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「三昧」への回帰
仏教には「三昧」という言葉があるが、現代人の多くがその意味するところを知らずに日々をやりすごしている。彼らは消費を通して自らを忘却するのであるが、そこには自分自身になりきることによって自分自身を忘れるという発想が少しも含まれていない。
なりきる、ということは己に対する客観視の放棄だ。
「三昧」、ということは行為の領域において身心脱落し、自らを楽しませることだ。
見ることだけであらゆるものを見通せる、という錯覚は往々にして教養主義がその原因となる。
人生は認識と行為、客観と主観、スランプと成長の絶え間ない連環だ。そこには人間はいつか完全に達するという、キリスト教の弁証法的及び直線的な歴史観の入り込む余地はない。
その対象を好むと好まざるとに関わらず、時計の針の如く、一心不乱に己の使命に没頭することこそ、その個人の魂の救済の道になると私は信じたい。