頑張れ! 乙女。
・頑張れ! 乙女。
<6> 保健室にて バニー・ピンクパンサーの決勝戦報告
乱れた呼吸を整え、私は扉を開けた。消毒液と金属臭が漂う保健室は静かだった。此処に来ると私はいつも疑問に思う。
― 消毒液は理解できるけど、金属臭がするのは何故かしら?
錆びた鉄の血を想わせる臭いではなく、磨かれたステンレスのような臭い。私はそれ程、臭いに敏感な性質では無いのですぐに忘れてしまうのだが、来る度にそのイメージが浮かぶ。
― 檳榔樹さんは居ない様ね。
担当医の檳榔樹さんは聡明な女性だった。機転も利くし、知識も豊富だ。何よりも肝が据わっている。胆力ではこの学園の教師陣の中でダントツだ。いずれ、その理由を、彼女の生き方を聞いてみたいと思っている。
― でも、今日はダメ。
私は白いカーテンで区切られたベッドスペースに向かった。カーテンで隠されたベッドの一つに彼が横たわっている筈だ。私はそうっと、白いカーテン越しに様子を伺う。
― 良かった。眠っている。
彼が横たわっているのを見て、そう思った。掛布がずり落ち、包帯で巻かれた上半身が露わになっている。
― 寒く無いかしら?
若干、低めに設定されていたが、室内は快適で、空調も万全だった。そんな事は要らぬ心配だと分かっていたが、それでも、私は掛け直さずにはいられない。
私は静かにカーテンを潜り、そっと敷布をつまんだ。その時、間近で彼の身体を見る。包帯で隠されているが傷は軽くは無い。バフォメットの逆襲が急所を逸れ、致命傷を負わなかった事はラッキーでしかない。
― ごめんね。
私は言葉に出来ない気持ちを抱えていた。世界にこんな気持ちは幾つあるのだろう。解決方法は簡単だ。だが、その結果が怖い。
「………。 先輩。いつからそこに居たのですか? 」
前触れもなく彼が目を開いた。至近距離まで顔を近づけていた私は飛びあがる程、驚いた。彼の黒い瞳が私の瞳と交わる。突然の冷静ではいられない状況に、私は冷静を装う努力をする。
「うん、ちょっと前からカナ」
飛び出しそうになった心臓を呑み込み、さりげない振舞で私は彼の身体に敷布を掛けた。通常、折れている左耳がピコン、と跳ね上がった事に、彼は気づいただろうか。
「そうですか。起こしてくれれば良かったのに」
起きようとする半身を制し、私は彼をベッドに戻した。呑み込んだ心臓の激しい鼓動は静まりそうも無い。
「いいのよ、イイもの、見れたから」
余裕のつもりのウインクが多少、ぎこちなくなってしまった。
「良いもの、って何ですか?」
「キミの寝顔よ。可愛かったわ」
「先輩、からかわないで下さいよ」
私の制止を拒みながら、彼は半身を起こした。私の腕に触れた彼の指先は厚く、固く、熱い。そして、再び瞳が重なる。
― ヤバ、泣きそう。
無性に頬が、額が、目が熱くなる。私は冷を求めて目を逸らす。その先に彼の身体が有った。包帯の上からでも、細く十分に引き締まった肉体であることがわかる。赤く火照っているであろう顔を上げられず、私は横目で彼を見た。解かれた黒髪が顔にかかって、セクシーだった。
「試合は申し訳ありませんでした。負けちまって」
彼の謝罪に私の顔は一気に熱を失った。ガバリ、と顔を上げる。
「勝負は時の運、已む無しよ。さっきも言ったでしょ、何度も言わせないで」
先程までの“のぼせるような熱”があっという間に消失する。落胆と云っても良い程だ。だが、この場はその方が良いのかもしれない。
「そうでした。済みません」
「分かった、分かった。もう十分」
実は私は知っていた。彼がくどい程、謝るのは只の恰好だけで、本当は早く決勝戦の結果が知りたい為の催促である事を。
「それで、先輩。観てきてくれましたか? 」
そう考えた途端、彼が口火を切った。私は何者かに心臓が握られたような痛みを感じる。
「も、モチロン」
胸の痛みを訴える叫び声、泣き声、喚き声。その何れかでも発する事が出来たら、私はこの痛みから少しは逃れる事が出来ると思う。だが、全ての行為の先には、結果がある。私はそれが怖かった。それが怖くて今迄、耐える事しか出来なかった。
傷を負った彼を追いかけ、私が此処に来た時、和十君は檳榔樹さんと言い合っていた。
『治療は後にしてくれ、決勝戦が見たいんだ』
とんでもない事だ、と必死に拒否する檳榔樹さんの後ろに立ち、私の心臓は握り潰される痛みを発していた。傷口から溢れ出る血液より、もっと沢山の想いが彼の身体から流れ出るのを見たからだ。
勘が働いた。頭に一人の女子の名前が浮かぶ。感情を表さない彼がこれ程になる理由は、その女子が原因に違いない。
― デル・ツヴァイリヒト・ボロックス。
勿論、ただの勘でしか無い。が、女の勘は全て“確信”へとなる。
「二階堂君。君は治療を受けなきゃダメよ。試合は私が見て来て、報告するから」
この時の私は純粋に彼の身体を案じた先輩では無かった。
「いや、しかし。僕はコロシアムに行きたい。傷の治療は観戦の後でも構わないんです」
「絶対に駄目よ」
痛む胸をさすりながらも至って普通に、極めて冷静に私は良識のある先輩を演じる。
「早く治療しなければ刀すら握れなく身体なるわ。それでも、構わないの? 」
「そ、それは」
答えは一つだ。完璧に誘導してしまった。“刀”や“彼女”を使わないと誘惑できない事が悲しい。
「困ります」
「だとしたら、治療が先よね」
叫びたくなる程の痛みに耐え、私は演じ続けた。自身の演技力に自ら驚きながらも、私は檳榔樹さんに彼の治療を託す。
「檳榔樹さん。二階堂君の事をよろしくお願いします」
そして、私は彼に背を向けた。
― デル・ツヴァイリヒト・ボロックスなんか、ナニよ。
保健室の扉を閉めた瞬間、目から涙が流れた。頬を伝う一筋、二筋の涙をぐいぐい、と拭い、私は気を引き締めた。
― さて、
私は再び走り出す。今度は逆方向、コロシアムへ向かってのダッシュだった。
「約束したじゃない。ちゃんと、観てきたわ」
「ありがとうございます。それで? 」
結果を急ぐ彼を私はじらした。本人にはその気が無くても年上の私を手玉に取る彼に、この位の意地悪はしても構わない筈。いや、むしろしなければならない。
― でないと、ね。
彼の言葉一つで、私は泣き出してしまうだろう。
「順に話すわ。でないと私の時間が無駄になる。そうは思わない? 」
まず、上から目線の言葉で虚勢を張ってみた。
「そうですね。先輩のお時間を頂戴したのですから。わがまま言って済みませんでした」
「良い子ね、その通りよ」
ツッコミどころ満載の虚勢だった。
試合の結果をズバリと示せば、あっという間に約束は終了する。そして、彼は立ち去るだろう。私たちの時間は二分程度であっけなく終わる。あとは、考えたくない。
― 弱気よね。
そう。私は彼の前では絶対的な弱者なのだ。
「決勝戦も今迄の試合と似たような始まり方だったわ。開始前にバフォメットの馬鹿な振る舞いが延々と続いてね。クドイ程に見せられたモノだから、飽き飽きした観客が騒ぎ出してね。それでやっと試合が開始されたの」
彼は黙って頷いてくれた。
保健室の中、白いカーテンで区切られた、このベッドスペースには私と彼の二人しかいない。その小さな、白く、静かな空間に浮かぶ私の言葉を彼は頷き、聞いてくれる。私はこの現状を大切にしたいと、心から願った。
「知っていると思うけれど、決勝戦はM・J・クラリスとデル・ツヴァイリヒト・ボロックスの対戦よ。大概の観客はクラリス優勢と判断したみたいね。彼女は苦無先生のお墨付きだったし、あれ程のパワーを見せられたら、流石にネ」
ややクラリス側に傾いた私の言葉にも彼は頷いた。否定する事も無く、彼女を擁護する訳でもない。だが、彼の沈黙は正直、私には重い。弱気に浸かった頭では、辛い想像ばかりが浮かんでくる。
「決勝戦、クラリスはジャージ姿で現れたわ。それも仕方なしよね、エンジュとの試合で着ていた制服がボロボロになったのだもの。でも、小豆色のジャージを着て、三つ編みのお下げを垂らした眼鏡娘をイメージできる? まんま、田舎娘だったわよ。純朴ってコトバ、彼女にぴったりよ」
「先輩には試合服等、色々と準備をして貰ったのに。俺達、不甲斐無い後輩で申し訳ありませんでした」
ペコリ、と彼が頭を下げる。何度、謝られても嬉しくは無い。謝られる度に『この話は終了。話を進めてくれ』そう宣言された気持ちになる。でも、沈黙でいられるよりずっと気持ちが楽でいられる。
「勝負は水物、何度も言わせない。でも、やっぱり、ちょっぴり残念カナ。あ、違うのよ。そりゃあ、あなた達が負けた事は残念だけれど、それよりも、私が準備したモノが全然役立たなくて残念って事だから」
「そんな事、有りませんよ」
「え? 」
彼から発せられた言葉に戸惑った。その言葉は気のせいなんかじゃ無く、確かに、確実に少しだけだけれど、間違いなく温もりがあった。
「エンジュは分かりませんが、俺には無駄じゃありませんでした。あの詰襟に袖を通した事で、先輩の云った『白い覚悟』で試合に臨めました。それに何より」
一旦、彼が言葉を区切る。私は期待する気持ちを抑える事が出来ない。身を乗り出し彼に言葉の先を急かした。
「何より? 」
「何より、助けて貰いました。この白い詰襟でなければ、俺はバッサリ斬られていましたよ」
彼が示すベッド脇の机の上に、畳まれた制服があった。彼の刀もそこに立て掛けられている。
「バフォメットは俺を殺そうとしていました。彼は強い。最強“キング”は伊達じゃありません。だが、攻撃は逸れた。
推測ですが、バフォメットは目が眩んだのだと思います。目が眩んで筋が逸れた。先輩はご存知でしたのでしょう? コロシアム上の激しすぎる光の海を」
「ええ。知っていたわ」
「ありがとうございます。先輩に救われた命です。感謝しています」
ペコリ、と彼が頭を下げる。同じ動作なのに、別の意味が込められた。ただそれだけで、滅茶苦茶に嬉しい。二階堂君の役に立てた事、感謝された事、そのいずれも滅茶苦茶に嬉しく、私の心は一気に膨らんでいった。
「先輩。話の続きをお願いできますか」
「え? ええ、そうね」
だけれど、真顔の彼の言葉で、私の心は再び萎んだ。一喜一憂。私はまさに今、そんな状態だった。
「ジャージ姿はM・J・クラリスの作戦でもあったみたいね。デル・ツヴァイリヒト・ボロックスに対して初めから全パワーの形態で臨んだわ。知っている? 彼女、ミノタウロス系なのよ。実際の姿はとてもマッチョ。ほら、ジャージ生地って伸びるじゃない? 筋骨隆々となった身体にはピッタリよね。しかもパンツ姿だからパンチラとか気にせずに戦かえるわ。一回戦はそれが気になっていた様子が何度もあったし」
「ツヴァイリヒトはどうでしたか? 」
「パンチラの事? 彼女、スパッツ穿いていたからそんな様子は無かったと思うけど」
「そうじゃ無くて」
「嘘! 彼女の下着が気になるのでしょう? キミも、やっぱり、一男子ね。スケベ君」
「違いますって。揶揄ないでください」
「どうだか」
軽く笑い、私は話を続けた。このような場面でユーモアは空しいだけだった。
「対戦の内容だけれど、初めのうちクラリスはツヴァイリヒトのスピードと刀術に翻弄されたわ。手が出せないから彼女は防戦一方の展開が続いたの。
だけれど、固い筋肉を持った頑丈な身体のお陰よね、致命傷を負う事も無く守り切ったわ。それで、ツヴァイリヒトが疲れてきた瞬間を見計らって、一転して攻撃開始。コウ、激しいパンチを繰り出したわ」
情況を真似た疑似パンチを彼に打つ。この拳に私の様々な想いが込められている事に彼は気づいては居ないだろう。
― 嫉妬だ。
どうしてもクラリス側に立った話になってしまう。
彼を喜ばせたいのなら女狼側に立った話をすれば良い。それを分かっている筈なのに、私にはそれが難しい。嫉妬心を悟られることを恐れるならば、やはり結果だけを伝えればよい。だけれど、やっぱり、それは出来そうもない。
「パンチを避けるため、彼女は跳躍したわ、後ろに向かって。でも、それは上手くいかなかったの。で、避けきれず、身体を掠めたパンチで彼女は床の上に投げ出されたわ。とても激しくね」
話を止め、私は彼の顔色を伺う。表情を変えずに彼の口が動いた。
「避けきれなかったのは、何故ですか? 」
「バフォメットよ」
音を立てて彼の表情が変わった。敷布の上で力の入った拳がつくられる。
「背後に居たレフリー、キング・バフォメットの所為よね。その時の状況は君なら想像がつくと思うけれど」
「はい。目に浮かびます」
「それなら、クイズです。その後、バフォメットはどうなったでしょうか? 」
茶目っ気を装った嫌がらせだ。私は本当に意地悪な女だと思う。
「M・J・クラリスの拳が直撃したのだと思いますけど」
「正解。バフォメットもメチャ、吹っ飛んだわ」
空しい笑い声を上げながら私は横目で彼を観察した。彼から先程の硬さは消え、拳も弛んだ様子だ。その意味を私の意地悪な心が容認する筈が無い。
「でも、この時、私、怪しんだのよね」
「レフリーの振る舞いに何か不審点があったのですか? 」
弛んだ拳が再び固くなる。
「うーん、バフォメットはいつも不審点だらけよ。マトモになった方が怪しいわ」
「それでは何に怪しんだのですか? 」
「ツヴァイリヒトよ。彼女にキレが無いのよね。彼女の方が優勢なのに落ち着きが無いの。バフォメットがウザいのは承知していた筈だし。でも、きっと疲れていたのよね、キミとの戦いも激しかったから」
「……… 。 分かりません」
「見ていて思ったのだけれど、試合に臨んだ彼女には迷いがあったわ」
「迷い、ですか? 」
「うん。もしくは、何らかの不安を抱えていた事は間違いが無いと思う。杜撰な攻撃ばかりで集中していなかったもの」
「それ程、乱雑でしたか? 」
拳を握りながら平静を装っている彼を見て、私は嬉しいのだが悲しくもあった。いや、嬉しくも悲しくもないのか? なんだか自分が良く分からなくなってきた。何がしたい、何が嬉しい、彼を、彼女を、自分をどうしたいのか、させたいのか? 私は彼以上に動揺、混乱している。
「和十君と闘っていた時に比べると全然ダメよね。手数が多いだけで一閃の切れ味が全く無いわ。居合って一瞬の切れ味を活かすコトでしょう? 」
「………。 そうです」
「それが無かったのよね、決勝戦の彼女には……… 。所詮は未熟な半端者の狼娘だわ、綺麗なだけよ、彼女って。髪が、瞳が、肌が、顔、容姿が綺麗なだけ……… 。」
混乱は続き、頭の中が真っ白になっていく。
嫉妬、妬みの言葉が尽きると私の話は続かなくなった。次第と空白が増え、結局黙り込んでしまった。彼も同様に何も語らず、敷布の上に目を落としている。
沈黙に押されて背筋が曲がる。前屈みにうつむく私は無性に悲しくなった。後悔の念や罪悪感、寂しさなどが心臓を圧迫して、とても苦しい。永遠とも思える数秒間を、私は涙を堪えながら精一杯耐え続けた。