三ノ章 月夜に吠えよ黒き虎(四)
黄林寺 退魔僧伝
三ノ章 月夜に吠えよ黒き虎(四)
上限の月と星々が観戦する死合があった。
夜の微風も砕け散る、打撃の数々が、超速の攻防と交わる。
貫手/貫手――爪撃/手刀――回し蹴り。
絶妙を極める空手の技が、黒き虎と化した巨躯にて、繰り出される。
たったの一撃でも受ければ、鎧さえ引き千切る威力を持つ。
それが嵐となって叩きつけられる。
だが、一撃とて相手には入ることはない。
ときに払い、ときに受け、ときに躱す。
老いたる身もまた、超絶の技倆を極めた魔人。
防御に徹するどころか、逆にこちらからも、大陸の武術の深奥を見せつけた。
袈裟姿の老骨は、虎が放つ前蹴りを跳躍回避。
だが避けるだけに終わらず、空中に身を翻した刹那、返礼とばかりに、蹴り足を叩きつける。
それも、一撃や二撃でない。
相手へ向けて前方に飛びながら、左右の足が、さながら拳による乱打の如く、壮絶な素早さで蹴り続ける。
「ぬぉ! おお!」
黒虎、これを後ろへ退いて躱す。
が、全ては躱しきれず、鉄壁の廻し受けを左右で行い、なんとか対処した。
ばちぃ! ばちぃ! と、肉が千切れんばかりの音が、腕と足との間で巻き起こる。
老僧が着地し、虎はもう一歩遠くに下がり、腕に受けた衝撃の余韻を噛み締めた。
これまで、双方にどれだけの攻防のやりとりがあったか。
黄林寺大僧正――リュウガイ。
謎の空手使いの武芸者――島崎八郎兵衛。
奇縁にて巡り合った両者は、数え切れぬ技を披露し、静寂の牧場で、灼熱の決斗を演じる。
「いやぁ、こいつぁ驚えたぜえ。今のは、俺の得意技でなあ。南派黄林、無影脚。出せばまず相手は立っていねえんだが。それをああも受け切るたあ。お前さん。本当にすげえ使い手だねえ」
普段の、人前で見せるのとは違う、伝法な口調。
和尚は顎を太い指でさすりながら、これほどの死闘の中にあって、調子に乗った悪童のように笑う。
戦いの危険が分かっていないのか。
それとも、その危険を面白がっているのか。
静かに構える黒き虎、八郎兵衛には、微塵の隙もない。
ふー……ふー……、牙の合間から溢れる呼吸音に、殺意の熱が滲んでいた。
ひとの言葉も忘れ、だが、磨き抜いた、染み付いた空手の技はそのままに、男は獰猛な狂える魔獣の本能に支配されていた。
「――」
和尚は、それを見抜いたのだろうか。
戯れるように吐いた自分の言葉に、反応せぬ八郎兵衛を、しばしじっと見つめる。
そして、なにを考えたのか、ふっと、構えを解いた。
「なあ。そろそろよ、技比べはこのへんにしねえかい」
そう言いながら、ぶらりと、まるで、我が家への家路に着くように、歩きだす。
黒き虎へ、八郎兵衛に向かって。
ゆっくり、一歩ずつ。
「っ!」
八郎兵衛が、驚き、たじろいだ。
あまりにも無防備であり、隙だらけに過ぎたからだ。
それがなんらかの罠なのではないかという警戒は、魔獣の本能にもある。
むしろ獣こそ、ひとよりも警戒心が強い。
やがて、和尚は八郎兵衛のすぐ目の前まで来た。
やろうと思えば、爪でも牙でも、好きなだけ和尚の肉体を破壊できる状態だった。
それでも和尚は、構えない。
【殺せ!】
【殺せ!】
【喰らえ!】
【食い千切れ!】
【引き裂け!】
八郎兵衛の中で、魔獣の雄叫びが木霊する。
だが、彼はそれを、制した。
(黙れ!)
これまで交わした技と技とのぶつかり合いで、八郎兵衛は、今日初めて出会った老僧に、どこか好意さえ抱いていた。
それに『また』ひとを食い殺すなど、彼は絶対にしたくはなかった。
「なあ。今度ぁよお、こいつで比べ合わねえか。技じゃなくて男をよ」
八郎兵衛の内なる戦いや苦悩を知ってか知らずか、和尚は、呑気な言葉と共に、ずいと手を出した。
手は、硬く握り締められていた。
今日までの数十年を、武芸に捧げてきた男の、ごろんとした石の塊のような拳だ。
和尚はその拳を握ったまま、担ぐように、構えた。
「こう~、やってよ。わかりやすくだ。いくぜ」
宣言しながら、思いっきり、腕を振り上げ、振るう。
技など欠片もありはしない。
ただ力いっぱい振り上げ、ただ力いっぱいぶん殴る。
ガキのケンカの拳。
「がぐ!」
八郎兵衛の顔面を、その拳が打つ。
躱そうと思えば出来たろう。
だが、受けてしまった。
次が来る。
そう感じ、咄嗟に防ぐべく構える。
……
………
来ない。
相手は、待っていた。
「どうした。今度はそっちの番だぜ」
和尚は、そう言い、どっしりと立っている。
なんの構えもせず、立って、八郎兵衛を待っている。
なにを待つか。
決まっていた。
一瞬、八郎兵衛はなにか悪い冗談かと思った。
先程まで、あれほどの、超絶の神技で攻防を交わした相手同士だ。
それが今、なんの技巧も存在しない、ガキのケンカをやろうというのだ。
「男の比べ合いだぜ、殴りっこだ、遠慮はいらねえ。八郎兵衛さんよ、あんたの『拳』で来い」
和尚は、にんまりと、悪ガキの笑みを浮かべて言う。
恐怖も怒りも敵意もない、戯れ合う、じゃれあう、クソガキの顔だ。
かつてこの姿へ変形した八郎兵衛を相手に、ここまで対等に接するものなどなかった。
総身を、熱い、堪らなく熱いものが駆け抜ける。
自身の肉体の内で荒れ狂う獣の衝動、魔性の気が生む殺意を、八郎兵衛は意思で捻じ伏せた。
ひととして、男として、この男に応えた。
「応っ!」
迸る声、振り上げる腕、鉤爪は立てず、握り締める拳。
思い切り、力の限り、和尚の顔をぶん殴る。
ごつんと硬い音が響き渡り、和尚は後ろへ下がる。
だが、倒れない。
ふんばって、堪えた。
口からも鼻からも血を流し、にやっと笑った。
「いいぜえ。じゃあ、今度はこっちの番だな」
ああ。
そう思った。
来い。
八郎兵衛は、待った。
そしてすぐに、また、熱く硬い拳が、彼を打った。
殴り、殴られ。
月光の下、和尚と八郎兵衛の殴り合いは、延々と続く。
それが唐突に幕切れとなったのは、殴りかかろうとした八郎兵衛を、和尚が手を上げて制したからだ。
「ちょぉっと、待った」
と。
相変わらず、緊張感のない声で、彼は言う。
言われるままに、八郎兵衛は振り上げた拳を下ろした。
互いに息が荒い。
肩で呼吸し、顔が、腹が、腫れぼったく熱い。
殴る箇所は、主に両の頬か、腹などの胴であった。
防御せず、交互に、やりあう。
そのやり取りに、殺意と呼べるものはなかった。
もしかすると、死ぬかもしれない。
だが、今この眼の前にいる相手は、絶対にそうでないという、いいようのない信頼が、なぜか、あった。
「如何した」
「いえね、お前さん。気づいておられぬようだったから。ほれ、自分の手、見て御覧なさい」
言われるまま、己の拳を見下ろし、八郎兵衛は愕然とした。
針金の如き硬質な黒き体毛は、もうない。
生贄の鮮血も肉もなく、魔獣の呪われた力は、八郎兵衛の体から消失していた。
今の彼は、ただの人間の男の姿であった。
「……」
八郎兵衛は、嬉しいとも、悲しいともつかぬ顔で、己の腕を見続けた。
「あー、それともうひとつ」
「なにか」
「ちょいと、話を合わせておいてくだされよ。ほれ、向こうから来るんで」
「?」
和尚はそう言い、八郎兵衛の斜め後ろの方へ、視線と指を向ける。
振り返ると、その方角から、松明を持った人影が幾つか近づいてきた。
風体からして、この牧場の労働者であろう。
実際、予想そうだった。
「お、和尚様、大丈夫ですかぁ……」
おそるおそる、一番年長と思われる男が、周囲を見渡しながら、問う。
和尚はさも、なにごともなかったかのように、平然と返した。
「おお、これはこれは、楊さん。どうも。朝まで隠れておるのではなかったですかな?」
「いえ、それが……どうしても気になって。それで、和尚様、どうでした? あの、黒いでっけえバケモンは」
「出ましたぞ」
「ええ! そ、それで?」
「しばらくやりあっておったんですが、山の方へ逃げ出しましたわい。ハハハ!」
よくまあ、大ぼらが吹けるものだ。
間近で聞いた八郎兵衛が絶句する豪胆ぶりである。
そして和尚は、やおら視線と話題を、八郎兵衛へ向けたのだ。
「こちらの御仁は、化け虎退治に協力してくださった。島崎八郎兵衛殿という、まあわしの知り合いの武芸者の方です。なあ、八郎兵衛殿!」
「え! いえ、あの……はぁ」
しどろもどろに、八郎兵衛は曖昧な言葉で濁す。
まさか、自分がその件の虎であり、この牧場の家畜を喰らっていたとは、言い出し辛い。
和尚といえば、にやりと、あの、悪童の笑みを浮かべている。
この老僧、どうやら八郎兵衛に話を振って、彼がどう反応するかを楽しんでいる様子だった。
「なんとまあ! どうもありがとうごぜえます」
「いえ……」
なにも知らぬ牧場のものたちは、頭を下げて礼を述べる。
八郎兵衛はなんともいたたまれぬ気持ちになってしまった。
ひとしきり、ニヤニヤとそんな様子を見てから、和尚はさてと話を切り替えた。
「では、わしらはこれで失礼いたしますぞ。またなにかありましたら、いつでも寺へお越しください」
「本当にどうも、ありがとうございます! どうお礼をすればいいか……」
「いやいやなんの! またぞろ托鉢のおりにでも、田畑の作物や食べ物をお分けしてくだされば幸いにございます。では、これにて。ささ、八郎兵衛殿も」
「は、はぁ……」
ぺこりを頭を下げ、八郎兵衛も、和尚の後へ続く。
そうしてふたりは、牧場を後にし、夜の街道へと進んでいった。
不可思議な心地であった。
思えば、山を下り、人里へ来るのも、しばらくぶりだ。
それ以上に、目の前を歩く剃髪の僧形こそ、八郎兵衛を困惑させる存在である。
本当に、不思議な男だった。
あの死闘がなかったかのように、容易く八郎兵衛に背中を見せ、警戒心もなにもなく、悠々と歩く胆力。
退魔の聖殿、黄林寺の名は、日ノ本出身者の八郎兵衛でさえ知っている。
その大僧正、和尚と呼ばわる人物が、傑物というか、年を喰った悪ガキのような老人なのである。
「お、ここいらがいいかな」
おもむろに、リュウガイ和尚が立ち止まる。
見れば、彼は往来にある、一軒の飯屋に目をつけた。
商いをやっているときは繁盛しているのか、店の中のみならず、道に面した外にまで、卓と椅子が幾つか散見された。
夜半の刻限では人影もなく、腰掛ける和尚を見咎めるものもない。
「さあ、どうぞ」
和尚は、自分の眼の前の席へつくよう、八郎兵衛を促す。
逆らう故もなく、言われるまま、八郎兵衛は座った。
「……」
最初、神技の攻防を交え、拳を叩きつけあった男と男が、今は、誰もいない深夜の往来で向き合い、腰を下ろす。
和尚は微笑のまま、懐へ手をやった。
取り出したのは、瓢箪であった。
卓には客が自分で茶を淹れる、西洋式にいうなら、セルフサービス用の安物の茶碗がある。
それをふたつ取り、和尚は瓢箪の中身を注いだ。
「酒、ですか」
匂いでわかる。
かすかな酒気と、甘やかで華やかな心地よい香りが、ふっと立ち上った。
「ええ、実はですな、あの牧場でもし今宵なにも来ねば、ひとりでこいつをやろうと思っとったんです。なにせ、ねえ、今夜はいい月だ」
「……」
八郎兵衛は、またも、驚かされた。
天下の黄林寺の大僧正が、まさか酒を飲むとは。
宗派により異なりこそするものの、原則出家した僧侶は肉食も飲酒も禁じられているはずである。
ぐっと一杯、和尚は自分の分の茶碗を傾ける。
「かぁ~、うまい」
俗欲の穢なにするものぞ、和尚は酒を挿れた茶碗を、ぐいと八郎兵衛へ差し出した。
「どうぞ、一杯」
「では……いただきます」
僅かに迷ったが、八郎兵衛は和尚より茶碗を受け取り、飲んだ。
そして――脳髄の芯まで痺れ上がった。
舌が。
鼻が。
いや、喉から胃の腑、血管、あらゆる細胞、神経の隅々に至るまで。
島崎八郎兵衛という存在を構成する諸々が、これまで味わったこともない美味と香りに満たされる。
それは、おおよそひとの想像を超えた銘酒であった。
「なんと、美味いっ」
大仰でこそないが、それゆえに真に迫る感銘が、彼を打ち据えた。
もう一口煽り、あっという間に、全て飲んでしまった。
飲み終えて、もう一杯なくなってしまったのが惜しく感じるほど美味かった。
「どうです、美味いでしょう」
和尚は、にやりにやりと笑っていう。
八郎兵衛は頷いた。
「これは、いったいなんです。ただ美味いだけではない、なんというか……全身の細胞が沸き立つようだ」
「それもそのはず。実はですな、こいつは昔、仙道にもらったもんでしてな。神仙が食する仙桃よりこしらえた仙桃酒というもの。これを飲めば疲労回復は元より、体内の邪気も清め、健康そのものとなり申す」
「なんと……神仙の」
またも、驚嘆させられる。
神仙の食する仙桃、それより作った仙桃の酒。
とうてい、人間の手に入るものではない。
この酒からならば、あるいは不死の妙薬さえできるのではないか。
その一杯は、同じ量の黄金よりもなお高価であろう。
かつて同じ酒を求め、数多の貴族が、王族が、己の財の全てを質種にしてでも、国を投げ出しても、欲したものだ。
「さ、もう一杯」
「そんな。恐れ多い、私なぞが」
「気になさるな、なに、簡単にはなくなりぁせんですぞ。ほれ、この瓢箪も普通と違いましてな、実は宝具なんです」
「宝具?」
「ええ、昔悪さをしてた妖怪からぶんどりましてな。湖いっぱい分くらい、この酒を入れてある。ですので、気にする必要はござらん」
なんともまあ。
瓢箪も、中の酒も、そして、その酒を注ぐ男も。
なにもかもが尋常ではない。
呆れればいいのか、感心すればいいのか。
八郎兵衛はすっかり和尚のペースに飲まれていた。
「では、ありがたく」
「どうぞどうぞ」
また一口を飲む。
清らかな氣が、八郎兵衛の身魂を解きほぐす。
それは、聖なる神仙の酒の力もあろう。
だがなにより、共に酒を酌み交わす、男の持つ飄々とした、涼やかさの力のためである。
八郎兵衛は、微笑した。
そうしてから、はたと気づく。
自分がこうも晴れやかに笑ったのは、何年ぶりだろうかと。
「八郎兵衛殿」
何杯か、無心で美酒を飲んだとき、和尚は名を呼んだ。
卓越した神技を誇る無双の武人ではない、伝法な野趣あるそれではない、悪戯好きなガキでもない。
真摯な僧の声音であった。
「貴殿の变化の故。その身に起こる不可思議な力と現象。家畜を喰らう所業。もしよければ、拙僧に事情をお教えくださらんか」
ぴしりと姿勢を正し、相手を見据え、投げかける。
リュウガイ和尚は、茶碗を置き、頭を下げた。
「和尚殿っ」
「どうか。お教えくだされ。不肖、このリュウガイ。きっと貴殿のお力になり申す」
「……っ」
本来ならば、あの牧場での死闘で、相手を討ち取ってよいものだ。
それをリュウガイは、ただのケンカに収め、牧場のものたちに嘘まででっちあげ、八郎兵衛の緊張を解こうと酒盃を交わしたのである。
ひとえにそれは、リュウガイの勘に他ならなかった。
「貴殿の技、磨き抜いた拳法の技倆。あれは決して妖怪变化のものならず。あれはひとの武人こそ成し得るもの。そして貴殿は、拙僧を殺したくないようだった。なにか事情がおありなのでしょう」
「……」
「またあのようなことがあれば、今宵のようには済ませる自信がない。家畜は農家や牧場の人間にとって、掛け替えのない財産。拙僧とて退魔僧としての義務がある。八郎兵衛殿」
八郎兵衛は迷った。
同時に、胸の奥よりこみ上げる、深い喜びがあった。
これほどの男に、案じられるとは。
人間として扱われるとは。
己のような最低の罪人がである。
彼は、応えるよりなかった。
「わかり申した……我が生涯の恥ですが。どうか、お聞きください」
私はこの地を遥か離れた国、そう、日ノ本です。
武家の産まれですが、私の一族には、呪いのようなものがありました。
あの黒き虎への变化はそれです。
古の昔、我が一族は、さる獣神と取引を交わしたのです。
神の持つ凄まじき力、想像を絶する魔獣の本能と肉体を、一族代々、血脈と共に受ける。
それにより、我が一族は合戦にて無双の働きを成してまいりました。
ご覧の通り、一度变化すれば、力も素早さも常人のそれを超え、回復力はもちろん、妖気に満ちた体皮も鎧兜を上回る。
かつては、この身に宿る力を誇りにもしたものです……
私は、琉球にて修行し、空手を収めました。
そして、我が師の娘を嫁にもらい、娘も設け、主に仕え、満ち足りた日々を送っていた。
はずだった。
それが虚しく消え去ったのは、さる戦のおりでした。
敵は……いや、名など挙げても意味はありますまい。
戦上手の名将でありましたが、下衆なやり口を好む男でありました。
敵将は、我が方を兵糧攻めの飢餓地獄で攻めたのです。
無数の敵に囲まれ、日に日に減っていく食料と、味方が来るかどうかという不安に、兵も民も無限に続くような酷烈さを味わった。
幾日か過ぎた頃でした、我が方は、このままでは埒が明かぬと、決死隊を作り、こちらから打って出る作を考えたのです。
突撃の前日、私は、妻と娘と、夕食を共にしました。
それが最後になるかもしれぬ食事です。
私は、あの力がある、妻と娘に多くの食事を譲り、飢餓のままでも挑む腹づもりでした。
まさか、そのときに……敵方の奇襲が来るなど、考えられるわけもなかった。
後から知ったことですが、こちらの参謀が敵へ寝返り、敵兵を引き入れ、合戦で名を上げていた私の家を教えたらしい。
突然の敵の攻撃に、当然、私は反撃しました。
獣化してです。
貫手の鉤爪で肉を抉り、さらに牙を突き立て引き千切る。
口に中に、敵の血肉の味が広がったとき。
私は……
わたしは……
自分の中で爆発した、獣神の、魔獣の力を、本能を、抑えきれなかった。
飢餓の苦しみにあった私の心身は、あっけなく崩壊したのです。
ただただ、狂った。
ひとではなく、獣になって。
誰かに殴られ、ようやく意識を取り戻しました。
義父、我が師です。
なぜ師に殴られたのか、私は自分の爪で引き裂いたものを、喰らったものを見て、わかりました。
妻を、殺し、喰らっていたのです。
私は、愛する女を、自分の妻を、殺して喰らったのです。
私は……私はっ
畜生なのです。
外道なのです。
娘が、泣きじゃくりながら私を見ていた。
耐えられなかった。
私は叫び、飛び出した。
もうどうすればいいかわからなかった。
私は囲いを飛び越え、敵方へ突っ込みました。
翌日仕掛けるはずだった奇襲ですが、私ひとりですが、どうでもよかった。
ただ死にたかった。
結果は、この通り。
私は死ぬことさえできなかった。
どうなったと思われます?
散々敵に斬られ撃たれ、射られ、法術士の使い魔さえ食い千切り。
気がついたときには、敵将の首を取っていた。
こんな滑稽な話がありますか。
こんな……
こんなことなら、私ひとり、とっとと敵陣に突っ込んで、死んでいればよかったのだ。
こんな……
私は、もう戻れなかった。
それからただ、放浪し続け、逃げ続けたのです、全てから。
いつしか、海を渡り、この国へたどり着き。
山の中で住み。
朽ちたかった。
けれど、獣神は餓え、渇き、生贄を求める。
そのために、抑えきれぬ力に流され……家畜を喰らっておりました。
山の大きい獣は、ほとんど喰ってしまったので。
「それが、この島崎八郎兵衛の、くだらない人生でございます」
「……」
男の語る過去に、リュウガイ和尚は眉根にしわを刻み、ただ黙る。
気休めに慰めていい話ではなかった。
想像を絶する過去の傷である。
己の手で、己の妻を殺し、喰らってしまうなど。
それも、娘の眼の前で。
地獄に等しき苦しみであろうことは、容易に知れる。
和尚は沈黙を守った。
やがて、うなだれていた八郎兵衛が、顔を上げる。
「リュウガイ和尚殿。御坊の黄林寺は、歴史ある退魔の聖殿とお聞き申す」
「はっ。それなりに、歴史ならば多少は」
「無礼を承知で、お願いしたいことが」
「お言いください」
ふたりは目を合わせた。
八郎兵衛は、頭を下げて願った。
「もはやいつ朽ちても惜しくない身……ですが唯一の心残りは、我が一人娘、真鶴のことです……我が一族のこの獣神の力は、代々継承される。私が死ねば、次はあの子だ。それだけはなんとしても防ぎたい! あの子だけは……」
「その呪いを解く方法を、と?」
「はい。法術や呪術にも、明るいとお聞きします。もしなにかあれば……なんでもいい、お教えください! どうか!」
「相手は神の力だ。どんな代償があるか、わかりませんぞ」
「承知の上です!」
叫んだ。
魂の叫びであった。
何年もの間、獣同然に暮らしてきた、命も誇りもかつてなくした男だった。
それでも、娘への愛だけは、まだ尊く胸に秘めていた。
和尚はしばし押し黙り、やがて静かに、頷いた。
「わかり申した」
「本当ですか! かたじけない……っ」
「我が寺に、数多の術に詳しきものがおります。明日、相談してみましょう。どうか今宵は、寺へ参られよ」
「申し訳ござらぬ、和尚殿」
「礼には及びません。ひとを魔性の道より救うのは、我ら黄林寺僧侶の務めだ」
静かに告げる和尚の言葉に、八郎兵衛は震える。
和尚は痛ましげに、彼を見つめ、やがて瞑目し、数珠を手に合掌する。
「貴殿の罪、亡くなられた奥方の魂が、せめて御仏のお慈悲があればよいが」
「……っ」
ただの慰め、気休めではなく、心の底から、和尚は呟いた。
天に光る上弦の三日月だけが、ふたりを見つめていた。
それが、三年前の一夜である。
「それで……一体、どうなったのです」
和尚らに、青年は問うた。
一連の事件に深く関わることになった男、ゲンコウである。
答えたのは、同席した小柄な老僧であった。
曲がった背に、手には長い杖。
長い髭、和尚よりもしわがれた顔。
黄林寺一の法術達者、ゲンナ大老である。
「わしが教えたよ、かの御仁にな。神よりの力を外す法を」
「あったのですか」
「ああ。寺の文献に記されておった。だが、完遂できるかわからぬ法でもあった」
「どのような、ものなのです」
「命を引き換えになる呪法じゃよ」
「……っ」
ゲンコウは言葉を失う。
視線を、横へ流し、居合わせたリュウガイ和尚へ向けた。
和尚は、痛ましい顔で、言葉を継いだ。
「それはな、食を断じ水を断じ、無限の飢餓地獄に身を晒しながら、別の生き物に自分の骨肉に宿る妖力を移す邪法であったよ」
「そんな! では……では、あの黒い虎は」
「おそらく、山で捕まえた山猫の類であろうよ。そいつにも、悪いことをしてしまったな……」
「島崎八郎兵衛殿は……この三年間、飲まず食わずで死なず、ずっとその邪法を行っていたのですか」
「ああ、だろうな」
黒虎が封じられていた洞穴の壁に、封印の術符が貼られていたのは、和尚らが渡したものである。
そうして、自分が死ぬまで、延々と術を行いながら、魔神の力を持つ虎は、永劫に封印しておくつもりだったのだろう。
「術は巻物に記し、術の式は八郎兵衛殿の体に直接刻んだ……あの御仁が今日まで生きておったのは、それも、神、獣神の力によって变化したためか。あるいは、壮絶な意思の力の果てに、生きたまま屍と化す亡者と成り果てたか」
「そんな……ことが」
「信じ難いな、だが、実際にお前の眼の前で起こったのだ。信じるしかあるまい」
しばし、和尚も、ゲンコウも、ゲンナも、言葉もなく、沈黙を守る。
視線はもうひとりの人間へ向けた。
小さな肩に。
震える、黒髪の乙女に。
そして、死した武人の名を刻んだ、墓石に。
「娘さん。貴女のお父上は、母上を殺してしまった罪を、継承させてしまう呪いを絶とうと、命を賭して償った。許してやれとは言わん。だが、それだけは認めてやってくださらんか」
和尚の言葉を背に受けて、真鶴は、膝を突いたまま、墓石を見る。
憎い、憎い、殺したい相手だった。
仇だった。
この日のために、祖父の教えを受けて空手を磨いた。
母の恨みを果たしたかった。
だが、もう、こうして彼は死んだ。
自分のために、その身を投げ出して。
島崎真鶴は、小麦色の綺麗な頬を、涙で濡らした。
「くそ……くそっ、くそっ! ちくしょう! そんなの……ありかよっ……」
嗚咽混じりの声が天に向かって叫ぶ。
眼の前の墓石を殴りつけようとして……しかし、できなかった。
怒りをぶつけることさえ、今はもう、無意味に過ぎた。
「お父さんっ……」
ただ、泣くしかできなかった。
悲しくて辛くて、寂しくて。
どうしようもないやるせなさだけが、細い肩にのしかかった。
和尚とゲンナ大老、ゲンコウは、そっと真鶴と墓石の前から離れた。
しばらく、ひとりにしてやったほうがいいだろう。
墓地の入り口のあたりで、三人は立ち並ぶ。
「ゲンコウ、お前どうだい、具合は」
「片目が残っただけ、幸いでした」
「そうか。今まで通りとはいかんだろうが。まあ、お前の才能なら、十二分にまだやれるさ。あの夜に、ずいぶんと上達したみたいだからな」
「いえ、まだまだです」
「へ、言うじゃねえか」
潰れた左目の上に、眼帯をかけ、ゲンコウはその傷跡をなぞる。
まだ痛むが、動くのには問題ない。
和尚の世辞がむず痒いが、それよりもなお、気になるのは、やはり真鶴だった。
あの少女の背景に、あんな過去が、悲しい傷があるとは。
「あの娘は……その、もう大丈夫なのでしょうか。黒猫のように耳や尾が生える体は、獣神の影響でしょう?」
「どうだ大老」
和尚が、視線をゲンナへ向ける。
大老は小さく頷いた。
「一度变化が完了した肉体は、戻らぬかもしれん。だが見たところ、獣神の邪気、妖気はまったくない。八郎兵衛殿の成した術が、あの方の命と共に潰えたのであろうよ」
「そうですか……」
善かった、そう、言っていいわけもない。
一族に受け継がれた呪われた力の代償。
自分の妻を殺し喰らう父。
その父もまた、娘のために命を投げ出したのである。
少女を苛む苦衷、想像を絶して余りある。
ゲンコウは、片目を失うという自分の大事さえ忘れ、ただ、あの娘のこれからのことばかりが、気になってしょうがなかった。
案ずる気持ちに呼応するように、やがて、墓地から小さな影が下りてきた。
黒い空手着に、焦げ茶色の半纏、ポニーテールに結った黒髪、小麦色の肌。
そして、愛らしい顔には、寂寥と喪失の影を濃く落としている。
初めてゲンコウが出会ったときの、あの活発な獰猛さは、まるでない。
泣き腫らした目元の赤い跡が、痛々しかった。
「和尚様、その……いろいろありがとう。お墓のこととか」
「いえ。なんの」
「これからどうなさる」
「……」
一瞬、真鶴は言葉に詰まった。
彼女自身、これからの生き方というものを、なにひとつ持ち合わせていなかったのだろう。
ふっと、視線を空へ。
遠くへ向けた。
「もう爺ちゃんもいないし。しばらくこのガンダーラにいようと思ってる。父さんもひとりにしておけないし」
「左用か。ならば、ここを訪ねてはどうかな」
「?」
おもむろに、リュウガイ和尚は袈裟の懐より、一枚の紙片を取り出し、真鶴へ渡した。
そこには、和尚の紹介を記す旨と、住所が書いてあった。
「わしの知り合いのひとりでな、飲食店を営業している。女人の給仕を探しておるようでな、よければどうか。住み込みでも働けるであろう」
「じゃあ、行ってみます。本当にありがとう。じゃあ……」
そういって、真鶴は踵を返し、街のほうへと向かった。
一瞬、ちらと、ゲンコウのほうを見る。
自分のために永遠に片目を失わせてしまった彼に、なにか言いたげな横顔を見せるが、しかし、結局なにもいわず、立ち去った。
ゲンコウもなにか言いたい気持ちになったが、口からはでなかった。
「ふん! はぁあ! だあありゃあ! でええい! せいりゃあああ! うおおおおりゃあああ!!」
朝靄を断ち斬る、轟々と吹き荒ぶる刃光の嵐。
勁力を込めた、穂先の鋭い刃は、ふたつの月牙と、中央の槍先が、白銀の冴え冴えとした輝きに染まっていた。
方天戟である。
それを振るい、凄まじい速さと迫力とで、早朝の広間で、鍛え抜いた肉体を、さらに鍛え上げる、男がひとり。
剃髪した僧形、筋骨隆々の若人。
やがて、ひとしきり肉体を突風の如く吹き荒れたのち、青年はぴたりと穂先を止め、型稽古を終えた。
「精が出るな、ゲンコウ」
背後で見ていた師が、ふいに、声をかける。
青年――ゲンコウは振り返る。
「はっ! おはようございます! リュウガイ和尚様!」
溌剌と、活力と気力とに満ち溢れた声が、冷たい朝の空気を引き裂いた。
以前よりもさらに経絡で練った気功が研ぎ澄まされているのを、和尚の慧眼は見抜いたか。
どこか嬉しげな微笑が、老骨のしわがれた顔にある。
「ゲンコウよ、今日がなんの日かわかっているか」
「はて、なんでしょうか。しかしみんな遅いですな! もうこんな時間なのに!」
はて、前にも、似たようなやりとりをした気がする。
和尚は苦笑しつつ、顎を掻いた。
「今日は休みだよ、稽古は。みな思い思いに過ごしておる」
「はっ! 忘れておりました!」
「そうか。なあおい、お前も今日は街にでも行ったらどうだ」
「街、ですか」
その言葉に、ぴくりとゲンコウは反応する。
実のところ、彼にも気になることが、街にはあった。
ただ、なかなか向かう機会がないだけだ。
それを、和尚は促していた。
「ほれ」
「これは?」
紙片であった。
ある店の住所が、そこには記されていた。
「あの娘っ子が、働いている場所さ。顔でも見てきてやんな」
「え! で、ですが、その……俺は」
「なあに、なんの事ぁねえ、ただの茶店だよ。茶でも一杯飲んでくるだけだ」
「はあ……」
(結局、来てしまった)
人混みでごった返すガンダーラの街を、屈強なる長身の五体が歩く。
左目に黒い眼帯をかけていることで、以前にも増して、勇ましい顔立ちが厳しくなっている。
だが、むしろ鋭さも研がれており、その顔で甘い笑顔でも見せれば、女も引っ掛けられそうだが。
当の本人は、女と遊ぶ慣れも気概もない、ただの無骨で素朴な男だったから、無理だろう。
紙に書かれた住所を探し、歩くこと二十分ほど。
ゲンコウは、目的の店の前にまで来て、じっと、店名を見た。
そこにはこう書いてあった。
――『イサカ侍従茶店』
――『当方激萌女子侍従接待在』
困惑した。
ここは本当に茶店なのか。
やたらピンクやら形容し難いハイカラな西洋風装飾が見て取れる。
しばし迷ったゲンコウだが、意を決し、店のドアをくぐった。
そして彼を、予想できなかったものが待ち受けていた。
「い、いらっしゃいませ~♥ ご主人様ぁ♥」
きゃぴ♪ と、ひきつった笑顔で出迎える。
黒髪のポニーテールに、艷やかなな美しい小麦色の肌。
可憐な顔立ちは以前と同じく。
だが、纏っている服がまるで違う。
短いスカート、純白のエプロン、フリルつきのカチューシャ、革のパンプス。
これ以上ない、完璧な侍従さんだった。
それが、今の、島崎真鶴の姿だった。
ゲンコウは思った。
(か、か、かわいいいいいいいいいいいいいいい!!!)
と。
真鶴は、相手が普通の他の客でなく、見知ったゲンコウのそれと知った瞬間、真っ赤になって目を見開いた。
「げええ! お、おま、なんでお前……なんで来てんだよ! この店に!」
見ず知らずの人間になら、まだ我慢して見せられたのか。
顔見知りのゲンコウに侍従姿を見られ、思わず真鶴は手で体を隠す。
だが、到底、可憐なフリルエプロンも、そのエプロンをぷりんと押し上げる豊かな胸も、隠しきれるものではない。
「え、いや、別にその」
「まさかお前、もしかして……あ、あたしに会いに来たのかよ」
どこか、息苦しいような、恥じらうような、しかし、期待もするような、顔と視線であった。
ゲンコウの失われた片目への罪悪感もあるし、あの日、自分のために命を投げ出して戦った男への、言葉にできぬ信頼や……親愛もあろう。
ゲンコウもそれは同じか。
しかし無骨が過ぎる男は、どう言えばいいかわからず、思わず口から言葉が出た。
「か、勘違いするなよ! 俺は別に、天涯孤独になったお前が不安になっていないか心配になって来たわけではないからな! ただ通りかかっただけだ!」
「気になってたのかよ!」
「はっ! な、なぜわかった! い、いや、いい、いや、違う、違うからな、勘違いするな!」
「~っ」
改めて心配されているとか言われると、余計恥ずかしくなる。
真鶴は、はっと気づき、ちらと周囲を見た。
店の常連や、同僚の侍従さんがた、店長の兎亜人のイサカなどが、苦笑いやら、ニヤニヤ笑いをしていた。
こそこそと「なんだ、真鶴ちゃん恋人?」など囁くものさえいた。
「と、とにかくこっち座れアホ!」
「おう」
ゲンコウは、でかすぎる体を、小さな椅子に乗せ、居心地悪そうに侍従茶店というものを鑑みる。
店長が亜人なせいか、他にも獣らしき耳を生やした可憐な亜人の女性が多く見受けられた。
なるほど、だから、時折獣化する真鶴にこの店を紹介したのか。
しかし……
(す、すごい格好だ)
無骨な僧侶、拳法と法力の修行に人生を賭けていた童貞の青年には、あまりに毒。
短いスカートから伸びるしなやかで、肉感的な脚のライン。
西洋伝来のオーバーニーソ。
あるいはストッキング。
フリルをつけたエプロンなどの衣装の、細やかで瀟洒なデザイン。
「ご、ご注文はなんになさいます、ご、ご主人様」
「な、なんだそのご主人様というのは」
「っせえ! こういう規則何だよ!」
しどろもどろになりながら、真鶴はいつもはなんとか羞恥に耐えている営業規則に、今日はぶるぶると震えて赤くなる。
ゲンコウも、想像していなかった事態に赤くなる。
周囲からの好奇とからかいの視線が、それをさらに加速させていた。
しかしながら……恥じらうその姿と仕草が、余計、真鶴の容姿を引き立てる。
思わず、ゲンコウはじっと視線を向けてしまう。
「なんだよ……んな、ジロジロ見て」
「いや……別に」
「どうせ似合ってねえってんだろ」
たしかに、最初会った時の、活発で暴力的な印象と、まるで異なる。
だが、ゲンコウはすぐさま言葉を吐き、否定した。
「いや! そんなことないぞ! 別に可愛いとか思ってないが! 勘違いするなよ! お前がめちゃくちゃ可憐で愛らしくて見つめてしまったわけではないからな! 別に見惚れてたわけではないが! 似合ってるぞ!」
「~~~っ!」
ぼんっ、と。
音が聞こえそうなほど、真鶴は赤くなった。
かつて、これほどストレートに男に世辞を言われたことなど、空手と復讐に生きてきた娘には経験のないことだった。
それが、想像以上に心地いいのが、なおさら、乙女を恥じらわせた。
あまりに無骨で言葉を飾れぬゲンコウのそれも、余計にである。
「は、恥ずかしいこと言ってんじゃねえ、アホ~!」
「え、あの、ごめん」
「素直に謝んな! もう……調子狂うじゃねえか、アホっ」
恥ずかしさのあまり、視線を逸し、顔を伏せ。
だがそのとき、真鶴は、父を失った悲しみや、過去の数多の痛みや苦しみを、少し忘れられていた。
少女の顔には、なんともいえぬ微笑が、湛えられていた。
「なあ、リュウガイよお」
「なんでえゲンナ」
そんな様子を、店の外から眺めていた影がふたつ。
長身で屈強の僧形、袈裟姿は、無双黄林寺大僧正、リュウガイ和尚。
彼の隣で杖を突く小柄なそれは、長年の親友にして、黄林寺のナンバー2、ゲンナ大老だった。
大老は、どこか呆れるような困ったような声で、問いかけた。
「ゴウジンに続いて、ゲンコウまで寺ぁ出ていったら、うちの後継者がやばいんじゃあねえかね」
と。
どうにも、黄林寺の僧侶には、ここのところ女難の相でもあるのだろうか。
先日も、特に腕の立つひとりの中級僧が、市井の女人との恋慕の果てに破門している。
するとリュウガイ和尚は、さてはてと、苦笑する。
「ま、若えやつは、好きに生きていいんじゃあねえか? なに、俺とお前が、あと三〇年ばかし現役やってりゃあ、その間にまた腕の立つもんが出てくるさ」
「へ。勝手言いやがらあ」
「ふふん」
弟子たちの前では見せぬ、気心の知れあった親友同士、本気なのかふざけているのか知れない、伝法な言葉を、ふたりはじゃれあった。
老僧ふたりの前で、若き屈強な僧と、乙女は、あの日の苦しみから解放され、日々の平穏を享受していた。
燦々と、天に澄まし顔を見せる、上弦の三日月が銀光を滾り落とす。
大地には、濃く、硬質な輪郭の影が、月下に刻まれていた。
立ち並ぶのは、それぞれに名を刻んだ石造りの、死者の住まい。
墓石であった。
その、夜の墓地を、一個の僧形が進む。
老骨ながら、鍛え抜いた肉体に、袈裟を纏う男。
黄林寺大僧正、リュウガイ和尚そのひとである。
和尚はひとり、孤影を地に刻みながら、ひとつの墓石の前に止まった。
そこに記された名を、見つめる。
島崎八郎兵衛。
数奇な運命の果てに、異国の地で死したる武芸者が、そこに永の眠りを得ていた。
しばし墓石を見つめ、おもむろに、和尚は腰を下ろした。
「八郎兵衛殿よ」
ふっと、話しかける。
まるで、生者と言葉を交わすようだった。
「娘さん、真鶴殿は。壮健だ。元気でやっとるよ。まあ、うちの若いのと仲がいいのは、親父さんの貴殿から見て、どう思うかは複雑であろうがね」
和尚は笑う、からかうようなのか、茶目っ気のある苦笑だ。
懐に手を入れると、彼はそこから、ひとつのものを取り出した。
瓢箪である。
かつて、邪悪な妖怪から取り上げた宝具である。
本来はあらゆる対敵を封じるものであったが、今や、携帯式の無限の酒蔵としてだけ用いている。
そこに秘められている、黄金よりもなお価値があり、数多の王族が国を売ってでも欲しがった神仙の美酒。
和尚は、瓢箪から、同じく懐から出した盃に、その酒を注いだ。
それをどうするか。
和尚は、微塵も惜しまず、仙桃よりこしらえた酒を、生命なき墓石に注ぎかけたのである。
「どうぞ、一杯」
当然、墓石は答えない。
だが、構わない。
そこに眠る魂を、慰めたいだけだった。
神の酒を、今度は、和尚が一口だけ、舐めるように飲む。
あの日の、あの夜のように。
しばし、美酒の余韻に耽り、和尚は月を見上げた。
昔日の空を偲ばせる、上弦の鮮やかな三日月を。
「もう一度、貴殿と酒を交わし、拳を交わし。言葉を、交わしたかったですなあ。八郎兵衛殿」
しみじみと、老僧は呟いた。
精魂を込めて練り上げた技巧を、死闘の中でぶつけた。
力任せのケンカをした。
酒を酌み交わし、その身に背負う苦しみを聞いた。
一夜会っただけの男だった。
だが、和尚にとって、彼はそれでも、友だった。
一度会っただけの男でも、拳を交えれば、友と呼べる、それが、リュウガイであった。
静かな、風だけがそよぐ墓地の夜。
和尚は墓石と、向かい合う。
冷たい上弦の月。
その月に、声なき声が、響いた気がした。
黒き虎の吠える、悲しげで嬉しげな、咆哮が。