨れた。その中には自分のモノではない憎悪も含まれている気がしてならない。
俺は一体。何を憎んでいるんだ?
迷いが僅かに生じた。が、目の前に明確な憎悪の対象が現れた。両親を罠に嵌めたと思われる人物だ。その人物は和平の儀式に立ち合っていた。そして、父に儀式の作法を教えた人物だ。
もしかすると、彼女を庇うかもしれない。
そう思える程、その人物は彼女を心配そうな目で影で見守っていた。
その人物を手にかければ彼女はきっと俺を殺してくれる。
真っ黒な先に僅かな光が見えた。
そして、案の定、その人物は彼女を庇った。
彼女を大事にする気持ちがあるのに、何故俺の両親を罠に嵌めた?
単純に疑問に思った。
返答は彼女の母に惚れたからだそうだ。……そんな下らない感情の所為で両親は死に我が国の民達は奴隷の様な扱いを受けたのか。不愉快だった。彼女が俺を憎む為にも死んでもらった。
彼女には俺を殺してもらわないといけない。こんな俺では平和な時代は作れない。作れるとすれば、彼女だけだ。俺を殺して英雄になってもらう。
剣はすでに無かった。手しか残っていない。彼女の首に手を掛けた。もしも、彼女が反撃しないのならば、それまでだ。平和な時代はこの先も訪れないだろう。
「死ぬのは貴方よっ!!」
彼女は袖にナイフを潜ましていた様だ。首に衝撃が走り、視界が暗転する。彼女の強い想いが憎悪を俺と共に消していく。
ああ。良かった。ちゃんと殺してくれた。沢山言いたいことがあるけど、もうそんなに言えない。だから、これだけは伝わって欲しい。
「愛してるよ」
ずっと、ずっと、この先も愛してるよ。
彼女はきっと平和な時代を作ってくれる。もう俺はいなくなるけど、彼女が生きている限り、彼女に託した俺の想いは消えないだろう。
だから、俺の分まで生きてくれ。